1796年12月25日、

フリーデリーケの夫ルートヴィヒが、

突然の病気にかかってしまった。

思わぬクリスマスの不幸であった。

そしてその3日後の28日には、

帰らぬ人になってしまったのである。

 フリーデリーケは、17歳で未亡人になってしまったのである。

 2人の息子のフリッツ・ルイも、

翌年には3歳を迎える所であった。

フリーデリーケは深い悲嘆に暮れた。

ルイーゼも妹の突然の不幸を悲しみ、

妹の事を心配した。

 しかし、フリーデリーケは姉ルイーゼのように、幸せな結婚生活を送ってはいなかった。

 彼女は夫の事を「不実、賭博師、放蕩者」と非難していた。

 このようにフリーデリーケの夫は

兄の王太子とは違い、

放蕩者で浮気を繰り返し、ほとんど妻フリーデリーケを顧みる事はなかった。

 瞬く間に服喪期間が過ぎていった。

 

 

 1797年、フリーデリーケを見て

哀れに思った国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、6月にフリーデリーケを

バートピュルモントでイギリス国王ジョージ三世の息子でフリーデリーケにとってはいとこに当たる、ケンブリッジ公爵アドルフと引き合わせ、再婚を勧めた。

 この旅行にはルイーゼと王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、ルイ・フェルディナントも

同行した。

 

 フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、

息子の妻達の中でもフリーデリーケの方を

より可愛がっていたのだった。

 国王もルイーゼの宮廷のマナー違反には、

日頃から眉をひそめていたのである。

 しかし結局、この縁談はまとまらないで

終わった。 プロイセンの平和は、

やがてナポレオンの出現によって

脅かされていく事になる。

 

 

 

ナポレオン・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルト

 ナポレオン・ボナパルトはロベスピエールの処刑後、 巧妙な策略と天才的な軍事的才能と講和の才能で急速に頭角を現していった。

 1797年にはサルディーニャの国王を

降し、これによりオーストリアは打撃を蒙った。

 しかし、プロイセンは外の世界がこのように荒れ狂っていた頃の中の、オアシスのような

場所だった。

 無風状態でイギリスなどと世界貿易を行なう以外は引きこもった、素朴で時代遅れの古風なロココ的な生活を送っていた。

 しかし、その内ナポレオンの世界帝国のために、夥しい血が流され始め、三色旗の下に

ヨーロッパ諸国は強引に統合させられた。

愛国者ルイ・フェルディナントはナポレオンの動きを警戒し、フランスとの対決姿勢を強めていく。

 

 

 バーゼルの講和締結の年、

ベルリンではヴァイマルを凌ぐ、

才能豊かなドイツ・ロマン派の文学者達が

増加していった。

 クライスト、ハルデンベルク=ノヴァーリス、アヒム、ド・ラ・モット・フーケー、

シャミッソーにアイヒェンドルフ、ティーク、

ブレンターノ、シュライアマハー、

フリードリヒ・シュレーゲル、ホーフマン。

 また他方ではブルジョワ階級のサロンも隆盛した。特に、ラーエル・レーヴィン=ファルンハーゲンとドロテア・シュレーゲルのサロンが評判が高かった。中でもラーエルのサロンには文学者、アレクサンダー・フンボルトなどの

科学者、外交官のゲンツなど、

多様かつ著名な人々が集っていた。

ルイ・フェルディナントは、

そのメンバーの中で唯一の王族だった。

ラーエル・ファルンハーゲン
ラーエル・ファルンハーゲン

 ラーエルのサロンは、様々な階層の人々が

集う場所ながら、平等で自由な雰囲気の

支配するサロンであった。

ここでは身分が意味を持たず、

各々の教養・思想で判断が下されたのである。

 アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルは、シェイクスピアの翻訳を始めていた。 

このようにベルリンでは、

豊かな文化が花開いていた。

 そしてそれは文学だけでなく、

音楽・絵画や劇場などにも及んでいた。

 

  一方、宮廷でも王妃ルイーゼの、その自然で優美で偏見を持たないという人格は、

まさに当時のベルリンのサロンで追求されていた理想的人格そのものであった。

このため、ルイーゼ王妃は、ベルリンのサロンに集う人々からも、熱狂的に 歓迎されたのであった。また、後にルイーゼはドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルやハインリヒ・クライストなどと交流するようになり、 彼女はほとんどそのまま、サロン社交が掲げる目標に対する、最高の後援者となった。

また、ルイ・フェルディナント王子の姉の

ルイーゼ・フリーデリーケがこの頃から主催していたサロンも、影響力があり、かつ長続きするものとなった。