ヘンリエッテ・ヘルツ
ヘンリエッテ・ヘルツ

ヘンリエッテは、1764年の9月5日に、

ベルリンのユダヤ人医師ベンヤミン・ド・ルモスの

娘として生まれる。

ヘンリエッテは、幼い頃から大変に利発でまた、

美しい少女であり、常に人目を引く存在だった。

1779年の12月に、すでに二年前に婚約して

いた、17歳年上のユダヤ人医師のマルクス・ヘルツ博士と結婚する。彼はベルリンのトーラー筆記者の息子で、ケーニヒスベルクで哲学と科学を学ぶ。

そしてヘルツは、カントの愛弟子であり、

1774年に博士号を取得した後、

ベルリンのユダヤ人病院の医師になった。

彼は文学者レッシングの友人でもあり、

優秀な医師であると共に、名声ある哲学者、

著述家、自然科学者でもあった。

マルクスは、妻の読書好きを認めていたが、

当時の他の女性達の例に漏れず、

ヘンリエッテ・ヘルツも当時彼女達の間で好まれていた感傷小説を読んでいるのを知ると、

啓蒙主義者らしい教育熱から、

妻がもっと真面目な書物にも親しむように

つとめた。そして、この彼の導きは、成功する。

ヘンリエッテ・ヘルツが、今では両親の家に

いた頃とは違い、読書に耽っても原則的に

禁止されない事を知り、喜んでいたからだ。

ヘンリエッテは夫ヘルツの提案で、

例えば著名な数学者のレーオンハルト・オイラー

の「あるドイツ公女への書簡」を読んでいる。

これは物理学や哲学の諸問題を扱った高度な

内容の本であった。

また、ヘルツは妻の外国語への関心を伸ばして

やったが、これによりヘンリエッテにはとても優れた

語学の才能がある事がわかった。

そしてヘンリエッテの方は、夫のすばぬけた教養を、尊敬していた。彼女の夫のヘルツは夫であり、

彼女の良き教育者でもあった。

ヘンリエッテは、時には夫が行なう物理学実験の助手をつとめる事もあった。

彼女が1820年代から書き始めた回想録によると、当時の結婚生活について、彼女はこう書いている。「私達が結婚した頃にはすでに、ヘルツは医者として尊敬されていた。そして間もなく、彼の名声は高まり、私達は、彼が医者として診療した、

そのほとんどが非常に尊敬に値する多くの家族との社交的な関係を持つようになった。

間もなく、彼は私達の家で哲学の講義を始めた。

この講義には選りすぐりの人々が参加した。

そして、彼はこの聴衆の中から、彼が興味を抱いた

有能な人物をときおり夕食に招待したので、

私達の社交的な結びつきはますます有益な形で

広がったのだった。後には、実験を伴う物理学の

講義も付け加わり、これは特に好評であった。

この講義では、すばらしい機械や器具が使われていた。そして、最も高い階級の人達、知識欲の旺盛な人達、また単に好奇心に満ちた人達などが、

こぞってこの講義に足を運び、私達の集まりに

最上の名士が加わるきっかけとなった。

この講義には、王(フリードリヒ・ヴィルヘルム三世)の弟達までもが列席され、そして後には、当時五歳

くらいだった王太子(王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、後のフリードリヒ・ヴィルヘルム四世)をも、教育係のデルブリュックが、二、三の興味深い実験を

お見せするために、お連れしたのだった。この幼い王太子に、私自身の手でニ、三の燐の実験をしてお見せした事を、覚えている。」

 

 

 

 

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム四世は、

やがて成人し即位した後も、このヘルツの家での

体験を覚えており、アレクサンダー・フォン・フンボルトにその思い出を語り、ヘンリエッテについては

「非常に才能に溢れた女性」と語っている。

そして1845年には、すでに数十年前に夫と死別

していた、彼女に年金を与える決定をしている。

これは、フンボルトの要請を受けてのものだった。

その後の1846年から、国王の命令を受け、フンボルトが指示を出し、500フリードリヒスドールの

年金が、ヘンリエッテに与えられている。

彼女の、ベルリンで初めて文学サロンを

主催した先駆者としての、そして様々な有意義で

著名な友人達、そして様々な時代と文学の諸潮流及び多様な交友サークルを繋ぐ立場となった

功績が、認められたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンリエッテは、1780年頃から、

シュパンダウ通りで、

サロンを開く。事実上、彼女がベルリンにおける、「ベルリンサロン」創設者と

言っていい。

 

 

このように、この頃ベルリンのサロンは、

フランスのそれより、約160年遅れ、

フランスのサロンとは違う社会的・精神的前提の許に誕生していく。

 ベルリンサロンは、高尚で女性の教養向上を目的とし、文学や音楽や美術の育成も、目的とし、これらがよくサロンでの話題とされた。

そしてベルリンサロンの特徴的な点は、

その初期の主要な主催達(サロニエール)が、ヘンリエッテ・ヘルツなどの、

若いユダヤ人女性達だった事や、

ベルリンサロンの主催者達には、

貴族階級の女性達により発明され、

主催者も貴族女性達であったフランスの

サロンと比べると、教養市民層の女性達が多かった事である。

また、若いユダヤ女性達の多くが

初期ベルリンサロンの主催者になった事には、彼女達が当時のベルリンの階級社会

からは外れた存在、いわばアウトサイダーであったがゆえに、

このような形でサロンという、

また日頃の様々な戒律のある自分たちの

ユダヤ人社会からも離れた、自由な社交

活動を行なう事ができたのである。

一方、ベルリンのキリスト教市民階級の

女性達が、サロンを設立できなかったのは、身分上の制約や、市民社会の窮屈な

しきたりや、家庭の主婦に求められた慎み深さが、妨げになっていたからである。

このように、サロンを設立するに当たり、

当時の若いユダヤ人女性達の方が、

キリスト教徒のドイツ女性達よりも、

遥かに障害が少ないという事の他にも、

大抵彼女達は裕福な家に生まれ、

高い教育も受けているなど、

いろいろな意味で、彼女達の方が恵まれていたからでもあった。そしてこれも、

ベルリンサロンの特徴として、

このような初期ベルリンサロン、

そしてその後のベルリンサロンの土台を

作る事となった、ユダヤ人女性達の多くは、フランスの色濃い教育を受けていた事である。

また、この1770年代には、花開く

ドイツ文学への関心も、

一段と高まっていた。このように、

フランス文化と新生ドイツ国民文学の

両要素が結びつき、ベルリンサロンが、

まずベルリンのユダヤ女性達の家に、

成立する背景となっていた。

当時のベルリン社会とフランス文化との

関わりとしては、

1685年のルイ十四世による、

ナントの寛容勅令の破棄により、

多くのユグノーがベルリンに亡命してきた頃から、本格的な影響が、始まる。

彼らはベルリンのフランス人居留区に

住み、貴族やユダヤ人も含めた富裕市民

家庭の子女教育係として優遇された。

また、プロイセン王家でさえ、

貴族階級の者に限定されるが、

このようなフランスのユグノーの亡命者を教育係として、雇い入れている。

十八世紀末近く、ベルリンの生活文化が

一層の発展を遂げ、定住した亡命者ユグノー達も、三世代目となった頃に、

ようやく、言語的・経済的な諸問題から、大半は専らフランス人居留区に引きこも

って暮らしていた、彼らの排他的姿勢が

一段と崩れてくる。

更にこれを促進させたのが、フランス革命により、プロイセンの首都ベルリンに

押し寄せてきた、新たなフランス人亡命者達の波である。

社交生活は新しい刺激を受け、新しい時代精神の影響で、ユグノーも含めた、

古くからあったベルリンの社交グループは、互いに接近していった。

ベルリンで活躍した、有名なユグノーの

子孫としては、祖父はプロイセンの将軍となり、フリードリヒ大王に仕えたという、ドイツ・ロマン派の作家フーケーや、

著名なサロニエールとなる、ヘンリエッテ・フォン・クレヤンなどが現われる。

このような時代の流れの中から、

ユダヤ人女性達による、自国の社交の伝統を受け継がないで、意識的に外国のモデルと結びつき、しかも手本をフランスから

持ってきた、ベルリンサロンが開かれる事になった。

ユダヤ人サロニエールは、自分達のサロンで、キリスト教の身分社会の中のユダヤ教徒、窮屈なユダヤ共同体の一員という、

二重の制約から解放され、

彼女達のサロンは異なった階級の者達が

入り混じってつきあう、楽しく自由な行動の場となり、参加者にも彼女達自身にも、開放的で寛容で啓蒙された自由な場所を

提供する事ができた。全ての参加者が、様々な方法で、この楽しい集いから利益を得た。読書や最近話題になっているテーマについて語り合ったり、

同じ考えを持つ人々と知り合ったり、

精神的社会的視野を広げる事ができた。

没落した貴族の、裕福かもしれない

魅惑的な若い女性達との出会いや、

女性達の、魅力的な崇拝者や富裕な結婚

相手との出会いなど。

また実際にも、サロニエールあるいは

サロンの女性客達が、貴族との「玉の輿」に乗る事も、多かった。

基本的には、サロンの客である事、また自身がサロンを開けば尚更、それは女性に

とって社会的に能力を認められ声望を得る

可能性を意味していた。

 

 

 

 

このベルリンサロンでは、他の都市のサロンに比べると、総じて「本物」・「内的に真実」・「自然さ」という事が追究された。

 

 

 

 

 

ヘンリエッテの夫のヘルツは、哲学や物理学に

関する講義と談話の夕べを自宅で定期的に催しており、この集いにヘンリエッテも、学者や大学生達

と共に参加していた。

ヘンリエッテは、この「夕べの集い」で彼らとも会話を楽しんだが、その内に自分は夫とは別の分野、つまり現代文学を積極的に研究するという活動を、

始める事を思いつく。

こうして、彼女により、ベルリンで最初の文学サロンが開かれる事になった。

こうして、ヘルツ家の集いは、二つに分れる事に

なる。 とはいえ、もちろん厳密に区別されたものという訳ではなかった。

ヘルツの部屋には、著名な学者達が集まっていた。王の侍医をつとめる枢密顧問官ゼルテ、

そしてフンボルト兄弟の教育係で枢密顧問官の

ゴットロープ・ヨーハン・クリスティアン・クントなど、

そしてその内に、彼に伴われて、弟子でヘンリエッテと同年代だった、十代のヴィルヘルム、アレクサンダーの、フンボルト兄弟も姿を現わすようになった。このようにヘルツが友人達と学問談義をして

いる時、文学の方に関心が高い人々は、

隣室で開かれている、ヘンリエッテのお茶の会に

集まり、シュトゥルム・ウント・ドラングの文学を、

そして後にはまた古典主義の文学を読み、

語り合った。

ヘンリエッテの知性や、文学を観賞する才能の

せいでもあったが、彼女の魅力や美貌からも、

多くの者がこのサークルへとやってきた。

彫刻家のゴットフリート・シャドーによると、

ヘルツ夫妻は週二回客を迎え、

こうしてヘンリエッテを囲む文学サロンができあがった。スウェーデンの外交官のグスタフ・ブリンクマン、歴史編集者ヴォルトマン、作家のクライストに、

後に内務大臣や各公使を歴任する事となる、

ドーナ伯爵兄弟などの客が、集まった。

そして、後にヘンリエッテのサロンの主要客となり、

彼女のサロンの精神的支柱にまでなり、

長年に渡り、深い交友を結ぶ事となる、

フリードリヒ・ダニエル・シュラィアマッハーも、

数年後にこの中に加わる事となる。

また、ヘンリエッテは、フンボルト兄弟にも、

大変に好感を持ち、礼儀正しく、活発で才気に

富み、簡単に言えば、本当に愛すべき人達と

言っている。そして、1784年からはヘンリエッテは

自宅で、彼らにヘブライ語の手ほどきをしている。

そして兄のヴィルヘルムの方は、後にヘンリエッテが結成した「美徳同盟」の一員にもなっている。

またヴィルヘルムは、一時ヘンリエッテに恋していた事があった。 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンリエッテのサロンは、夫のヘルツが催していた

学者達の集いに対する競争から生まれた面が

ある。しかしこれは、ヘルツ家で営まれていた

二つの集いの間に、交流がなかったという事では

ない。二つの集いの客達は、重なり合っていた。

例えば、当時有名な彫刻家だったゴットフリート・シャドーは、有名な、プロイセン王妃ルイーゼと

その妹のフリーデリーケ妃姉妹の彫像の他にも、

ヘンリエッテの胸像も製作しており、

遅くとも1783年には、ヘルツ家に客として出入りしていたが、ヘルツ家の双方のグループと付き合っていたと思われる。また、この他にも、シャドーなどのように双方の集いに顔を出し、更に二つの集いをつなぐ重要な仲介者となっていた、作家で学者の

カール・フィリップ・モーリッツのような客もいた。

彼はヘルツの親しい友人で、シュトゥルム・ウント・ドラングに影響を受けた有名な発展小説

「アントン・ライザー」の作者だった。

彼は文学問題に関しては、ヘンリエッテの同盟者で、啓蒙主義者達と対立した。

モーリッツはイタリアでゲーテと知り合い、

ゲーテの著作に関心を持つようになった。

ヘンリエッテのサロンにおけるゲーテ崇拝は、

彼が古典主義に向かっても、衰える事なく

続いた。

 

 

 

 

 

なお、このようなヘルツ家の二つの集いだけでは

なく、当時のベルリンサロン参加客達が重なり合っていたり、各サロニエール同士にも交流がある事も、珍しくはなかった。 ヘンリエッテ自身も、

やはり、彼女と同じくベルリンで有名なサロンを

主催する事になる、ラーエル・レーヴィン(ラーエル・ファルンハーゲン)や、ザーラ・レーヴィ、

ドロテア・フォン・クールラント公妃、ラジヴィウ侯爵

夫人ルイーゼ・フリーデリーケ、フンボルト男爵夫人カロリーネなどのサロニエール達と、知り合いの関係であった。

 

 

 

 

 

 

ヘンリエッテのサロンは、教養市民層の周縁に

当たり、貴族階級とも繋がりを持つサロンだったが、彼らサロンの参加客達などの、ドイツ知識層

には、フランス革命の初期段階は、共感を持って

受け入れられていた。フランスにおける改革の

必然性に対して理性的に理解し、更に革命に

よる最初の人道主義的成果と、シャン・ド・マルスで

行なわれた連盟祭の式典にも、敏感に熱狂した。

実際ベルリンサロン自体も、18世紀末の

プロイセン身分社会の中で、ある種の「革命的」

性格を有していた。しかし、1791年の「ピルニッツ宣言」の年以来、ベルリンなどの、ドイツ知識層の人々は、徐々にフランス革命から、

距離を置くようになっていった。

革命の現実の進展がジャコバン派の恐怖政治に

移行し、知識層の大半は革命を嫌悪するように

なった。このフランスの恐怖政治への移行は、

誰もが予想していなかった事態であり、

人々を驚愕させたのである。

もはや、フランスのこのような事態の進行に

熱狂する者は、いなくなっていった。

ヘンリエッテも、「熱狂的な信奉者から私達は

革命の過激な敵にと変貌した」と書いている。

フランス革命の暴力行為は進歩のためだとして

正当化する訳にはいかないという事で

意見の一致をみたという。

そして彼女は、更にこうも書いている。

「私達の美的集いの中では、確かに楽しく気楽に

過ごしていた時に私達の気持ちの中で祖国のため

並びに祖国の個々の立場にある人々のために

何かしたいという願いが湧き起こってきたが、

フランスの支払った代償を考えれば希望の実現を

求めようとはしなくなっていた。」

このように、フランス革命の実際の展開、

フランスでの理想と現実の政治のギャップに

対する彼らの失望が、ベルリンの社交界において

政治的関心の著しい低下を招く結果となった。

また、ベルリンに移住した多数のフランスの亡命者達との接触もまた、フランス革命に対する熱狂的

気分を冷ます原因となった。

そこで直接、革命による災難に見舞われた人々と出会う事となったからだ。

例えば作家で、1790年代にはオルレアン公

フィリップ平等公)の子供達の家庭教師であった

ジャンリス伯爵夫人が当時ベルリンに滞在して

おり、当時彼女は著作活動と音楽や会話を

教える事で生計を立てていた。

ヘンリエッテは、しばらくの間ジャンリス夫人の

所で更にフランス語に磨きをかけるために、

彼女にフランス語を学んでおり、その内に夫人とも

親しく付き合うようになり、自分のサロンにも招く

ようになっていた。