公女エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン(アントワーヌ・ペーヌ作)
公女エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン(アントワーヌ・ペーヌ作)

1715年11月8日に、エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルンは、ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公爵フェルディナント・アルブレヒトとアントイネッテ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの、第三子、長女として生まれた。彼女は、15人の兄妹達に囲まれて育った。 1732年3月10日、ホーエンツォレルン家とブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家の間で、王太子フリードリヒとエリーザベト・クリスティーネとの婚約が成立した。未来の嫁になるエリーザベト・クリスティーネ公女と会った王妃ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーは、早速辛辣な評価を下した。 「美しい公女でした。」とまず、彼女は長女のヴィルヘルミーネに宛てて書いた。

 

 

しかし、彼女はエリーザベト・クリスティーネに対して、なおも続けてこう書いている。「しかし、彼女はまた愚かで無味乾燥でもあります、きっとろくな教育を受けてこなかったのでしょう。私はとても穏やかな気持ちではいられません、息子はこれからこのような妻に慣れていかねばなりません。」

そしてヴィルヘルミーネも、母親に同調した。 フリードリヒには、6人の姉妹達がいた。なお、当時ヴィルヘルミーネの妹シャルロッテは、エリーザベト・クリスティーネの兄カール・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルと婚約していた。

将来の王太子妃エリーザベト・クリスティーネは、このように好意的でない外国の宮廷に留まらなければならなかったのである。

 

 

ただ、プロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世だけは、彼女に好意的な評価をしてくれた。ホーエンツォレルンの女性達は、エリーザベト・クリスティーネに関して、意地悪な陰口を広めていった。

しかし、ヴィルヘルミーネはそれだけに留まらず、弟に婚約者の悪口を密かに言い触らしてやりたいという欲求を抑える事ができなかった。彼女は弟のフリードリヒに宛てて、エリーザベト・クリスティーネについて、いろいろと否定的な事を書き、このような女性との結婚は止めて、自分の勧めるイギリス王女と縁組みをしてはどうか、母親の王妃もこの縁談をとても悲しく思っていると書いた。

また、エリーザベト・クリスティーネは、母親や自分達姉妹について憎悪を抱き、非難を浴びせていると書いた。

しかし、フリードリヒは、さすがにいくら仲の良い姉とはいえ、彼女のこのような言葉は真に受けなかった。

だが彼は姉との口論は避け、こう言っている。 「私は公女には、嫌悪感しか感じていません。」またグルンブコフに対しては、こう言っている。「公女は良い心を持っている、しかし、おそらく私が彼女を愛する事はないだろう。」

王妃エリーザベト・クリスティーネ(アントワーヌ・ペーヌ作1739年)
王妃エリーザベト・クリスティーネ(アントワーヌ・ペーヌ作1739年)
エリーザベト・クリスティーネ(アントワーヌ・ペーヌ作1740年)
エリーザベト・クリスティーネ(アントワーヌ・ペーヌ作1740年)
ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー
ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー
フリードリヒ・ヴィルヘルム一世
フリードリヒ・ヴィルヘルム一世
王太子フリードリヒ
王太子フリードリヒ

エリーザベト・クリスティーネは、事ある毎に、将来の義母からの意地悪な粗探しや批判に、晒され続けなければならなかった。

フリードリヒは彼女に対して、こう不満を言った。「公女のダンスは、ひどい有様だ。」 その頃のエリーザベト・クリスティーネは、ドレスデンでも評判のダンス教師の元で、ダンスの練習中だった。

しかし、エリーザベト・クリスティーネは、以前のように幸福に満ちた花嫁に戻っていた。 なぜならば、王太子フリードリヒに会った途端、彼に一目惚れしてしまったからである。 しかし、そんな彼女の様子に反して、王太子の方は、冷ややかで無関心な様子だった。 父親の国王の方は花嫁に至って満足で、1733年の6月10日に、公女は息子に相応しい妻であり、自分は彼女に、とても満足しているという内容の事を書いた。

だが、これは国王の思い違いだった。

息子のフリードリヒの方は、エリーザベト・クリスティーネとの結婚を望ましくないものとして、その怒りと絶望の気持ちを、親しい人間達へ宛てて書いている。

またフリードリヒは、一時は彼女との結婚を避けるため、自殺まで考えた程だった。

 

 

また、1732年の秋にはグルンブコフに宛てて、こんな手紙も書いている。

「私の愛する気まぐれ屋へ。結婚への嫌気から、しばらく休息したい気持ちだ。 私にありきたりの夫になれというのか!!私は今激しい怒りを抱いている。」 フリードリヒは、このようにエリーザベト・クリスティーネとの結婚に、激しい拒絶を示していた。

彼の両親の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世と、妻の王妃ゾフィー・ドロテアは仲の悪い夫婦だった。

王妃ゾフィー・ドロテアの母は、美女として評判だった同名の、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ツェレ公女だったが、娘はこの母親の美貌を受け継がず、美しいとは言えない容姿だった。

このような背景から、王太子は結婚自体に否定的な面もあったのかもしれない。

エリーザベト・クリスティーネの方は、想いを寄せる王太子が、自分との結婚について、このような気持ちを抱いているなどとは知る由もなかった。王太子フリードリヒと父の国王とは強い確執があった。 軍事的な事を奨励し、質素なスパルタ様式の生活を好む父親と、学問や芸術を愛好する息子とは仲が悪く、度々彼らは衝突した。

ついに意を決したフリードリヒは、1730年には親友のハンス・ヘルマン・フォン・カッテと共に、イギリス脱出を企てた事があった。しかし、フリードリヒは直ちに連れ戻され、親友は彼が窓から見ている前で、斬首刑にされた。 このような事から、フリードリヒはシニカルで皮肉屋で、複雑で屈折した部分のある若者として成長していったと思われる。 このように、フリードリヒと幸せな家庭で育ったエリーザベト・クリスティーネとは、ことごとく対照的な生い立ちだった。

2人の結婚式の準備は、既に着々と進められていた。