公女ルイーゼとフリーデリーケ二人の立像
公女ルイーゼとフリーデリーケ二人の立像

プロイセン王妃ルイーゼの霊廟も手がけた事もある、建築家カール・フリードリヒ・シンケルにより、1824年から1831年の間に、建築された、ベルリンのフリードリヒスヴェルダー教会に、彼の石膏の元の作品が納められている、ヨーハン・ゴットフリード・シャドーの大成功。いわゆる「プリンセス集合像」の、1795年のベルリンアカデミーの展示の実現例は、以降の年に彼の弟子カール・フリードリヒ・ハーゲマンによって、翌年からそのレケタプリカが、制作されるようになった。素焼き陶器のコピーの後に、この典型的なモデルを確立する。

1797年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世により、マルモア宮殿に、大規模なシャドーの作品群が展示されていた。

それが現在では、旧ベルリン国立美術館の所蔵となっている。現実的な観察と古典的な理想が組み合わされた、シャドーの傑作となっている。

 

 

 

それは人間の概念の中の、新たな表現となっていた。ゆったりとして官能的。

そしてそれは原型なしで、このように、それはすでにプロイセンにあった。

しかし、ヨーロッパでは、あまりにも際立っていた。 この彫刻家の服や髪型のデザインが書き込まれている芸術作品は、1849年に登場し、彼の芸術を眺める事ができる。

静かな熱意で、芸術家はそのモデルに取り組んだ。 体質的に弱い所があったルイーゼは、時々首が腫れる事があったため、それを隠すために、刺繍されたモスリンやリネンのスカーフを、よく首に巻いていた。

そして、妹のフリーデリーケと共に、シャドーの彫刻作品のモデルになっていたこの時にも、その姿をしていた。

 

 

そして、この王妃ルイーゼのこのスカーフ姿は、当時のベルリンの女性達によって、一斉に真似された。ルイーゼは、刺繍されたモスリンの半分の布を、頭の上に飾り、そしてあごの下に離れて動かして、モスリンの半分の布を身につけ、そして更に、小さなスカーフを結び付け、首の下で結んでいた。

そしてフリーデリーケの方は、リネンのレースのヘアバンドを付けていた。

このシャドーの描いたルイーゼの姿は、他の芸術家達の、ヨハン・フリードリヒ・アウグスト・ティシュバイン、そして、エッチング画家エーベルハルトジークフリート・ヘンネの絵にも、見かけられる。

プロイセン王妃ルイーゼは、宮廷彫刻家のシャドーにより、何度も制作された。

彼女の死後までも仕事の依頼があったが、1795年に制作された彼女の胸像は、その後、シャドーの「プリンセス集合像」の一つとして、使用された。

 

 

 

そして彼の王妃ルイーゼの彫像制作は、1811年から1812年の、彼女を神格化した粘土レリーフの制作で、終わった。

1795年の胸像制作の時、まだルイーゼは王太子妃であった事が、確認される。

1798年に彼女の夫の即位最初の年に続いて、二人は1799年に、ここに示されている。この王妃ルイーゼの胸像は、1795年の時の作品と同じように、威厳のある表情を、与えられている。王妃ルイーゼの彫像の髪型は、フランスの「アンテイーク」と呼ばれる、古代風の髪型である。

おそらく、二つの三つ編みが髪の全体に巻きつけられた、そしてその両端が、髪に巻かれた布の上部に、ループ状に結び付けられた。 髪全体は、頭の後ろの方で一房にまとめられ、そこで結ばれている。

そして1800年の、ヨーハン・ハインリヒ・シュローダーの作品にも、この髪型の王妃ルイーゼの彫像の、影響が認められる。