1767年8月16日に、アマーリエ・フォン・インホフは、ヴァィマルに生まれる。
彼女は、ゲーテの恋人の一人として有名な、
シャルロッテ・フォン・シュタインの姪であった。
アマーリエ・フォン・インホフは、スウェーデン大佐のカール・ゴットフリート・ヘルヴィヒと結婚する前は、
ヴァイマル宮廷の女官であり、ザクセン=ヴァイマル大公国の、大公未亡人であったアンナ・アマーリエの文学サークルの一員であった。
アマーリエは、このような環境もあり、
ゲーテやシラーと密接な関係にあり、この二人の
文学者から自分の文学的な創作について大いに励まされていた。1815年以来、夫がプロイセンの
仕事についたため、ベルリンに移住し、
そこでもアマーリエは、高貴な人々や著名な人々と
親密に交際する事ができた。
例えば1818年に生まれた娘ドロテアの代父代母
は、グナイゼナウとフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の弟の妻のマリアンネ・フォン・プロイセン王女
だった。グナイゼナウは、アマーリエの長年に渡る
文通相手にもなっている。
そしてアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒのサロンは、
間もなくこのプロイセンの首都における
最も重要なサロンの一つとなった。
アマーリエのサロンは、以前のヘンリエッテ・ヘルツ、ザーラ・フォン・グロットフース、そしてラーエル・ファルンハーゲンのサロンよりも遥かに、ベルリンにおけるヴァイマル古典主義を代表するサロンで
あった。アウグスト・フォン・ゲーテとその妻オッティーリエが1819年のベルリン滞在の間、
このサロンに客として訪れている。
しかし、このサロンには後期ロマン派を代表する
文学者も訪れているし、プロイセンの高級官僚達
あるいは将校達のメンバーが客としてやってきていた。1815年頃のアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒの
重要な常連客は、グナイゼナウを除けば、
後に上級裁判所長官になるルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハとフリードリヒ・ヴィルヘルム四世の友人であり、後の将軍レオポルド・フォン・ゲルラッハ兄弟と、アマーリエの茶会で政治と革命、ロマン派と
中世への憧憬について語ったクレメンス・ブレンターノなどが挙げられる。
またゲオルク・アンドレアス・ライマー並びに、
ベルリンにいる時はエルンスト・モーリッツアルントなどの自由主義を標榜する出版者も訪問客で
あり、フーケー、シャミッソーなどのドイツ・ロマン派の作家達、アルニム一家、そして重要なベルリンサロンのサロニエールの多くが客として数えられる。
ここでは朗読があり、音楽が演奏され、版画や水彩画が鑑賞され、そしてまた多くの造形芸術家が
、アマーリエのサロンに出入りしていた。
ベルリンサロンにおける造形芸術の意義は、
ビーダーマイヤー期以後、しだいに大きなものとなっていき、フードリヒ・ヴィルヘルム四世の治世時代に頂点に達した。アマーリエのサロンではその上、
本格的な「芸術茶会」なるものもあり、
ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハの判断によれば
退屈な事もあったが、作曲家で音楽理論家であるアドルフ・ベルンハルト・マルクスやスウェーデン人女性マラ・モントゴメリー=シルフヴェルストルペ達は、非常に面白い茶会であると言っている。
彼らの芸術茶会に対するこの判断の相違は、
晩毎に異なる絵画が出され、異なる客達が訪れる
事が原因していた。芸術作品に対する報告者の
関心がどのくらいのものかがこのサロンの評価の際に、おそらくは鍵を握っていた。
アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒのサロンで絶賛されたのは、インドの絵画、ゲーテの「ファウスト」の
ためにペーター・コルネリウスが描いたスケッチ、
そしてヴィルヘルム・ヘンゼルの「活人画」を描いた
版画である。この「活人画」はプロイセン宮廷で、
トマス・ムアによる詩「ララ・ルク」に基づき、
上演されたものである。この中で、ラジヴィウ侯爵アントン・ラジヴィウと、元プロイセン王女だった、
ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケの娘のエリーザ・ラジヴィウが主役「ペリ」を演じた。
アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒには、夫がスウェーデン人である事などの、スウェーデンとの親密な
関係からスウェーデンからのお客もしばしばあった。詩人のパー・ダニエル・アマーデウス・アテルブム、歴史家で、詩人かつ哲学者だったエーリク・グスタフ・ジェイアーはかなり長期間ベルリンに滞在し、アマーリエのサロンに客として訪れていたし、
作曲家であるアードルフ・フレードリク・リンドブラードも、そしてこの両者の母親の友達であった
マラ・モントゴメリー=シルフヴェルストルペ未亡人も、客であった。このアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒのサロンでは、読書と文学についての会話が、
まだ音楽や芸術に対する関心よりも優位を占めていた。ヴァイマル古典主義の詩人であり、
また作家であり、多くの詩作と翻訳を、文学年鑑や
雑誌などに書いて有名だった。
その中で最も大きな影響を残した作品としては、
スウェーデンの詩人テグネールの「フリチョフ物語」の翻訳で、これは後にデートレフ・フォン・リーリエンクローンが「ドイツ人伝」の中で、アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒについての論述で書いているように、
翻訳として古典的名作であり、1879年までに
八版を重ねた程だった。
ギリシャ解放戦争の時には、アマーリエは
ギリシャ人のために自分の詩人としての才能を
発揮した。その詩「ギリシャのために」は、
1825年にまずこのサロンで朗読され、
それから公に発表された。
アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒは、ベルリンにおける
ヴァイマル古典主義を代表する重要な人物だった。
シラーやゲーテの作品を読む事は、このサロンでは大切な事であった。
彼女のサロンでは古典主義者についてのみならず、ロマン派の文学も会話の対象となった。
このロマン派の文学とは、アヒム・フォン・アルニム、クレメンス・ブレンターノ、アーダベルト・フォン・シャミッソー、そしてルートヴィヒ・ティークなどの
客達によって取り上げられたものであった。
その話の中では、民謡、伝説、もちろんその上幽霊
話までがしばしば話題となった。
ここからは、心霊信仰や超心理学への当時の好みが、感じ取れる。シュトゥルム・ウント・ドラング
文学も忘れ去られる事はなかったし、
ブレンターノによって、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツの「兵士たち」の朗読が行われる事も
あった。そしてロマン派の人々は、シェイクスピアに対して感激し、シェイクスピアの戯曲の読書会も
行われた。それ以外にサロンの会話は、当時は
まだ新しい学問であった言語学にも取り組んだ。
次から次へと訪れるサロンの客は、
しばしば集まりに新しい刺激をもたらした。
1826年の2月28日には、最初にベッティーネ・
フォン・アルニムが姿を現わし、居合わせた
人々にも、家庭音楽会への招待をした。
それからやってきたのは、著名な哲学者カール・
ラッハマンで、当時ちょうどゲオルク・アンドレアス・ライマー書店から有名な校定版「ニーベルンゲンの
歌」を出版したばかりであった。それから人々は
テグネールの「ブリチョフ物語」を読んだ。
この時に読んだのは、おそらくアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒ自身の優れた翻訳によるものと考えられる。するとその途中、フォス伯爵夫人ルイーゼ・フォン・フォスの母で、プロイセン王妃ルイーゼの友人であり、また王妃の妹でやはり親しくしていた、
当時カンバーランド公爵夫人となっていたフリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツの
宮内大臣夫人となっていた、カロリーネ・フォン・ベルクが訪問し、読書は中断された。
カロリーネ・フォン・ベルクは、王妃ルイーゼの死後は、フリーデリーケに仕えるようになっていた。
フォス伯爵アウグスト・エルンストの祖母ゾフィー・フォン・フォスは、王妃ルイーゼの女官をしていた。
最後に来たのは、画家でペーター・フォン・コルネリウスの弟子であるゲゼラーと、アドルフ・リンドブラードそしてアーダルベルト・フォン・シャミッソーで
あった。マラ・モントゴメリー=シルフヴェルストルペは、シャミッソーを詩人としてのみならずまた偉大な
植物学者で、世界中を旅行し、多くの見知らぬ国々を見た人と書いている。
アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒの主要作品
1797 年
ヘルタの饗宴
1798年
- 私の夢
- ソネット
- 失われた月日
- ファッション
- 城の聖母。ロマンス
- ダフネ
- 現在の喜び
-
1799年
- 女性の現象
- 湖の精霊達
- レスボス島の姉妹