プロイセンを撃破し、シュレージエンを取り戻すため、オーストリアはロシア、フランス、スウェーデン及びザクセンと同盟を結ぶ。 プロイセンは、たちまち四方を包囲される事となった。  フリードリヒは、オーストリアにシュレージエンを奪回されるのを防ぐため、オーストリア側の機先を制して、1756年の8月に、ザクセンに侵攻する。

こうして、七年戦争が開始された。

イギリスとは「ウェストミンスター協定」を結び、資金援助を受け、ハノーファーなどとも同盟を結んでいたものの、圧倒的な兵力の差であった。

一方、このような時にも、王妃エリーザベト・クリスティーネの日常は、いつもと全く変わりがなかった。

その一例として、1757年の4月18日の、レーンドルフ伯爵の日記にこんな記述がある。「王妃は午後に、数人の人々に招待状を出し、ティーアガルテンヘ招待した。そこでは王妃や、公爵夫人など少数の王妃達の友人が集まり、散歩や会話などを楽しみながら過ごしていた。」

 

 

しかし、1757年の6月18日の「コリンの戦い」で、フリードリヒは壊滅的な敗北を喫した。それまでのフリードリヒは、圧倒的な兵力差ながらも、1756年の10月にはザクセンに勝利し、1757年の4月にはボヘミアに侵攻し、プラハを包囲していた。

この敗戦に加えて、プロイセンでは6月28日には前王妃でフリードリヒの母のゾフィー・ドロテアが死去した。

プロイセンに向けて、オーストリアら連合軍が迫ってきていた。

当然ながら、プロイセンは大混乱に陥った。王妃エリーザベト・クリスティーネも、他の宮廷の人々のように、避難しなければならなくなった。 エリーザベト・クリスティーネは、10月にマグデブルクに避難した。

エリーザベト・クリスティーネが帰還できたのは、翌年の1758年1月5日だった。

1758年の6月12日、フリードリヒの弟のアウグスト・ヴィルヘルムが36歳で死去した。 コリンの戦いの敗北は、彼の責任とされており、苦悩しながらの死だった。

彼の妻で、エリーザベト・クリスティーネの妹ルイーゼは、3人の子供を出産しており、4人目のゲオルク・カール・エミールも、生まれたばかりだった。 ルイーゼは夫の死を悲しみ、またエリーザベト・クリスティーネも妹の事を心配した。

ルイーゼ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク
ルイーゼ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク

そんな中、エリーザベト・クリスティーネにとって、嬉しい出来事があった。

彼女の母親で未亡人となっていたアントイエッテ・アマーリエが、長女の銀婚式を祝って、プロイセンを訪れるというのである。

フリードリヒも、さすがに王妃の実母の頼みであるため、彼女とエリーザベト・クリスティーネが会う事を認めた。

宮廷では女官達が国王夫妻の銀婚式記念の、2人のミニチュアを作っていた。

それは、フリードリヒとエリーザベト・クリスティーネが手を握っている姿のものだった。母親との数十年振りの再会は、エリーザベト・クリスティーネにとって、本当に嬉しい事だった。

 

 

7月、シェーンハウゼン宮殿には、母親の他にエリーザベト・クリスティーネの五人目の妹テレーゼ、 父に代わりブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵になっていた彼女の兄カールの妻になっていた、夫の国王フリードリヒの妹である、義妹のシャルロッテも訪れた。この母子の再会は、文字通り、涙の再会となった。

母親と妹との再会に、久しぶりにエリーザベト・クリスティーネは幸せな時間を過ごした。 8月1日に、アントイエッテ・アマーリエ達が出発していった。 出発前に、エリーザベト・クリスティーネは、ポツダムからアントイエッテ・アマーリエに同行し、サン・スーシ宮殿を案内した。

アントイエッテ・アマーリエは、案内されたサン・スーシ宮殿の素晴しさに感動して帰っていった。 四年後の1762年の5月6日、アントイネッテ・アマーリエが死去した時、フリードリヒは、エリーザベト・クリスティーネに対して形式的で冷ややかな感じの、お悔やみの言葉を述べた。

アントイエッテ・アマーリエ
アントイエッテ・アマーリエ
ナターリエ・テレーゼ・フォン・ブラウンシュヴァイク
ナターリエ・テレーゼ・フォン・ブラウンシュヴァイク