エリーザベト・クリスティーネは、この五十年間の半分近くを、夫フリードリヒの仕打ちを、「残酷です。」と言い、嘆き悲しむ、ほとんど変化のない、単調な日々を過ごしていた。また、宮廷の人々も王妃エリーザベト・クリスティーネを侮蔑し、軽んじていた。

しかし、このような夫の仕打ちに反し、エリーザベト・クリスティーネは、フリードリヒの事を「偉大にして、高く評価されるべき国王です」と、彼の事を尊敬していた。

そうこうしている間に、フリードリヒ二世は、「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれる、 幸運な事態に遭遇していた。

 

 

 

そして、ついに1763年2月23日に、ザクセンのフベルトゥスブルクで、「フベルトゥスブルクの和約」を締結した。

こうして、「七年戦争」は終結し、プロイセンはシュレージエンを守り抜いた。

フリードリヒは、七年間を、ヨーロッパの列強諸国を相手に戦い抜き、これによりプロイセン国王の地位は飛躍的に上昇し、またシュレージエンをプロイセンの領土化する事に成功し、プロイセンをドイツ方面において、オーストリアと肩を並べるまでになった強国として押し上げた。

なお、この年の二月から、エリーザベト・クリスティーネは、ようやくずっとベルリンに留まる事ができるようになった。

1763年の3月30日、フリードリヒはベルリンに帰還した。

ベルリンでは、国王一家達が国王の凱旋を出迎えた。しかし、レーンドルフはこの時の国王夫妻の間の、信じられないような光景を描写している。

「開口一番、国王が王妃にかけた言葉は、以下のようなものだった。

「マダム、お太りになりましたね。」、そしてその後国王は出迎えた王女達を次々と抱擁した。」 「マダム、お太りになりましたね」、これが六年振りに再会した王妃に対する、国王の言葉だった。

 

 

 

エリーザベト・クリスティーネは、この屈辱に驚異的な自制心と忍耐力を持って無言で耐え、お辞儀をした。

エリーザベト・クリスティーネは、この数十年間を、敬虔さと神への信頼で耐えていた。彼女は、この頃から夫の扱いと自分の境遇を嘆く事よりも、慰めとなる事を探すようになっていく。そして、その内宗教に関する出版物の購読会などを、主催するようになっていく。また、フランス語やドイツ語の読書なども行なった。更にエリーザベト・クリスティーネは、啓蒙的説教師のヨーハン・ヨアヒム・シュバルディング、詩人で哲学者のゲレルトなどに関心を持った。

 

 

1764年に、エリーザベト・クリスティーネの妹ルイーゼの息子で甥の、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと、彼のいとこのエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが結婚した。

エリーザベト・クリスティーネは、甥の結婚を喜んだ。1767年には夫婦に、娘フリーデリーケ・シャルロッテが誕生した。

エリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
エリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル

しかし、その内にプロイセン王太子妃のウルリーケは、イタリア人音楽家のピエトロと不倫関係になり、子供まで妊娠してしてしまった。結局、結婚から5年後の1769年に、この夫婦は離婚した。

エリーザベト・クリスティーネは、この甥夫婦の、不幸な結婚の顛末を悲しく思った。

そしてこの後、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ヘッセン=ダルムシュタット公女の、フリーデリーケ・ルイーゼと再婚した。

こうした、思わぬ甥夫婦のスキャンダルや離婚騒動があったものの、エリーザベト・クリスティーネ自身の生活は、至って平穏なものだった。この頃には彼女はもう、夫とは別々の生活を、宗教や文学に関する討論などをして過ごすようになっていた。

また、著作も何冊か執筆し始めるようになった。1780年3月26日、エリーザベト・クリスティーネの兄の、ブラウンシュヴァイク公爵カールが死去した。

手紙で、よく結婚生活の悩みを打ち明けていた兄の死を、エリーザベト・クリスティーネは悲しみ、淋しく思った。

この年の六月、プロイセン国王夫妻は、金婚式を迎えた。

王妃エリーザベト・クリスティーネに、金婚式記念のメダルが贈られた。

 

 

その日、エリーザベト・クリスティーネは、慰めようのない悲しみに襲われた。

1786年8月17日、プロイセン国王フリードリヒ二世が、サン・スーシ宮殿で74歳で死去したのである。

フリードリヒの一番下の弟アウグスト・フェルディナントの娘ルイーゼ・ラジヴィウが、シェーンハウゼン宮殿の、エリーザベト・クリスティーネの許を訪れた時、 彼女は深い悲しみに沈みながら、夫の死を悼んでいたという。しかし、生前のフリードリヒの意向により、エリーザベト・クリスティーネは、彼の葬儀にさえ参列させてもらえなかった。

最後まで、彼女は夫から悲しみを与えられ続けたのであった。

9月9日、フリードリヒ二世はポツダムのガルニソン教会に埋葬された。

エリーザベト・クリスティーネは、国王の葬儀の前に、弟フェルディナントに、このように書いていた。 「私は、国王の死にただ涙を流すしかありません、あのように比類のない国王が、帰らぬ人になってしまわれました、私は彼の死を深く嘆き悲しんでいます。」

フリードリヒ二世の死去後、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世が即位してから、エリーザベト・クリスティーネの待遇は、改善された。新国王は、この叔母に対して好意的に接してくれた。

 

 

1793年の12月、 フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の息子で王太子のフリードリヒ・ヴィルヘルムと弟ルイとダルムシュタットの姉妹ルイーゼとフリーデリーケらの、二組の結婚式が行なわれた。結婚式の参列客達は、みな姉妹達の美しさを称賛した。

エリーザベト・クリスティーネは、ルイーゼ・ラジヴィウの言葉によると、その魅力と機知で、参列客達を楽しませていたという。エリーザベト・クリスティーネは、このように晩年になってからも、生き生きとした精神を失なう事がなく、相変わらず多くの著作の執筆を、 熱心に行なっていた。

1797年の1月13日に エリーザベト・クリスティーネは、ベルリンで87歳で死去した。そして1月30日に、ベルリン大聖堂に埋葬された。彼女の最期の言葉は、以下のようなものだった。

「私は、もう十分に長く生きました、私は善き神に多くの感謝を捧げます。私には、これ以上、もう何も必要がないのです。 」