ラトビアのクールラント公国の、帝国男爵フリードリヒ・フォン・メデムの娘として、メゾーテンに生まれる。このクールラントは、ドイツ系のロシアの方角に
1791年に、クールラント公爵ペーター・フォン・ビロンと結婚し、ヴィルヘルミーネ、パウリーネ、ドロテアの娘達が生まれた。
ドロテアは姉に当たる作家のエリーザ・フォン・デア・レッケを通じて、ドイツにおける文学あるいは
芸術の様々なサークルと、直接の結びつきがあった。そのような一例としては例えば、シラーの友人のクリスチアン・ゴットフリート・ケルナーを中心とするドレスデン・サークルと親しかった。
ベルリンにおいても、公妃の地位とはそぐわない、
友人達がいた。例えば公爵家のかつての家庭教師で出版業ニコライ家と婚戚関係となったフリードリヒ・パルタイなどはその一人だが、彼は彼女の財産問題の相談にのったりしていた。
クールラント公妃ドロテアは、1803年から1809年まで、ウンター・デン・リンデンにある豪邸で
サロンを開いた。
特別抜きん出た才能は持っていなかったが、
ドロテアは何事にも興味を示す、親切で社交上手の女性であった。しかも、ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケと非常に親しい関係にあり、
彼女同様にプロイセン王家との社交にまた学者、作家、芸術家達との交際に、幸福を感じていた。
興味を引くような市民に対しても公妃ドロテアの
サロンは、いつでもそして原則的に扉が開かれていた。彼女の姉エリーゼ・フォン・デア・レッケの
紹介でヘンリエッテ・ヘルツもまた常連客の一人で
あった。 ヘンリエッテは、クールラント公妃を親切で、才気に富んでいると称賛し、またそのサロンについても称賛している。
クールラント公妃ドロテアのサロンは、
ラジヴィウ侯爵夫人以上に市民に開放的で
あった。ラジヴィウ侯爵夫人も、プロイセン王女と
いう、その出自に比べると異常な程に幅広い人々を館に受け入れていたが、やはり礼儀作法や
上品な客達にこだわっていた。
一方、クールラント公妃ドロテアは、ベルリン社交界においては、外国人の公妃という、身分の高い
アウトサイダーとしてサロンの集いにおいては
一層自由であった。彼女は雑多な人々の集いに
大きな価値を置いおり、だからといって「上品な集いの形式」、「精神」、「都会性」をないがしろにしていた訳ではない。ヘンリエッテ・ヘルツによると、
公妃のサロンは自然であると同時に快い交際の
形式が作り出されていたという。
クールラント家の館では、客達はその身分地位に顧慮する事なくテーブルに着いた。
「市民」のテーブルとか、「貴族」のテーブルという
区別がなかった。ヘンリエッテによれば
高貴な女主人は自分の望む、身分を越えた
集まりを実現させるように非常に心を砕いていたという。そのため、例えばヘンリエッテ・ヘルツは、
しばしばラジヴィウ侯爵夫人の隣に座っていた。
公妃ドロテアのサロンの他の客達には、
歴史学者のヨハネス・フォン・ミュラー、ラジヴィウ
侯爵夫人の弟で、他にもラーエル・ファルンハーゲンなどのサロンにも顔を出していた、ルイ・フェルディナント王子、オランダの公使デーデル、
ルイーゼ王妃の友人カロリーネ・フォン・ベルク、
アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、
ラーエル・ファルンハーゲン(当時はまだ結婚前のラーエル・レーヴィン)、ジャンリス伯爵夫人、
フリードリヒ・ゲンツ、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、画家のジェネリ、歌い手ミルダー・ハウプトマン、
舞台俳優で劇場監督のイフラント、詩人ゲッキング
やティートゲなどがいた。
このように、ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケやその弟ルイ・フェルディナント王子と親しい
関係にあった、クールラント公妃ドロテアだが、
実はこのルイ・フェルディナントと彼女の長女ヴィルヘルミーネを巡り、結婚騒動が起こった事が
あった。 クールラント公爵一家と、ルイ・フェルディナントは1800年に、ライプツィヒで会った事が
あった。その時に、クールラント公爵ペーターの
長女ヴィルヘルミーネとルイ・彼との間に、結婚話が持ち上がった。夫妻共に、この縁談には、
大いに乗り気になった。クールラント公国自体も、
ドイツ系の国であるし、プロイセン王子との縁組は、願ってもない事であった。
しかし、正式に結婚が決まらない内に、
ペーターは急死してしまった。
だが、妻のドロテアにより引き続き、この結婚計画は進められた。ルイ・フェルディナントも、
美しく魅力的なヴィルヘルミーネが気に入り、
熱心に求婚した。 更に、クールラント公爵には息子がいなかったため、ゆくゆくは長女ヴィルヘルミーネがザーガン公国の方も相続する見通しで
あり、この点からもこの女相続人ヴィルヘルミーネ
との結婚は、彼にとって魅力だった。
ヴィルヘルミーネの方も、美男子で音楽的才能にも
恵まれ、有能な軍人でもあった彼に、
まんざらでもない様子だった。
しかし、ドロテアの野心がこの結婚計画の行方を、
狂わせてしまう事となった。
ドロテアは、おそらく、ルイ・フェルディナントの姉で友人のラジヴィウ侯爵夫人との関係から、
知ったのであろうが、彼女の夫ラジヴィウ侯爵などの間で、かつてルイ・フェルディナントの、
ポーランド国王即位の話が浮上していた事を知る事になった。
たちまち、野心家の所があったドロテアは、
娘のヴィルヘルミーネを、ポーランド王妃にしたいと
考えるようになった。そしてプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が、ルイ・フェルディナントを
ポーランド国王にするために、ロシアに働きかけてくれる事を、望んだ。しかし、ロシアとの関係の悪化を恐れた、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、
ルイ・フェルディナントとヴィルヘルミーネとの
結婚に、反対した。
結局、この結婚は実現しなかった。
1804年の春のスタール夫人の訪問が、
クールラント公妃のサロンの絶頂期を
物語っている。
彼女はこのサロンの中で、ベルリン社交界の興味深い人士達と知り合い、その中の一人アウグスト・フォン・シュレーゲルを、スタール夫人は自分の子供達の家庭教師として雇い、コペまで伴っている。
スタール夫人は、クールラント公妃ドロテアの
サロンでの交際のおかげで、ベルリン滞在中
スタール夫人は、自分自身の集いを容易に開く事ができたという。
毎週金曜日にスタール夫人は、夜会を開いた。
スタール夫人は、クールラント家の館で知り合った
人々を選んで夜会に招待した。
とはいえ、クールラント公妃の所に、ラジヴィウ侯爵夫人のサロンの多くの客が出入りしていたので
ある。ヘンリエッテ・ヘルツが書いているように、
あるサロンの客達が、親しい女性に貸し出されるという事は、めったにはなかったが、しかし少し形を
変えればしばしば起こりうる現象だった。
多くのサロニエールは、自分のサロンを作るのに
、すでに長くサロンを営む他のサロニエールの友情を通じて助けてもらっている。
女友達のサロンで築かれた知人関係は自分の
サロンにも役立ったのである。
競争し合うサロニエールによる有名な常連客の
あからさまな引き抜き例は、ベルリンサロンに
あっては皆無、またはめったになかったと思われる。むしろ、地歩を固めたサロニエール達は、
当時あるいは後になっても、若いサロニエール
やベルリンに来たばかりのサロニエールに
喜んで力を貸した。このため、多くのベルリンサロンの客達はかなり重複していた事になる。
サロンを巡る、興味深い一つの周縁現象が、
「小サロン」と呼ばれるもので、クールラント公妃
の末娘のドロテアなどが、ほんのまだ幼い少女の頃に、開く事を企てた。
公妃の三女ドロテアはプロイセン王家と親密な関係にあり、同じ年頃のプロイセン王子や王女達と
親しく、美しく優雅で魅力的な王妃ルイーゼに、
夢中になっていた。
ドロテアの自前の小サロンも、非常に活発だった。
ヘンリヘッテ・ヘルツは彼女に英語の授業をし、
有名なピアニストのフランツ・ラウスカはピアノの
授業を行ない、ドロテアの訪問客には王子の教育係で後の外務大臣のアンションや女優のベートマン=ウンツェルマン、劇場監督イフラントなどがおり、またベルリンに来た時には訪れるフリードリヒ・
シラーもいた。 この小サロンでは、確かにこの公女の家庭教師である、ホフマン嬢が社交の指揮を
取っていたが、若いドロテアの社交力には侮れないものがあった。人々は、「人形部屋」のサロンに
ついて語りたいという誘惑にかられ、やってきた。
公女ドロテアは、遊び半分もあったが、
熱心に母と代母のラジヴィウ侯爵夫人に見習おう
とした、そしてその際自身でサロンを巧みに取り仕切る事を学んだ。このような能力は、社交界で重要な役割を演じたいと思っている皇位の貴族の若い
女性にとっては、大事な事であった。
この種の「子供のサロン」は、多くのサロニエールの娘達がすでに子供の頃に同席を許されていたのに、後の時代にはもう存在しなかった。
自前のサロンを持つ事は、自前の所帯が前提で
、19世紀においては少なくとも支配者階級の
家の小さな王女達は自前の所帯を持っていた。
子供に対する教育の新旧いずれの原則も、
この子供達のサロンから生み出された。
新しい教育原理は子供達の「大人遊び」であった。
ルイーゼ王妃の長女の、幼いプロイセン王女
シャルロッテ(後のロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴエナ)は、例えば、大人達が招待される
お茶会を催した。
1800年頃、有名になったのは特に、王妃ルイーゼが自身の子供達のために開いた「子供舞踏会」
で、これは後のビーダーマイヤー時代においても
宮廷社交界では揺るぎない慣行となる。
このようにして子供達は、すでに幼い頃から、
いわば「小さな大人」として扱われ、
大人達と同じように、彼らなりの小サロンを主催
する事で、将来の社交上の義務・客達への応対
などの、立ち居振る舞いを習得していった。
特に、クールラント公妃の公女ドロテアは、
こうした教育の成功例として非常に印象深い
足跡を残している。後にドロテアは、フランスの外交官ペリゴール・ド・タレーランの甥のペリゴール伯爵エドモンと結婚し、ペリゴール伯爵夫人、
後にはディーノ公爵夫人の称号も得、
そして更に、早くに亡くなった姉のヴィルヘルミーネのザーガン公爵夫人の地位も継承し、
ディーノ・タレーラン・エ・ザーガン公爵夫人と
なった。ディーノ・タレーラン・エ・ザーガン
公爵夫人として、ドロテアはパリ、ウィーン、ロンドン
そしてベルリンで宮廷及び外交世界で突出した
役割を演じた。
このように娘ドロテアの「小サロン」など、
興味深い副産物まで生み出し、活況を呈していた、
クールラント公妃のサロンだったが、
ナポレオンの度重なるプロイセン領土の侵攻を
巡り、国内の緊張が高まり、ついに1806年に、
プロイセンがフランスに宣戦布告、10月から戦争始まった事、しかも開戦早々からザーレフェルトの戦いでの、クールラント公妃のサロンにも出入りしていた、ルイ・フェルディナント王子の戦死、ムその後のイェーナ・アウエルシュテットでの再びのプロイセンの大敗など、プロイセンは苦戦を強いられ続けた事があり、クールラント公妃ドロテアも、他の多くのサロニエール達同様に、一時的にサロンを閉鎖せざるを得なくなった。
結局、ベルリンはナポレオン軍に占領され、
国王一家と宮廷は、東プロイセンに亡命、
その後のアイラウの戦いでもフランスに勝利できなかったプロイセンは、ルイーゼ王妃自らが赴き、
ティルジットで行われた、ナポレオンとの必死の
交渉にも関わらず、ほとんどプロイセン側の要求は、聞き入れられず、プロイセンにとって不利な条件で「ティルジット条約」を結ばされ、半分の領土を手放し、国庫の三倍の賠償金を課され、その支払いが済むまで、更に十五万人ものフランス軍駐留を受け入れなければならなかった。
このような背景の中、サロンの常連客の多くは
ベルリンを去り、多くは東プロイセンに滞在し、
他の人々は戦死したり、戦犯となって捕らえられたりした。こうして戦争が、サロン社会を四散させたのであった。
状況が落ち着きを取り戻し始め、ようやくサロンの集いが、活気を取り戻し始める事になるのは、
1808年から1811年頃になってからの事である。
しかし、それまでのプロイセンの混乱直後の時代に、確かに存在する事ができたのは、
フランスの占領に妥協する事ができた、
クールラント公妃ドロテアとユダヤ人の銀行家未亡人ザーラ・レーヴィのサロンだけだった。
また、フランス軍の将校や行政官達の方でも
この二人のサロンを評価するのを、心得ていた。
ドロテアは、状況がいささか落ち着いた後で、
ベルリンに戻り、再びサロンを1808年から1809年まで開いた。これは公妃ドロテアがナポレオンを
崇拝していたため、困難な事ではなかった。
しかし、その弟で戦死した、ルイ・フェルディナント
王子は反ナポレオンの代表的人物であり、
また、やはり彼女も反ナポレオンのプロイセン愛国派であった、ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケは、当然このような公妃の態度を、
理解できなかった。彼女は後に、公妃はなるほど
親切で気高いお方であるけれど、しかし特に分別がおありの方ではいらっしゃらないと書いている。
多くの身分の高いフランスの将校達、例えばベルリン指揮官フリーン将軍などは、当時クールラント家
の館に出入りしていた。ドロテアは、三女のドロテアがペリゴール伯爵と結婚したのを機に、
共にパリヘと移住した。このように、ドロテアと三女のドロテアは、親フランスであったが、
1821年8月21日に、ザクセン=アルテンブルクのレービハウで死去した。享年60歳。