このように、プロイセンは「解放戦争」を経て、フランスの占領から解放される事となった。
しかし、この間のフリーデリーケ達一家の生活は、苦境に立たされ、夫婦の関係も、
帰還すると、この仕事を失ってしまう事になった。そして、ただでさえソルムスの俸給も
それ程高いとは言えず、一家の経済状態は大変厳しく、子供達の教育費さえ、全てフリーデリーケの年金から支払わなければならなくなってしまう。この一家の苦境を見て、カールは
引き続き、ノイシュトレーリッツ宮殿を
家族の住居として提供してくれた。
フリーデリーケは、父のこの心遣いに深く
感謝した。
だが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、フリーデリーケを見かね、
離婚を勧めた。
しかし、フリーデリーケは拒否した。
だが、夫婦関係は悪化するばかりであった。
ある時などは、夕方にフリーデリーケが
客人達を招いた集いの日に、
彼はどこかへ姿を消してしまっていたので
ある。フリーデリーケは、この夫の仕打ちに、
妻として深い恥辱を味わわされた。
このように、ソルムスは妻に対する敬意さえ、
払わなくなっていたのである。
1812年の1月27日に、息子のカール・ルートヴィヒが生れたが、結局この子供の誕生も、夫婦関係を改善する役には立ってくれなかった。
ソルムスはノイシュトレーリッツでの現在の
生活に苦悩し、生活の退屈さ、そしフリーデリーケの年金の支給額が少な過ぎると不満をこぼした。また、このようにノイシュトレーリッツでの亡命生活に適応できない彼は、
苦悩からしだいに飲酒量が多くなり、
通風にも悩まされるようになっていた。また、度々憂鬱な気持ちに陥るようになった。
また、ソルムスがテプリッツの保養地ヘ
行く費用で更に、一家の財政に負担がかかった。
また、ソルムスはフランス人とナポレオンの
集会に喜んで参加するようになった。
これは、当然の事ながら、カールやフリーデリーケ他、多くの人々に不快の念を起こさせ、
これがまた夫婦の溝を深める事となった。
しかし、このソルムスがナポレオンへと傾倒していくまでの心理の変遷は、彼自身に関する
史料が少ないため、不明確な所がある。
フリーデリーケは、前半の幸せな結婚生活から一転した、不幸な結婚生活に悩み、
嘆いた。ナポレオンのアンスバハ侵攻から
プロイセンに亡命してからの七年間、
妻として夫のソルムスを支えてきたフリーデリーケだったが、もう夫との結婚生活への忍耐も、限界に達していたのであった。
もはや、夫からは自分に対する愛情を感じる
事ができなくなっていた。
また、子供達の将来に関する不安も募っていた。
このように、悩み多い結婚生活を送っていた
フリーデリーケだったが、彼女にとって
大きな転機となる、偶然の出来事が起こった。
1813年の5月21日に、フリーデリーケにとってはいとこに当る、ジョージ三世の五男の、42歳になるカンバーランド公爵エルネスト・オーガストと出会った。
彼は、叔父に当る、フリーデリーケの父カールに会いに、ノイシュトレーリッツに来ていたのであった。
エルンスト・アウグストは、かつてフリーデリーケがバートピュルモントで、結婚を前提に会った、ケンブリッジ公爵アドルフの兄だった。
フリーデリーケと彼は、長時間話し、フリーデリーケは彼に好感を抱いた。
そして、この彼との出会いが、フリーデリーケがソルムスとの離婚を決意した、決定的な理由になった。
結局、1813年の10月に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムとフリーデリーケの父カールも了承の許、離婚訴訟が始められた。
話し合いの結果、子供達の保護権は、フリーデリーケのものになった。