1798年7月13日に、フリーデリーケ・ルイーゼ・シャルロッテ・ヴィルヘルミーネは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼの長女として生まれた。

シャルロッテは、繊細な顔立ちと青い目を持つ比較的小さな頭に、威厳のある顔つきをしていた。そして背は高く、ほっそりとしていた。しかし、シャルロッテは虚弱体質の方だった。母ルイーゼの日記によると、優しくて陽気な性格だったという。
両親の仲はとても良く、シャルロッテは幸せな子供時代を過ごした。家族の中で彼女の象徴として、「白い薔薇」が選ばれた。

シャルロッテは、母ルイーゼや兄弟達などと同じく、ドイツ・ロマン派の作家フーケーを特に愛好した。

シャルロッテ・フォン・プロイセン
シャルロッテ・フォン・プロイセン

フーケーの小説の中のヒロインから、

シャルロッテは「白い花」という呼び名で呼ばれるようになったのである。

フーケーの妻でこれも作家であった、カロリーネ・フォン・ロホーによると、シャルロッテは若者達の文芸サークルの中心的存在だったという。(カロリーネ・フォン・ロホーは、これもドイツ・ロマン派の女性作家でフーケーの二番目の妻。

ちなみに、フーケーの最初の妻のマリアンネ・フォン・シューベルトが、彼の代表作「ウンディーネ」のヒロインのウンディーネだと言われている。

しかし、作曲家のシューベルトとは関係がない。)

 

しかし、その内にナポレオンがプロイセンの各領土に侵攻、カイザースラウテルン、アンスバハ、エッセンと、次々と征服されていく。1806年の10月の、イェーナ・アウエルシュテットの戦いでは、プロイセンは、フランスに大敗。

ナポレオンが10月17日ベルリンに進軍、ベルリンは占領され、国王一家は東プロイセンのケーニヒスベルクに避難しなければならなかった。

結局、国王一家は三年間の亡命生活を余儀なくされる。この間に、シャルロッテの兄弟姉妹である、ルイーゼ、アルブレヒトが誕生していた。

 

 

 

 

 

 

1809年の12月15日に、国王一家は、ベルリンに帰還。

しかし、1810年の7月19日には、母のルイーゼが若くして病死してしまう。

ルイーゼが故郷のホーエンツィーリッツを訪れている時の、急な危篤だった。

結局、子供達の内、母親のルイーゼの死目に会えたのは、長男のフリードリヒ・ヴィルヘルムと次男のヴィルヘルムの、二人だけだった。

末っ子のアルブレヒトは、まだやっと一歳になる年だった。

シャルロッテは、母の死を悲しむと共に、長女としての責任を自覚していたようである。

 

 

 

 

 

1814年の秋に、アレクサンドル一世の弟のニコライ・バヴロヴィチ大公と彼の弟のミハイル大公がベルリンを訪問した。

そしてニコライとシャルロッテの結婚に

ついてホーエンツォレルン王家と、ホルシュタイン・ゴットルプ・ロマノフ王家の間で交渉が行なわれた。

元々、以前からホーエンツォレルン王家と、ホルシュタイン・ゴットルプ・ロマノフ王家は、ルイーゼ王妃の親戚のメクレンブルク=シュヴェリーン公爵フリードリヒ・ルートヴィヒと、アレクサンドル一世の妹エレーナ・パヴロヴナ大公女との婚姻関や、対ナポレオン同盟。

そして国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世・王妃ルイーゼ夫妻とアレクサンドル一世との個人的な友情など、極めて良好な関係にあり、ごく自然な形でプロイセン国王の長女シャルロッテとロシア皇帝の弟ニコライとの婚約の話が、持ち上がってきたのである。もちろん、主目的は、更なるプロイセンとロシアの同盟の強化だった。

 

 

 

一八一四年に、連合国軍と共に、ワーテルローの戦いで、ナポレオンとの戦いに勝ち、パリ入場を果たした兄の皇帝アレクサンドルと共に、その帰途にベルリンに立ち寄ったニコライの訪問中に、二人は恋に落ちた。ブロンドの髪をしたシャルロッテの左右対称の顔は、同様にその高い尊厳のある印象に、貢献した。

そしてその大きい明るい青の瞳は、静かに、そして、荘厳に見えた。

一方、精悍で男らしいニコライは、柔和で優雅な美男子の兄のアレクサンドルとは、このようにタイプは違うものの、彼も兄と同じく長身で均整の取れた美男子だった。

 

 

 

 

 

 

1816年には、ロシア・ロマン主義の代表的詩人となる、

ヴァシリー・ジュコフスキーが、将来の大公妃に予定されていたシャルロッテのロシア語の教師となり、また読み聞かせをする待講にも任命された。

おそらくこの事もあり、1826年には、シャルロッテの長男のアレクサンドル皇子の傳育官にもなっている。

ヴァシリー・ジュコフスキーは、後のアレクサンドル二世のリベラルな思想にも、影響を与えたとされる。

1817年に、プロイセン王女シャルロッテとニコライ・パヴロヴィッチ大公は結婚。ロシアのサンクトペテルブルクの冬宮の教会で、結婚式を挙げる。

ニコライ一世
ニコライ一世
アレクサンドラ・フョードロヴナ
アレクサンドラ・フョードロヴナ
アレクサンドラ・フョードロヴナ(クリスティーナ・ロバートソン)
アレクサンドラ・フョードロヴナ(クリスティーナ・ロバートソン)
冬宮
冬宮
首座使途ペトル・パウェル大聖堂
首座使途ペトル・パウェル大聖堂
アレクサンドル・ネフスキー記念教会
アレクサンドル・ネフスキー記念教会
聖ペーター&パウル教会
聖ペーター&パウル教会
ベトヒャーベルクの「ロッジア・アレクサンドラ」
ベトヒャーベルクの「ロッジア・アレクサンドラ」
マリヤ・フョードロヴナ
マリヤ・フョードロヴナ

シャルロッテは、大勢の兄弟姉妹達の内、

特に次兄のヴィルヘルムと生涯を通じて

仲が良かった。

1817年の夏のロシアへの彼女の出発

まで、彼女はロシア司祭の助けを借りて、ロシアの宗教、文化、歴史・言語とその習慣を学んだ。

シャルロッテの結婚とロシア大公妃になるに従い、彼女はロシア帝国の慣例により、ロシア正教会によってロシア正教に改宗し、名前も「アレクサンドラ・フョードロヴナ」と改めさせられる事になった。

最初、彼女はこれに難色を示した。

そして、それはロシア宮廷では傲慢さと

解釈されてしまった。

しかし、アレクサンドラとニコライの夫婦関係は、円満だった。彼は家族と過ごす時間を大切にし、また椅子に腰掛けて新聞を読む彼とその傍らの椅子で編み物をする妻のアレクサンドラと、普通の夫婦のような彼らを描いた絵画も残されている。

1818年の4月17日に、最初の息子、アレクサンドルが誕生。

この年に、国王シャルロッテの父の、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、ロシアを訪れた。

プロイセン国王歓迎のために、宮廷舞踏会、その他多くの娯楽、軍事パレードが開催された。

 

 

シャルロッテと義母の皇大后のマリヤ・フョードロヴナとの関係も、良好なものであった。天性の公女ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルクは、叔父である老齢のプロイセン国王フリードリヒ二世の推薦により、一七七六年にロシア帝国の後継者パーヴェル・バヴロヴィチと結婚した。

彼女は、彼の後妻だった。

大王やエカテリーナでさえ、その教養や才知を認めた程の、才女の母親のカロリーネを持ったにも関わらず、あまり思慮深くも賢くもなかった軽薄な前妻の、ヘッセン=ダルムシュタット公女ナターリヤとは違い、彼女自身はナターリヤに劣らず、美しくて魅力的な女性であったが、彼女の方は素直に、そして大変に夫を愛したようである。

 

 

なお大変なエカテリーナびいきであり、そして息子のパーヴェルの方は大変に嫌っているらしい、伝記作家のトロワイヤは、あんな不細工で、更にそれ程有能な皇帝でもなく、性格的にも何かと厄介なパーヴェルなどを心から愛するなど、どこかおかしい、愚かな女性であるかのように、彼女のことまで否定的な書き方をしているが。

だが彼女が夫のパーヴェルに、ことごとく同意したのは、それだけ夫を愛していたからでもあろう。また前妻とは違い、そのように特に魅力的でもない上に、扱いずらいパーヴェルを深く愛することができたというのは、それだけマリヤが素直で素朴で母性的な女性でもあったということだろう。

実際に、彼女がロシア宮廷に来た時も、その美しさも相まって誰もが「天使の化身」と呼ぶ程、彼女のその質素な所や控え目な所などが好意的に受け止められている。

それに今度こそ面倒な息子が心底気に入るようにと、自らの手で息子の二人目の妻として彼女自身を選んでおきながら、あんな息子を愛し過ぎて気に入らない、もっと自分の方に同意するべきだという、エカテリーナの方にも、往々にして勝手な面が見られる。

 

 

 

 

パーヴェルは、初めて彼女と会った時、特に彼女のその美しさや豊満なスタイルに魅了された言葉を残しているが。

しかしいくら何でも、夫からそれらの外見的なことだけしか好まれていなかったなら、さすがに妻のマリヤの方も不満であっただろうと思うので、やはりパーヴェルも、彼女の人柄の方も、大いに気に入っていたということだろう。

またマリヤは帝国内の数々の慈善活動にも、非常に熱心な女性であった。

このようにマリヤ・フョードロヴナと夫との関係は申し分なかったが、しかし、彼女の横柄で独裁的な義母エカテリーナにより。

彼女の長男のアレクサンドルとコンスタンチン。二人の息子達。

やがて彼らは父親のパーヴェルと母親である彼女の手から、取り上げられてしまった。

そしてエカテリーナは、彼らを完全に自分で抱え込んでしまい、専ら彼女自身の思想的好みである自由主義の方針の下で養育されることになった。

 

 

 

確かに、何かと問題の多い父のパーヴェルの強い影響下の下で、孫達が育てられることを危惧したエカテリーナの気持ちも、わからないでもないが、やはり、その根底にはずっと以前からの、この息子に対する、彼女自身の強い嫌悪感があったからだろう。実際に、エカテリーナはこの息子に対して、ほとんど愛情らしきものを示したことがなかった。エカテリーナの愛人の一人の、アレクサンドル・ランスコイこそが、彼女の息子のような存在だと言われる程であった。

パーヴェルのことを息子として愛する所か、むしろ彼女は息子のことを、帝位を巡る、自分のライバルだとさえ見ていた。

そして現実にも、クーデターの後の彼女の即位当初から、帝国内には血筋から言えば彼女よりも息子のパーヴェルの方が正統であり、彼が成人したあかつきには、権力は彼に移譲されるべきであるという「正論」が存在していた。

パーヴェルも、何十年もの長い間、皇太子の立場に留められたままで、母親に対して強い不満を募らせてきた。

しかし、長男のアレクサンドルと次男のコンスタンチンを、父親のパーヴェルばかりか、母親のマリヤからまで、完全に引き離してしまったのは、やり過ぎだった面もある。

 

 

 

また成長していくに従い、しだいに見られるようになる、アレクサンドルの性格の二重性は、犬猿の仲の祖母エカテリーナと父のパーヴェルの双方に気に入られようと苦心した結果、生まれたものであるともされている。彼ら長男と次男は、このように両親から引き離され、祖母エカテリーナの手により、専ら彼女の好む自由主義的な教育路線に従って教育されることになった。

子供達の実際の両親である皇帝夫妻のパーヴェルやマリヤが、こうしたエカテリーナの方針に不満を抱くのも、当然であった。

一方、次男以下の息子達のニコライとミハイルは、母親のマリヤの手許で育てることができた。そして、その内に成人して結婚した彼女の二人の息子達の結婚が、ことごとく幸せな結果にならなかった後。

彼女は、三人目の息子と三人目の息子の妻との関係は、より円滑なものとしておきたかった。

 

 

 

 

 

ニコライ一世には、宮廷の女官だった、ワルワーラ・ネリドヴァという愛人がおり、「名誉の女官」という称号を与えるなど、夫の彼女への寵愛振りに一時は嫉妬を見せたシャルロッテだが、最終的にはこの愛人の存在を受け入れる。

アレクサンドラは9人の子供を出産した。

1818年に、アレクサンドル誕生。(アレクサンドル二世)

1819年に、マリヤ・ニコラエヴナ・ロマノワ誕生。

(マクシミリアン・ド・ボアルネ・ロイヒテンベルク公爵夫人)

1822年に、オリガ・ニコラエヴナ・ロマノワ誕生。

(ヴュルテンベルク国王カール一世王妃)

1825年に、アレクサンドラ・ニコラエヴナ・ロマノワ誕生。

(カッセル=ヘッセン=ルンペンハイム

辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム辺境伯夫人)

1827年にコンスタンチン・ニコラエヴィチ・ロマノワ誕生。

(ロシア大公)

1831年に、ニコライ・ニコラエヴィチ・ロマノワ誕生。

(ロシア大公)

1832年に、ミハイル・ニコラエヴィチ・ロマノワ

誕生。

(ロシア大公)

しかし、1820年に、第三子の妊娠後、

彼女は死産の娘を出産し、深い鬱病にかかってしまった。

1820年の夏から秋まで、彼女の侍医のアドバイスにより、プロイセンの家族のいるベルリンへ、夏から秋まで帰省する事を勧められ、それが実行された。

1824年の夏には、夫妻でベルリンに

旅行をした。

1825年の3月に、夫婦はサンクトペテルブルクに戻った。

1825年の11月に、アレクサンドル一世が死去した。

 

 

 

 

 

12月1日に、ニコライ一世が即位。

妻のアレクサンドラは、皇后となった。

しかし、新皇帝ニコライ一世即位の二週間後の十二月十四日に、自由主義の貴族将校達による、武装蜂起の「デカブリストの乱」が勃発。この反乱は、鎮圧されたものの、ニコライ一世の治世の初めは、流血で始まったのであった。

一八二八年から、シャルロッテは良好な関係だった義母の、皇太后マリヤ・フョードロヴナの死以来、彼女はロシア国内の少女達の教育機関や学校、彼女は定期的にこれらの昇格のいくつかのご愛顧を引き継いだ。またロシアの畜産や後進的農業の活性化のため、これらの方法について、外国製、主にドイツ方式を採用した。

皇后として、彼女は、数多くの意見表明の役割を果たすために、政治家、外交官や要人達の親族との会合を頻繁に持った。

時代は、国内での度重なるテロ、そしてそれに対する皇帝の厳しい弾圧。

そしてクリミア戦争など、多事多難なロシア帝国の政治情勢だったが、そんな中、

このようにロシア皇后アレクサンドラは、皇后として精力的に活動し、ロシア帝国と夫のために、様々な役割を果たした。

 

 

 

 

 

 

シャルロッテは、体調を崩した際に、イタリアに医師の診察に行っていた。

彼女の健康は、おそらく過酷なロシアの

気候と多くの出産により、大きく損なわれていた。次の年では、1855年の2月15日の、彼女の夫ニコライ一世の死後に、

彼女の状態は急速に悪化した。

一番最近の帰省後、シャルロッテは定期的に何年もベルリンとポツダムの、彼女の家族達の許へと訪れていた。

彼女は弟のフリードリヒ・ヴィルヘルム

四世に別れを告げた後、二ヵ月後の1860年の7月2日に死去した。

1860年の11月に 彼女はサンクトペテルブルクの「首座使徒ペトル・パウェル大聖堂」に埋葬された。

享年62歳。

 

 

 

なお、ベルリンに現在も残るいくつかの

建物、芸術作品や行事などを通して、プロイセンとロシアの友好が記憶されている。「ロシアン・ログハウス」、これもフリードリヒ・ヴィルヘルム三世が娘夫妻のために建てた、ベルリンのニコルスケ地区のロシア様式の「聖ペーター&パウル教会」。

他にもポツダムのロシア人集落「アレクサンドロフカ」、カペレンベルクの「アレクサンドル・ネフスキー記念教会」など。

シャルロッテは、1828年にロシアのツァールスコエ・セローから、弟のカール王子の建設したグリーニケ公園ヘ、弟の誕生日のプレゼントとして、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」のブロンズの複製を贈っている。シャルロッテはこの弟カールとも特に仲がよく、カールも度々、ロシアの皇帝夫妻の許を訪れていた。

1829年の7月13日の、シャルロッテの誕生日を記念して、「魔法の白薔薇」という、有名な馬上槍試合が、ポツダムのサン・スーシー新宮殿の前で開催されている。弟のカール王子は、1869年に、ポツダムのグリーニケとベトヒャーベルク付近に、姉シャルロッテにちなんで、「ロッジア・アレクサンドラ」を建設している。

風光明媚なこの場所は、シャルロッテの

お気に入りの場所の一つであると言われている。