欲しいと、メーメルから彼への手紙の中で書いている。当時、シュタインは枢密院顧問のバイメに、現在の無能な内閣の廃止を求めていた。
ベルリンに帰還する二年前の1807年の10月5日から、 本格的なプロイセンの諸改革か開始されていた。
1808年の11月19日に、
地方自治体の自治を導入する、
重要な「都市条例」が実現した。
10月9日に発令された「十月勅令」
の内容は、農地改革で世襲隷農制の廃止、
土地売買の自由、有償撤廃などを目的としていた。
国王とシュタインは「軍部委員会」の設置を、シャルンホルストも軍制改革の準備に取り掛かった。それは、フランスを追い越すための
当然の成り行きであり、復興のためのプロイセン全体からの呼び声であった。
外務省、司法、金融、軍事で改革しなければ
ならない事が目白押しだった。
しかし、これは難事業であった。
来たるべき再度のナポレオンとの対決を
控え、時間的制約に追われながらの改革だった。プロイセンを早急に、フランスやイギリスのような近代国家に生まれ変わらせなければ
ならなかったのである。
都市改革にはケーニヒスベルクの警察の
ヨーハン・ゴットフリート・フライが、
他にもフンボルト、シャルンホルスト、
グナイゼナウ、ボイエンら有能な改革官僚達が
プロイセンの改革に挑戦していく。
フライにはテオドール・フォン・シェーン
が協力した。
これらプロイセンの存亡をかけた重要な
諸改革には、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世とシェーン・フォン・スヴァレツの
援助と出資があった。
1808年の8月5日、
画期的な布告が出された。
鞭打ち刑の廃止、「一般兵役義務」
そして軍隊における貴族の特権の廃止、
継続的な軍人養成システムの創設、
常設予備軍の創設の草案が提出される。
軍部委員会のメンバーは、シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツ、ボイエン、グロルマンとシュタインだった。
この時のテーマは、将校達の腐敗であった。
1806年にはプロイセンの将軍は
143人であった。
軍人採用試験と一般兵役義務の導入が
計画された。
しかし、これに頑強に抵抗したのが
ブリュッヒャーとタウエンツィンだった。
またヨルクとマルヴィツも、反改革派だった。このような保守派と改革派の対立もあり、
これはその後の正規軍と予備軍の対立となって
現れる事になった。この間王妃ルイーゼは、
プロイセンの諸改革の、斡旋者的存在となって
いた。
このように、シュタインやハルデンベルクなどを
中心に、この頃プロイセン王国では急ピッチで、
精力的に諸改革が行なわれていたが、
これはプロイセンだけの動きでは、なかった。
それまでナポレオンの「ライン同盟」に加わっていた、中部・西南ドイツ地域のライン同盟諸国、
特にバイエルン王国、バーデン王国、ヴュルテンベルク王国においても、「ライン同盟」に加わった事に
より、1803年以降、支配領土を大幅に増やして
いた。そしてそのため、かつては独立し、宗教も歴史的伝統も異なる多く旧諸邦領を併合した結果、
全く新しい国家と社会の体制を整備しなければ
ならなかったのである。
バイエルンでは、官吏に対する試験制度の導入、
内閣制度の導入などが行なわれ、
バーデンでも、内閣制度の導入、
領主裁判権を破棄し、集権的な行政機構の
確立などが行なわれた。
ドイツ中部のナッサウでは、1814年に憲法が
発布され、イギリス型の二院制内閣の導入が
行なわれた。
しかし、フランスによる直接的・間接的支配の中で、一般のドイツ人に対する愛国的な感情を訴え、
またそれを受容する状況が盛り上がっていったのである。ザクセン出身の哲学者フィヒテの有名な講演「ドイツ国民に告ぐ」や、当時最も大衆的な影響力を持っていた、 ポンメルン出身の愛国詩人