カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク
カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク
ゲプハルト・フォン・シャルンホルスト
ゲプハルト・フォン・シャルンホルスト
ナイトハルト伯アウグスト・フォン・グナイゼナウ
ナイトハルト伯アウグスト・フォン・グナイゼナウ
ハーマン・フォン・ボイエン
ハーマン・フォン・ボイエン

 10月9日に発令された「十月勅令」

の内容は、農地改革で世襲隷農制の廃止、

土地売買の自由、有償撤廃などを目的としていた。

 国王とシュタインは「軍部委員会」の設置を、シャルンホルストも軍制改革の準備に取り掛かった。それは、フランスを追い越すための

当然の成り行きであり、復興のためのプロイセン全体からの呼び声であった。

 

 外務省、司法、金融、軍事で改革しなければ

ならない事が目白押しだった。

 しかし、これは難事業であった。

 来たるべき再度のナポレオンとの対決を

控え、時間的制約に追われながらの改革だった。プロイセンを早急に、フランスやイギリスのような近代国家に生まれ変わらせなければ

ならなかったのである。

 都市改革にはケーニヒスベルクの警察の

ヨーハン・ゴットフリート・フライが、

他にもフンボルト、シャルンホルスト、

グナイゼナウ、ボイエンら有能な改革官僚達が

プロイセンの改革に挑戦していく。

 フライにはテオドール・フォン・シェーン

が協力した。

 これらプロイセンの存亡をかけた重要な

諸改革には、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世とシェーン・フォン・スヴァレツの

援助と出資があった。

 1808年の8月5日、

画期的な布告が出された。

 鞭打ち刑の廃止、「一般兵役義務」

そして軍隊における貴族の特権の廃止、

継続的な軍人養成システムの創設、

常設予備軍の創設の草案が提出される。

 軍部委員会のメンバーは、シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツ、ボイエン、グロルマンとシュタインだった。

 この時のテーマは、将校達の腐敗であった。

 1806年にはプロイセンの将軍は

143人であった。

 軍人採用試験と一般兵役義務の導入が

計画された。

 しかし、これに頑強に抵抗したのが

ブリュッヒャーとタウエンツィンだった。

 またヨルクとマルヴィツも、反改革派だった。このような保守派と改革派の対立もあり、

これはその後の正規軍と予備軍の対立となって

現れる事になった。この間王妃ルイーゼは、

プロイセンの諸改革の、斡旋者的存在となって

いた。

 

 最初、ルイーゼとシュタインは、
素晴しい共感を抱き合っていた、
しかし最終的には、2人の関係は
冷却してしまった。
 シュタインは自身の給料も大幅に削減し、
王家にも経費削減を求めた。
王妃ルイーゼも例外ではなく、
重要な宝石以外は、全て売り払わなくては
いけなくなった。
 シュタインとルイーゼは政治的見解で
しばしば対立し、シュタインはルイーゼの
性格をも批判した。
 1808年のクリスマスの祝祭に
アレクサンドルから招待を受けたルイーゼが
夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムと
共に旅行する時にも、堅苦しく実利主義の
シュタインはプロイセンがこのような苦境に
ある時に、また金がかかる、
しかもそれ程政治的にメリットがあるとも
思えないような旅行に出かけると王妃の事を
苦々しく思っていた。
 
1808年の11月24日、「行政組織令」、
内閣制の確立が行なわれた。
 この行政組織令で国王側近達の
「官房統治」が廃止される。
 その代わりとして五省からなる内閣制度が
確立する。
 そして新内閣の人事が発表された。
 金融大臣アルテンシュタイン、法務大臣バイメ、ドーナ、外務大臣ゴルツ。しかし、このプロイセンの改革は、全てが成功した訳ではなかった。
産業・通商改革や軍事改革、教育改革などにより、
プロイセンはその後ドイツ全体をリードしていく
立場になったが、農業改革ではユンカー支配の
形で、領主的な性格が残されたし、
憲法や国民代表議会の導入は、
1815年の国王の布告により約束されたにも
関わらず、 実現しなかった。
また、ウィーン会議以降のドイツの保守化に、
プロイセンも逆らえなかったし、
1819年には改革派官僚の中心である
フンボルトやボイエンなどの追放により、
改革の精神は消え去り、1822年のハルデンベルクの死去により、自由主義的なプロイセン改革の時代、激動の時代は最終的に終わる事になる。
しかし、その諸改革の成果は決して無に帰した訳ではなく、その後のプロイセンの発展の基礎を成したのである。
 
1809年の7月、再びフランスとオーストリアの間でヴァグラムの戦いが行なわれ、
今回もオーストリアは敗れた。
 この再びのオーストリアの敗戦に、
ルイーゼは衝撃を受けた。
 誰もナポレオンに勝てないのか・・・・・・という、暗澹たる思いが胸をよぎった。
 この夏、ルイーゼの弟ゲオルクが病気の姉のためにベルリンを訪れた。
 メクレンプルクからやって来たゲオルクを
迎え、ベルリンの芸術家達は、次々と客演を行なった。
 音楽家のカール・フリードリヒは、
仮面のお祭りを主宰した。
 フリーデリーケ・バートマンは、
演劇を行なった。
 しかし、ルイーゼは、こんな不満を日記に
書いている。
「健康なゲオルクに比べて私はまた新たな病気にかかってしまいました。ゲオルクは慰めてくれましたが。」
 10月4日には妹のフリーデリーケが、
ルイーゼの許を訪れた。
 これも気持ちが沈みがちだったルイーゼ
にとっては、嬉しい対面だった。
「私達の間では、最近名前が挙がっている画家が話題になりました。それから、橋の方まで二人で馬車に乗って出かけてみました。」

 

 

 

 

 

このように、シュタインやハルデンベルクなどを

中心に、この頃プロイセン王国では急ピッチで、

精力的に諸改革が行なわれていたが、

これはプロイセンだけの動きでは、なかった。

それまでナポレオンの「ライン同盟」に加わっていた、中部・西南ドイツ地域のライン同盟諸国、

特にバイエルン王国、バーデン王国、ヴュルテンベルク王国においても、「ライン同盟」に加わった事に

より、1803年以降、支配領土を大幅に増やして

いた。そしてそのため、かつては独立し、宗教も歴史的伝統も異なる多く旧諸邦領を併合した結果、

全く新しい国家と社会の体制を整備しなければ

ならなかったのである。

バイエルンでは、官吏に対する試験制度の導入、

内閣制度の導入などが行なわれ、

バーデンでも、内閣制度の導入、

領主裁判権を破棄し、集権的な行政機構の

確立などが行なわれた。

ドイツ中部のナッサウでは、1814年に憲法が

発布され、イギリス型の二院制内閣の導入が

行なわれた。

 

 

 

 

ナポレオンのドイツ支配は、ドイツの諸連国に

とっては、存亡の危機に立たされた時代であり、

そのために改革に対する真剣さも、

その規模や内容も、啓蒙絶対主義のそれを

遥かに越えたものであった。

そしてその成果は、「解放戦争」の中で、

試される事になった。

その運動を支えたのが、ドイツの国民意識の高揚

だった。それまでのドイツ人にとっては、

祖国とはブランデンブルクやバイエルンなどの

領邦であり、抽象的な、ドイツという観念は、

知識層や啓蒙思想家の中にはあったとしても、

歴史具体的な場としては、存在していなかった。

しかし、フランスによる直接的・間接的支配の中で、一般のドイツ人に対する愛国的な感情を訴え、

またそれを受容する状況が盛り上がっていったのである。ザクセン出身の哲学者フィヒテの有名な講演「ドイツ国民に告ぐ」や、当時最も大衆的な影響力を持っていた、 ポンメルン出身の愛国詩人

エルンスト・モーリッツ・アルントの 「時代の精神」

などは、その代表的なものだった。