プロイセンの王妃達
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ドイツのアンティークポストカード
画家ヨーハン・フリードリヒ・アウグスト・ティシュバインと王妃ルイーゼ姉妹
ついにイギリスの方でも、イギリス国王ジョージ一世・プロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテの母ハノーファー選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツ再評価の兆し?
「王妃の第五竜騎兵連隊」と国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の軍服デザインへの関心
王妃ルイーゼのファッションへの深い関心
フランスの有名女性画家ヴィジェ・ルブラン夫人とプロイセン王妃ルイーゼ
宮廷彫刻家ゴットフリード・シャドーと王妃ルイーゼ・フリーデリーケ姉妹
「プロイセンの白薔薇」―ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ
プロイセン王女フリーデリーケ・シャルロッテにモーツァルトが献呈した「ピアノ・ソナタ 第18番二長調K576」
ミス・プロイセン 2010年 王妃の三つの展覧会
ルイーゼへのレクイエム
ツァーリの宮廷でのルイーゼ(ノイシュトレーリッツからサンクトペテルブルクへの音楽の橋) シャルロッテンブルク宮殿フェスティバル
―王家の哲学者―ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー
―心の病にかかってしまった王妃―ゾフィー・ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン=グラボウ
―フリードリヒ大王の母―ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー アールデン城に幽閉された母
華やかなハノーファー宮廷での生活
横暴で気質の合わない夫フリードリヒ・ヴィルヘルムとの結婚への幻滅
夢のイギリス王家との二つの縁組
王妃ゾフィー・ドロテアの九人の子供達、フリードリヒ大王の姉妹弟達
国王フリードリヒ二世の栄光の母親の王大后に
―不当に無視された王妃エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン 歓迎されない婚約
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン2 幸せなラインスベルク宮殿での日々
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン3 シェーンハウゼン宮殿での孤独な年月
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン4 七年戦争とマグデブルクへの避難
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン5 文学・宗教への関心と晩年
―「偉大なる辺境伯夫人」の娘―フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
―非プロイセン的にして伝説的王妃―ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ ハノーファーでの少女時代とプロイセン王太子との結婚
異端児のプロイセン王太子妃
美貌のプロイセン王太子妃
ナポレオンの台頭とベルリンのサロン
プロイセン国王夫妻
ルイーゼとドイツ・ロマン派の作家との交流
ロシア皇帝アレクサンドル一世との同盟
フランスのハノーファー占領
「ライン同盟」の結成とナポレオンのドイツ方面での勢力拡大
イェーナ・アウエルシュテットの戦い
ナポレオンのベルリン占領・国王一家の逃亡生活
ティルジットでのナポレオンとの会談
ティルジット条約とプロイセンの没落
プロイセン再生の気運
ホーエンツィーリッツ
解放戦争~プロイセン復興~プロイセンの殉教者にして聖母
―夫の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世とバイエルンの家族達への愛に生きる―エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン
家族愛に生きる姉エリーザベトと政治の妹ゾフィー
「三月革命」と晩年
―「今世紀の勇敢な雌ライオン」と呼ばれたルイーゼ王妃の妹―フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ プロイセン王子との不幸な結婚とソルムスとの恋
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ ナポレオンのアンスバハ占領とプロイセン敗戦後のケーニヒスベルクでの亡命生活
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ 愛する姉の王妃ルイーゼの死と「解放戦争」
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ ソルムスとの結婚生活の破綻と別居
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ ハノーファー王妃
―「ムーゼの宮廷」―ルイーゼ王妃の姉 ザクセン=ハイデルベルクハウゼン公爵夫人シャルロッテ
番外編 ―プロイセンのアポロン―ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン
ルイ・フェルディナント王子作曲曲のCD
ピアノ・ソナタ嬰ヘ短調op.61プロイセン王子ルイ・フェルディナントの死に寄せる悲歌
プロイセンのルイ・フェルディナント公のモティーフによる悲歌
ベルリンサロンのサロニエール達
ヘンリエッテ・ヘルツ
ヘンリエッテ・ヘルツ2
ヘンリエッテ・フォン・クレヤン
エリーザベト・フォン・シュテーゲマン
―影響力あるサロン主催者のプロイセン王女―ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケ
ドロテア・フォン・クールラント公妃
アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒ
―ルイーゼ王妃の次女―アレクサンドリーナ・フォン・プロイセン(メクレンブルク=シュヴェリーン大公妃)
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これまでにも書きましたが、軍事国的なイメージが強いプロイセンですが、代々ホーエンツォレルン王家の人々は、音楽に大変関心が深く、またしばしば音楽的才能を持った人物達も現われました。特にそれが顕著なのは、自身も作曲家であり優れたピアノ演奏家でもあった、ルイ・フェルディナント王子でした。またフリードリヒ大王はフルートの名手、そしてその甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、チェロの名手であり、宮廷楽団まで持っていました。またフリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、1786年にはハイドンに六曲の弦楽四重奏曲(プロイセン四重奏曲、作品50)<を書かせており、ベ-ト-ヴェンも国王に1796年に二曲のチェロソナタ第1番と第2番を献呈していた。 1789年の4月に、プロイセンのポツダムやベルリンの方に演奏旅行でやって来ていたモーツァルトは、プロイセン王妃フリ-デリケ・ルイーゼの要望により、5月26日にベルリンで演奏会を行なった。この演奏会でモーツァルトは、フリ-ドリヒ・ヴィルヘルム二世から、六曲の弦楽四重奏曲と、離婚した前妻のエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ・フォン・ブラウンシュヴァィク=ヴォルフェンビュッテル(彼女については「偉大なる辺境伯夫人」の娘―フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット」の記事を、参照してください。)との王女フリ-デリーケ・シャルロッテ(後にジョージ三世の息子の、ヨーク・アルバニー公爵フレデリック・オーガストと結婚。)のための、六曲の簡単なピアノ・ソナタの注文を受けた。 モ-ツァルトは、この依頼を受けた後、6月4日にオーストリアに帰国。モーツァルトはウィ-ンに戻ってから、プロイセン国王と王女に依頼された作曲に取り掛かったものの、一向に進行せず、合計二年をかけ、結局3曲の弦楽四重奏曲である、「弦楽四重奏曲第21番ニ長調K.575『プロイセン王第1番』」に「弦楽四重奏曲第22番変ロ長調K.589『プロイセン王第2番』・「弦楽四重奏曲第23番ヘ長調K.590『プロイセン王第3番』」と、結果的にあまり簡単ではなくなってしまった、一曲のピアノソナタ「ピアノ・ソナタ18番ニ長調K.576」だけの完成に終わった。この内、弦楽四重奏曲K575「プロイセン王第一番」と「ピアノ・ソナタ二長調(K576)」は、1789年の六月に作曲し、ピアノソナタの方は、この年の七月にフリーデリーケ・シャルロッテ王女に献呈。「弦楽四重奏曲 第22番変ロ長調K589「プロイセン王 第2番」と、「弦楽四重奏曲 第23番ヘ長調K590「プロイセン王 第3番」は、1790年の5月に完成した。 しかし、実は1789年の時の、このプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世との謁見は、順調に行かず、招待されながら、モーツァルトは三日の間、謁見してもらえなかったという。このモーツァルトのプロイセン方面への旅行は、当時経済状態が悪化していたモーツァルトが、宮廷に仕事を見つけようと計画したものだったのである。このように切実な事情を抱えていたため、モーツァルトは何とか国王に謁見してもらおうと、当時プロイセンの宮廷楽団楽長だった、フランス人のチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポール(プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世のチェロの教師でもあった。)に謁見を取り持ってもらおうと、彼の作品を基に、「デュポールのメヌエットによる九つの変奏曲 ニ長調 K573」を作曲した。しかし、デュポールは高慢な所がある人物だったらしく、モーツァルトとけんかになった事があるようだ。だが最終的には和解したようである。国王の方は、モーツァルトを宮廷楽団楽長に雇いたいと申し出た。 しかし、結局この話は成立しなかった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム二世
フリーデリーケ・シャルロッテ・フォン・プロイセン
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