ルイ十四世により、ナントの寛容勅令が破棄された事により、プロテスタントの信仰を守るために、
多くが移住してきていた。そして、その内の何人かの女性達は、貴族やユダヤ人も含めた富裕層の
あったからである。しかし、その内にフランス革命により、新しいフランス人亡命者が多くベルリンに
ユグノーも含めて、古くからあったベルリンの社交グループの距離が、接近していき、
この壁が崩れ始め、やがてこのベルリンのユグノー亡命者の家に生まれた女性達の中からも、
1755年の11月1日に、ヘンリエッテ・フォン・ルヴォーは、ベルリンのユグノー市民階級の名門
ルヴォー家に生まれた。
テオドーア・フォンターネは、小説「シャッハ・フォン・ヴーテノー」の中で、彼女を彼女をモデルとした
「フォン・カラヨン夫人」として描き、
彼女を主人公にしてこの小説を書き、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンのために、
文学的な記念碑を建てた。
彼女と親しかったサロニエールの一人である、
ラーエル・ファルンハーゲンの夫の、カール・アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼは、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンの様子を、
すでに1811年に、50代の半ばであったこの時でもなお、「最も機知に富んで楽しい、最も話上手な
女性の一人で、いつまでも若々しいロココの人だと言い、更に詳しく次のように述べている。
「今も非常に若々しい活発な精神の持ち主で、
記憶力はすばらしく、その記憶力が、夫人の恵まれた話術の才とウィットに、無尽蔵の話題を与えていた。 夫人はどんな小さなきっかけも逃さず、
辛辣でピリッとしたユーモアのセンスを発揮した。
必ず狙い通りの効果をあげるこのユーモアは、
好かれもし、恐れられてもいた。親しく文通していたのは、才気煥発なゴータ公とヴァイマル公、高齢になっても人生を楽しんでいたリニュ候・・・・・・」
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンのサロンは、
フランスとドイツのサロンを繋ぎ、アンシャンレジーム及び革命時代と王政復古時代を繋ぐ、
繋ぎ目となった。
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンは、
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の
寵姫のリヒテナウ伯爵夫人ヴィルヘルミーネ・フォン・エンケやフランス王妃マリー・アントワネットと
ほぼ同年齢なので、本物のベルリンサロン主催者
最年長である。ユグノー富裕層の通例として、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンは、フランス風のすばらしい教育を受けた。そしてその上美貌で社交的
だったから、ベルリンでは賛美の的だった。
当時王太子だった、後のフリードリヒ・ヴィルヘルム
二世も、彼女の賛美者の一人だった。
1777年に、ヘンリエッテ・フォン・ルヴォーは、
銀行家で宮廷顧問官のプロイセン領事クレヤン
とライプツィヒで結婚する。
ヘンリエッテは、ライプツィヒで交際の多い華やかな生活をし、その屋敷には多くの高位の人々が、
訪れた。 この屋敷での集いは開放的で洗練されており、これはもうまちがいなく、「サロン」だった。
この場所には国際的な貴族、作家、外交官、
政治家が客として出入りした。
例えばポーランドの政治家イグナーツ・ポトツキ
伯爵、フランスの政治家アレクサンドル・ド・ラメット
伯爵、外交官ド・ボネ侯爵、冒険家ティリ伯爵。
主なドイツ人の客としては、作曲家ヨーハン・フリードリヒ・ライヒャルト、ジャン・パウル・フリードリヒ・リヒター、ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、
ザクセン=ヴァイマル公カール・アウグスト・、
ザクセン=ゴータ=アルテンベルク公アウグスト
などがいる。
作家ジヤン・パウル・リヒターは、ヘンリエッテ・フォン・クレヤンとの対話を非常に楽しみ、
その当意即妙を高く評価し、彼女がドイツ語を十分に使いこなせないからという理由で自分の作品を
一行も読んだ事がないのも許していた。
その上ジャン・パウルは後に、ヘンリエッテの親戚の娘でベルリン出身のカロリーネ・マイヤーと結婚している。ヘンリエッテの屋敷で、作家達は世界主義者のヨーロッパ貴族と出会った。
人々は真面目な討論もしたが、ほのめかしや皮肉
めいた言葉に満ちた微妙なおしゃべりも楽しんだ。
更に、彼女のサロンでは、芝居まで上演された。
また、行き当たりばったりという、ロココ時代の流儀で、ヘンリエッテには数々の色恋沙汰があり、
その相手は君主その他有名な人物である。
こういった関係は、彼女の社会とのつながりや、
彼女が社会に及ぼした影響という点でも
無意味ではなく、個人的な事として見過ごす訳にも
いかない。
後年に、彼女の友人のフランス大使秘書官、
フェルナン・シュヴァリエ・ド・キュシイが確かな保証付きとして名前を挙げている、彼女の恋人だった男性達は、次の面々である。
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世、
ザクセン=ヴァイマル公カール・アウグスト、ザクセン=ゴータ公フリードリヒ四世、フォン・リニュ侯爵、
フォン・リシュリュー侯爵、フォン・ヴァルデク侯爵、
ロシアのラスタプチン伯爵、フランス公使ド・ボネ
侯爵、色好みの詩人スタニスラス・ド・ブフレ侯爵、
ロシア皇帝アレクサンドル一世の有名な女友達の
夫クリューデナー男爵である。
この人名リストには、ゴシップ好きの誇張も、
入っているにしても、1785年に生まれて、
後にヴァイマル軍に服役したシャルル・マルク・アントワーヌが、カール・アウグスト公との息子だというのは、確実である。
アメリカ外交官ガヴァヌーア・モリスのような見聞の
広い人も、機知に富むクレヤン夫人ヘンリエッテ
から、強い印象を受けている。
彼の報告からは、ヘンリエッテ・フォン・クレヤンが、
ライプツィヒ時代にもベルリン社交界と密接な繋がりを持っていた事が、確認できる。
姉エリーザベト・セザールの屋敷に滞在中の
ヘンリエッテは度々見かけられ、ベルリンでは
相変わらず有名人だった。
夫のクレヤンが亡くなると、彼女はベルリンに
戻り、1805年から1830年に渡り、
ウンター・デン・リンデンで貴族及び外交官を
中心とする、サロンを主催した。
ヘンリエッテはルイ・フェルディナント王子の恋人として有名な、パウリーネ・ヴィーゼルの叔母でも
あり、彼女はルイ・フェルディナンと自分の姪
パウリーネを中心とする、グループの一員だった。
そして他の各ベルリンサロンとも親しく、
高齢になるまで自分のサロンを取り仕切った。
やがて、プロイセンも戦争から復興し、
1840年には、若き国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の治世となった。彼は学問・芸術に関心が
高く、ベルリンでのそれらの振興を、大いに奨励した。 実際に、彼の時代は、諸学問と造形美術が興隆し、このような文化的興隆は多くのサロンの誕生と、その発展を促した。
しかし、それ以前にメッテルニヒ主導で、ウィーン体制が構築されていき、すでに1819年には、
メッテルニヒ主導により、オーストリアとプロイセン政府は、カールスバートで開かれた連邦議会で、
学生団体及び運動の厳禁、新聞、雑誌の検閲、
大学における教授の自由の制限などの、
弾圧政策が決議され、比較的自由な当時のベルリンの政治的雰囲気は、あっという間に変貌して
いった。たちまち、このような動きにより、
プロイセンの専制君主制を奉じる官吏達や、
反動的なユンカー達が、勢いづいていく事に
なった。このような時代の流れから、
反ナポレオン戦争を準備し、実際に戦争になった
時代とは異なり、政治に参加するサロンは、
ベルリンにはもう存在しなかった。
そしてこの頃に存在していたのは、
外交官や高位の官僚達の出入りするサロンだけ
になり、その中の影響力のあるサロンの一つが、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンのサロンだった。
このサロンでは、政治的な用向きや会話は、
一切行われなかった。しかし時には、
主要な政治家達が、例えばとかく噂のあった、
反動的内務大臣フォン・シュックマンなどが
居合せる事もあった。
そういう時、人々は例えば地位や官職を得ようと、
ヘンリエッテのサロンで見かけられる、
影響力のある人物や庇護をあてにして取り入った。
他の客達としては、ブルボン王朝のフランスの
新しい外交官達は、フランス語が話されるので、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンのサロンを訪れた。
そこではフランスのアンシャンレジーム期の
雰囲気を思い起こさせるので、フランス人達は
高く評価していた。フェルナン・シュヴァリエ・ド・キュシイは、 サロンではフォン・クレヤン夫人は、
ただ「ニノン・ド・ランクロ(17世紀フランスの、
著名な美貌のサロニエール)」と呼ばれていて、
夫人が親切で気品に溢れていたからである
と報告している。そして、そのサロンはエチケットの
一種の学び舎と呼ばれていて、夫人の無数の
恋人達が忠実な友人となっており、
まるでフランスの有名なサロン女性の傍らに
いるようであったと報告している。
後に、アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒの、
ワイマール古典主義とスウェーデンロマン派の
サロンと並んで、有名なサロンとなる、
こちらはイギリスロマン派がその関心の中心となる、詩人・作家、そして翻訳家の若いエリーゼ・ホーエンハウゼン男爵夫人もまた、フォン・クレヤン
夫人の所ではベルリンの全ての高貴な人々に、
しかも主として殿方に出会えると認めている。
特に重鎮の政治家達が、このサロンで夫人の
ウィットに富んだ毒舌で気分を明るくさせてもらうのを好んでいたという。
やはり、ヘンリエッテを非常に認めていた
ハルデンベルク自身は、多くは過労のせいにより、彼女のサロンには姿を現わさなかった。
ヘンリエッテは宮廷にも出入りし、
また自分のサロンの中で宮廷社交界の人々と
会っていた。彼女の古くからの信奉者であり、
息子シャルル・マルクの父親でもある、
大公カール・アウグスト・フォン・ザクセン=ヴァイマル大公とは、彼が1828年に亡くなるまで、
友情溢れる交際が続いていた。
ヘンリエッテの政治的立場は、あらゆる政治の
陣営に友人がいたので明確に規定されない。
しかし、おそらくメッテルニヒ体制の支持者では
なかったと思われる。
このように優れたサロニエールであった、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンにも、
弱点があった。
例えば折にふれては客の前で有名な自分の崇拝者達の恋文を朗読する事が常になっていた。
そして更に、その恋文の文庫まであり、
名付けて「ミュゼ・ダムール(恋の博物館)」と言った。しかし、彼女のこの弱点は大目に見られ、
ヘンリエッテ・フォン・クレヤンは、誰にでも愛された。1827年の3月の、ファルンハーゲンの報告によると、クレヤン夫人ヘンリエッテが、晩に家へ
戻る途中で、馬車の転覆事故で腕を折ってしまった。彼女は当時すでに70歳を越えていたため、
明らかにドイツのフランス人社会をベルリンサロンに仲間入りさせるという興味深い功績をあげている。更に、クレヤン夫人の娘ヴィクトワール・フォン・クレヤンは19世紀の半ばまで、
ベルリンサロン社交界の重要で人気のあるメンバーでもあった。サロン社会における家族的伝統を