10月25日、ベルリンでプロイセン国王

夫妻とロシア皇帝の間で2回目の会談が開かれた。

 ベルリン宮殿では、ロシア皇帝のために

豪華な歓迎の宴が催された。

 ルイーゼにとって3年振りの、

崇拝しているアレクサンドルとの再会であった。しかし、3年前と比べて、アレクサンドルはどこかよそよそしいようにルイーゼには

思えた。

 ルイーゼは、何か大きく期待を裏切られた

ような気分になった。

 アレクサンドルは移り気な所のある

男性であったため、また愛人のマリヤ・ナルィシキナとよりを戻し始めていたのかもしれない。このルイーゼの失望には、

夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムも気が付き、

不機嫌になった。

 しかし、アレクサンドルの方は、

いつも通りに如才なく振る舞った。

 結局、この会談では両国間での最低限の

一致点を見ただけだった。

 この日、フリードリヒ・ヴィルヘルムは

メランコリックで閉鎖的だったし、

ルイーゼの方はアレクサンドルの態度に対して、不満といらいらで一杯だった。

 あまり収穫のないまま、ベルリンでの

2度目の会談は終わった。

 

 

 とはいえ、11月3日にはポツダムに

おいて両国間の間に条約が調印された。

 その内容というのは、プロイセン側の

協力条件の明示はなく、対仏同盟に

付く事は約束、そして勝利の暁には

プロイセンがハノーファーを獲得する

というものだった。

 11月4日の真夜中、アレクサンドルは

不意にフリードリヒ大王の墓所に詣でる事を

提案した。

 真夜中、松明の灯りを頼りに

3人は地下の納骨堂に降りていった。

 アレクサンドルは、今後のナポレオンとの

戦いにおいて、祖母エカテリーナと父パーヴェルが崇拝していた偉大なフリードリヒ大王の

加護を祈るという事で興奮していた。

 

 

 しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の方は、不気味さでしばらく墓所に足を踏み入れる事を躊躇した。アレクサンドルとプロイセン国王夫妻は固く手を握り、永遠の友情と忠誠を

誓い合った。

 なお後年アレクサンドルは父のパーヴェル

一世と同じく、神秘主義に傾倒していった。

 

 ナポレオンは1805年の12月2日、

「三帝会戦」とも呼ばれるアウステルリッツの

戦いで、アレクサンドル一世率いるロシア軍と

フランツ二世率いるオーストリア軍を破った。

 

 

 この頃プロイセンは、ますます政治的に

困難な局面に立たされていた。

 今やオーストリアとロシアは、

フランス軍の出撃基地と化していた。

 アンスバハは中立を保っていた。

 プロイセン側はアレクサンドルの

この姿勢に、不快感と不信感を抱いた。

平和主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム三世

のこれまでの中立政治の対応も、

ますますナポレオンの貪欲な征服欲を

拡大させる結果になっていった。

 

 

 1806年のフランス軍との戦いで

ルイ・フェルディナント王子は、

プロイセン軍の先鋒の司令官を任される事になる。彼は相変わらず独身のままでブルジョワ的

な自由気儘な生活を送り、恋人ヘンリエッテ・フローメとの間にはすでに2人の私生児を

もうけていた。

このホーエンツォレルン家の王子は、

政治や戦い、多くの情事と宮廷での酒盛りなどの日々を 送っていた。

 

  1806年の2月頃から、

プロイセンでは内閣と宮廷の間で、

ナポレオンとの中立関係を保つべきだとする主張と、ナポレオンに対抗する体制を作り上げるべきだとの主張が、対立するようになっていった。ルイ・フェルディナント、フリードリヒ・カール帝国男爵と同じく帝国男爵のシュタイン、それにシャルンホルスト将軍に歴史家のヨハネス・フォン・ミュラーが、

ラジヴィウのヴィルヘルムプラッツ宮殿に集合していた。

 彼らは、一向に中立政治を変えようとしない国王への批判をしていた。

 プロイセンが対外的に不安要素を抱えていた中、ルイーゼに運命の一撃が訪れた。

 1804年に生まれた8人目の息子

フェルディナントが、1806年の3月に

死去してしまったのである。

まだ3歳にも満たなかった。

ルイーゼにとって、3回目の子供の死だった。

ルイーゼは、子供の死を深く悲しんだ。

そしていらいらするようになり、

情緒不安定になってしまった。

そして子供の死による打撃という、

心理的要因から、しだいに身体が衰弱して

いった。

 

  ルイーゼはイェーナの大学教授で

プロイセンの宮廷医のクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェランドから、

ベルリン宮廷から遠く離れたバートピュルモントでの転地療法を勧められた。

  ルイーゼはフーフェランドの勧めに

従い、しばらくバートピュルモントで

療養する事にした。

 

 

なお、この間の5月に、ルイーゼはシュタイン男爵とフォス伯爵から数えきれない程の思案文書を、王妃から国王に渡してくれるよう、

頼まれていた。

 その内容とは、直ちにナポレオンのドイツ方面侵攻に対応できる、強力な内閣を発足する事だった。

 

 

 また、その後も今度はシュタイン、ルイ・フェルディナント王子、プヒュル将軍とリュッヘル将軍、そしてその他幾人かの参加者達が数多くの思案文書を国王に提出した。

今度の内容は、フランスとの融和派の閣僚達は、内閣から遠ざけるようにとの内容だった。彼らは全員、外務大臣のハーウィッツ伯爵を痛烈に批判している。

 

 

 

オーストリア軍のアウステルリッツの

敗戦から、フランツ二世の支配下にあった

ドイツの諸侯達が明らかに離れ始めていく。

 彼らは、征服者であるナポレオンを

受け入れたのである。

 1801年の「リュネヴィルの和約」からの

フランスのライン左岸領有により、

この講和で領土を失った南部と西部の

大中諸領邦がその損失の埋め合わせを

帝国内でするべく、1803年に開かれた

帝国代表者会議でナポレオンの同意の下、

41の帝国都市や小候国など112もの

神聖ローマ帝国等族領が取り潰され、

中規模以上の領邦に吸収された。

「陪臣化」。

 またマインツ以外の20の大司教領に

主教兼公爵領、40の僧院と修道院の

全教会領も接収された。

「世俗化」。

 多くの帝国領邦の君主達は、

自国の地位の上昇と領土拡大を歓迎し、

神聖ローマ帝国内の占領地に対する、

フランスの属国扱いにも目をつむった。

 この帝国代表者会議の結果、

中でも特に多くの領土を獲得したのは、 プロイセン、そして南ドイツ諸邦のバイエルン、バーデン辺境伯領だった。

  

 

 1806年の7月12日、

南西ドイツの諸邦の代表者16人が

パリに集まり、フランス皇帝を保護者とする

「ライン同盟」が結成された。

 バイエルン公国、ヴュルテンベルク公国、バーデン辺境伯領、ヘッセン=ダルムシュタットなどが主要な参加国である。

 この国々は帝国議会において、

正式にドイツ帝国からの分離を表明した。

 フランツ二世は、何ら為す術なく

帝国を支えていた諸邦が離脱していくのを

見守るしかなかった。

 1806年の8月6日に、

神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世は

退位させられた。

 カール大帝以来、長きに渡り連綿と

続いてきた神聖ローマ帝国はここに消滅し、

帝国の栄光の歴史は閉じられたのである。

 今後フランツ二世は、オーストリア皇帝のみを称する事になる。

この報せを聞いたプロイセンにも、

衝撃が走った。

ルイーゼは、これを絶望的な悲劇として

受け止めた。

 

 

 12月26日に、ナポレオンとフランツ二世は「プレスブルクの講和」を結んだ。

 その結果、オーストリアはヴェネツィア、

フリウリ、ダルマチアとイストラの全領土を失った。

 こうしてナポレオンは、イタリアの支配者となった。そしてバイエルン州のチロルと

フォーアアールベルク州の全土も割譲する事になった。

 そしてすでに1803年の「陪臣化」で

大幅に領土を拡大していたバイエルン公国

ヴュルテンベルク公国は王国に格上げされた。

またバーデン辺境伯領は、バーデン大公国となった。

 オーストリアは更に400億フランを、

賠償金として請求された。

 これにより、ヨーロッパの再編成が始められた。

 この報せを聞いたイギリスのピット首相は、

病床でフランスと講和を結んだオーストリアとロシアを激しく非難したまま急死した。

 

 

 アウステルリッツの敗戦の後、

フリードリヒ・ヴィルヘルムはこう言った。

「私は基本的にはこの結果を喜んでいる。

ナポレオンが勝利して良かった。

これで新たな講和が結ばれ、平和になる。」

 この国王の反応にプロイセンの人々は驚き、ほとんどが苦々しく思った。

 この間の1806年の12月15日、

ウィーンのシェーンブルン宮殿で、

フランスとプロイセンの間で

「シェーンブルンの講和」が結ばれた。

 そしてプロイセンの領土である 、

クレーフェ公国とヌーシャテルはフランスに、

プロイセンにはその代わりとして、1803年にフランスが軍隊を率いて占領したハノーファーを、そしてアンスバハとバイロイトを加えた領土を、バイエルン王国が併合する許可を与える事が、ナポレオンから提案された。

プロイセンは、何とかアンスバハを取り戻そうとしたが、成功しなかった。

 そしてプロイセンはイギリスと貿易を

行わなくする事を誓約した。

しかし、このハノーファーはプロイセンに

とって危険な贈り物であった。

 なぜならハノーファーは、

いまだにれっきとしたイギリスの領土であり、

今後この領土の所有を巡り、

プロイセンとイギリスとの間に

紛争が起こる可能性を孕んでいた。

 フランス軍によるハノーファーの

占領時、ナポレオンは「エルベの慣例」を

主張し、フランスの領有権を主張したが、

イギリス国王ジョージ三世はこれを認めなかった。

 だから依然としてハノーファーは、

イギリスの領土となっていたのだった。

イギリスは、当分は慎重に事態の推移を

見守る事にした。