プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツの次女。
1803年の2月23日に、
フリーデリーケ・ヴィルヘルミーネ・アレクサンドリーナ・マリー・ヘレーネは、生まれる。
当時同盟関係にあったロシア皇帝アレクサンドル一世との友好の証しとして、
このプロイセン国王夫妻の次女には、
アレクサンドリーナという名が付けられたのである。
プロイセン国王夫妻とロシア皇帝は、
同盟以外にも、個人的な友情で結ばれていたのだった。
母ルイーゼの日記の中では、アレクサンドリーナは「穏やかで素直です。」と書かれている。
1806年の10月に、プロイセンは
フランスとの戦いで大敗し、
ナポレオン軍がベルリンに進軍した。
幼いアレクサンドリーナは、
兄姉達と共に、2年間の不自由な逃亡生活を
送らなければならなくなった。
2年後の1809年12月15日に、
国王一家はベルリンに帰還した。
この間に、アレクサンドリーナの妹のルイーゼと弟のアルブレヒトが生まれていた。
しかし、それから一年後の1810年の
7月19日に、愛する母ルイーゼが、
34歳で病死してしまった。
この時アレクサンドリーナは、7歳だった。
アレクサンドリーナや父達他の家族を始め、
プロイセンの人々はルイーゼ王妃の死を
深く悲しんだ。
アレクサンドリーナが結婚する年頃になっていた1822年頃、初め国王はアレクサンドリーナを、元ナポレオン軍の元帥でスウェーデン
国王となっていたベルナドットの息子オスカル
王太子と結婚させようとしたが、
ベルナドットにこの話を断られた。
ベルナドットの妻でスウェーデン王妃の
デジレは、かつてのナポレオンの婚約者
だった。
結局、国王はアレクサンドリーナを、
メクレンブルク=シュヴェリーン大公パウル・フリードリヒと結婚させる事にした。
5月25日にベルリン宮殿で、
2人の結婚式が執り行われた。
夫妻はフリードリヒスルスト宮殿、
その後はシュヴェリーン宮殿に住んだ。
2人は幸せな結婚生活を送り、
結婚一年後の1823年には、長男フリードリヒ・フランツ二世、1824年には長女ルイーゼ、1827年には次男ヴィルヘルム公子の、
3人の子供達に恵まれた。