このように、プロイセンでも革命の動きが広まっていった背景としては、当時のベルリンの知識人達を中心として立憲自由主義の思想が広まっていったこともあるが、人口増大による貧困の拡大、伝統的手工業の衰退、不作と物価高騰、経済不況やコレラなどの問題から、改革を頑なに拒否する国王や政府への不信感や閉塞感が蔓延し、大勢の人々の現状批判の気持ちが高まっていったことも、大きな要因だった。
一八四八年の二月にパリで革命が発生し、たちまちヨーロッパ各国へと広がっていった。初めベルリンでは、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が、ベルリンへの革命の波及に備えて市内の軍を増強していたが、パリでの三月革命の影響を受けて起こったウィーン革命の知らせを受けると、十八日には急遽検閲廃止、連合議会召集の勅令を発し、自由主義を容認する姿勢を見せた。
しかし、この日の午後に、王宮へと行進していった、主に市民や手工業者達から成る群衆達に対し、様々な議論を巻き起こすことになる、二度の発砲が行なわれた。
当時のシュヴェリーン伯爵夫人ゾフィーの証言によると、国王が王宮前に集まった群衆達に向かって演説を行ない、それに対して民衆は国王に対してみんな帽子を振って応えており、まだ暴徒とまでは化していなかった時だという。しかし、この市民達への発砲をきっかけに、都市下層民や市民達は武装してあちこちでバリケ-ドを築き、軍との間で激しい戦闘が開始され、ベルリンでの革命も、たちまちフランス革命の時のような、流血革命の様相を呈した。そして更に上記のシュヴェリーン伯爵夫人ゾフィーは続けて、「銃声や大砲の音がやまず、あちこちの塔から突撃の声や音が聞こえます。」と当時の騒然とした雰囲気を伝えている。
結局この市街戦により、二百人以上の犠牲者を出した。内乱を避けようとした国王は、やがて極めて譲歩的な対応に出る。軍隊を市外に撤退させて、ベルリン市内の治安維持のために即席で市民パトロールが組織された。
そして国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ニ百名以上の市街戦の犠牲者達の棺に表敬した。だが国王のこのような行動は彼に新しい友人ではなく、新しい敵を増やしただけだった。ベルリンの保守派は、兵士達がほとんど蜂起派を制圧してから退却命令を出したとして、国王を非難した。
ベルリンの有名なサロン主催者の一人であり、画家の姉カロリーネを持つ、ヴィルヘルミーネ・バルドゥアは四月九日にこう記している。「多くの人が、共和制になる日も近いと思っている。皆二つの党派に分かれているが、そのどちらもが反王党派だ―なんてひどいことだろう!ある人たちは、王が銃撃を続けさせなかったので、プロイセンは体面を汚したと言う。またある人たちは、王が大虐殺を容認したので、王と民衆の絆が引き裂かれたと言う。これが理性を失わずにいられようか!?そしてこの対立はあらゆる人たちの間に入りこんでいて、家族のなかでさえ互いに争っているのだ。今は政治がすべてで、解きがたい混乱が広がっている。あらゆる自由が人々の頭の中で蠢いているので、私はどうやったらこれらの自由をひとつの統一体にまとめあげられるのか、考えることさえまったくできない」。
そしてそれまでの国王との理想的だった貴族や国民達との信頼関係は、こうして崩壊した国王はこの大勢の人々の失望により、大変な負担を感じた。
王妃エリーザベトは、このようにベルリンで革命の大騒動が起こっている間、重い気管支炎にかかっており、ベッドから起き上がれない状態となっていた。
彼女も夫と同じく、現在のベルリンでの状態に不安と心配を感じていながらも、体調が回復するまで、しばらくはこうして寝付いていることしかできなかった一方、ベルリンの激怒する人々の中から、国王の殺害すら口にする者まで出てくる有様だった。
武力制圧を主張していた王弟ヴィルヘルムは、秘かに大混乱に陥っていたベルリンを出発して、イギリスへと亡命しなければならなくなった。そしてそのままイギリスに、数週間の間滞在することとなった。
やがてベルリンでの革命の動揺は、静まっていった。そして、再び確立されたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の地位。今まで王妃エリーザベトは、自分から好んで政治の中に入っていこうとはしなかった。
しかし、この三月の革命は、最初で最後の、彼女のその役割を強制した。
政治的に、中心的な立場に置かれること。
彼女は、その時にいかなるはっきりとした政治的な指揮も、明らかに続行しなかった。
しかし、この時に、このようにベルリンで広がりつつあった自由主義的な動きに関しては保守的な態度を取った。
そして、彼女は夫の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の王権神授説を信じ、何とかして王権を守るために「Kamarilla」と呼ばれる、保守反動派の党派の人々の協力を求めた。
将軍レオポルト・フォン・ゲルラッハ、グスタフ・フォン・ラウフ、ルートヴィヒ・フォン・マッソーなどの。
そして特にこのゲルラッハが、このKamarillaの中心人物だった。
彼らの現状の維持に対する深い関心。軍隊。教会。官僚主義と大地主などの人々との深い関わり。そして王妃エリーザベトは、このkamarillaの保護者だった。
フランクフルト・アム・マインのパウロ教会での三月のフランクフルト国民議会の後、ドイツ連邦議会で検討していた憲法草案の内容は、民兵制への移行、議会主義的統治体制の導入、グーヘルツ支配の無償廃棄など、フランクフルト国民議会が検討していたドイツ憲法案より急進的な内容を持っていた。
そして更に、六月に起こったシュレージエンでの軍の発砲事件を機に、議会は将校が立憲法体制に拘束されることを決議したが、国王はこれを拒否した。
この頃から、議会内部でも市民軍の範囲をどの社会層まで認めるかで自由派と民主派の溝が深まり、九月には市民軍が労働者に発砲する事件が起こった。市民層の秩序志向、国家との協力重視を見て、国王は保守反動派として知られている叔父のブランデンブルク伯フリードリヒ・ヴィルヘルムを首相に招き、更にヴランゲル将軍指揮下の軍隊をベルリンに呼び入れて戒厳令を敷き、政治結社の解散、反対派新聞の禁止を命令した。
これに対し、市民側の抵抗もほとんどなかった。
更に議会も十二月には解散させられ、欽定憲法が一方的に公布された。
そしてこの欽定憲法は数ヵ月後、更に保守的な、特にプロイセン下院の三級選挙法(納税額による身分制選挙)による改定を加えられた。この憲法制定が、プロイセンにおける真の議会制度が成立するための重要な一歩となった訳ではあるが、しかし制定された憲法は本来はもっと自由主義的な草案(ヴァルデック憲章「ベルリン国民議会の起草による)からははるかに後退した内容となっており、民主派だけではなく、立憲自由派にとっても、多くの期待が実現されないままに終わってしまった。その内容は議会の憲法草案をある程度は反映していたものの、王権制約条項は含まれていなかった。民主派と立憲自由派ら、自由主義者同士の対立が、反革命の保守反動派の巻き返しを許すこととなったのであった。
結局ベルリンでの年の革命は、民主派の期待した共和制も、立憲自由派も含めて推進したドイツ統一国家樹立も実現できない結果となって終わる。
そしてプロイセン国内のこうした保守化傾向には、その背後にkamarillaの影響も関係していた。なおプロイセン国内の政治が、こうした保守的な方向への政治的な変化を見せていくようになったことについて、この時に、こうした保守派の政治党派kamarillaのへの接近により、陰ながら王妃エリーザベトが、宮廷の保守反動派達の大きな象徴とされ、彼女が図らずも「黒幕」として果たすことになった役割について、過小評価すべきではないという意見もある。
しかし、その場合でも、おそらく王妃エリーザベト自身は、彼女はあくまでも愛する夫の国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの国王としての権威を守るために、派への接近を試み、彼らの力を借りてそれを守ろうとしただけであり、まさか自分がプロイセンで俄かに盛り上がっていた自由主義の気運を、夫やkamarillaと共に、結果としてそれらを大幅に損ない、保守的な方向に変えていったという、明確な意図や意識は、おそらくとても持ち合わせてはいなかったのであろうとはされているが。また結局は王権維持のために必要とされた、こうした保守化も国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世自身の意図にも、添うものであった。
その時明らかに、エリーザベトは休暇をとった。彼女の夫の健康のために。
既に、一八五五年から、明らかに国王の体調は悪化していた。
そして、次の年にはエリーザベトは、この夫の状態は最初は六一歳の一時的な消耗だけだと信じて、回復を期待した。
そしてエリーザベトは夫の療養のために、ボヘミアの保養地のマリーエンバートに滞在し、フリードリヒ・ヴィルヘルムは回復した。しかし、彼の体調の改善は一時的なものにしか過ぎなかった。
一八五七年七月に、彼は明らかに脳卒中にかかっていた。フリードリヒ・ヴィルヘルムは、比較的早くにその状態からの回復を見せた。しかしその後のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、しばしば無気力に襲われた。
王弟ヴィルヘルムは亡命先のイギリスからの帰還後、一八五〇年以降から、コブレンツのライン川行政区の総督となっていたが、こうして自分の病気に不安を感じた国王により、直ちにベルリンに呼び戻されて、十月に摂政宮就任という、彼の次の仕事を知らされた。
だがザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国出身の王子妃アウグスタ、その息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム、そしてイギリス女王の娘のヴィクトリアらは、いずれも明らかに自由主義者であったことから、特に不安を感じたkamarillaの人々を中心として、その寛容な人柄から、王妃エリーザベトによる摂政政治の話が検討されたこともあった。
しかし、基本的に政治に積極的に関わることを好まなかったエリーザベトは、躊躇することなくこの提案を拒絶した。
彼女はただ一人の妻として、常に彼女の夫の意向に添うことだけをしていたかった。
そして更なる体調の悪化により、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ますます妻の彼女の支えを必要としていた。
こうして正式に、弟のヴィルヘルムに政治の実権の移譲を済ませると、フリードリヒ・ヴィルヘルムは医者の忠告を受けた、妻のエリーザベトとイタリアへ療養のために旅行した。彼が常に元気を取り戻すのに、成功した場所。しかし、今回のこの温暖な気候のイタリアでの滞在は、フリードリヒ・ヴィルヘルムの、少しの目に見えた健康の改善も、明らかにもたらさなかった。
そして、国王夫妻は一八五九年五月に、ようやくベルリンに戻ってきた。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、時にはより小柄なエリーザベトと一般的な散歩を行なったりもしてみた。夏の間、ポツダムの、サンスーシ宮殿。そして再び温暖な気候の場所を、妻のエリーザベトは探し求めた。
次の滞在地にはイギリスの南海岸が選ばれた。しかし、それから、フリードリヒ・ヴィルヘルムは新たな脳卒中にかかってしまった。そして、彼女との旅行が不可能になってしまった。夫妻は、ポツダムの中に残らなければならなかった。冬は冷たいサンスーシ宮殿であったが。フリードリヒ・ヴィルヘルムの身体の上半身は、完全に麻痺していた。
彼は既に身体の半身を起こすことができなくなっていた。彼は車椅子を使わなければならなくなっていた。
一方、またけして丈夫な健康に恵まれているとは言えない彼女自身も、既に夫の看病で消耗の極みではあったが、献身的に病気で弱っていく一方の夫を看護した。
宮廷侍医のbOrgerは王妃についてこう言っている。「この女性は、普通の人間の女性ではありません。しかし、天使である。彼女が懸命に献身的に夫を看護して。」
しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの衰弱は、それから更に数年間続いた。一八六〇年十一月に、フリードリヒ・ヴィルヘルムは再度の脳卒中を起こした。
国王は一旦意識を取り戻したものの、一八六一年一月二日に死去した。
この夫の死後、エリーザベトは、義弟のヴィルヘルムの長男で、彼女の甥のフリードリヒ・ヴィルヘルムにこう言った。
「私は、彼のためにだけ生きました。」
一月七日に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世は、ポツダム平和教会の霊廟に埋葬された。
その寂しい年は、その時彼女を待ち構えていた。元々控え目で目立たない存在であった王妃エリーザベトは、夫の国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの死後、ますます影の薄い存在になっていった。既にベルリン宮廷の代表的な存在の女性は、別の二人の女性達となっていた。活動的で精力的で、また彼女の方は自由主義者であったものの、王妃エリーザベトの妹のゾフィー大公妃と同じく、政治に関心が高かった、義理の妹の王子妃アウグスタ。
将来のプロイセン王妃、そしてドイツ帝国初代皇妃。また、これも義母と同様の傾向を持つ、イギリス女王の長女の王太子妃ヴィクトリア。そしてこの翌年に、正式に摂政の王子ヴィルヘルムはプロイセン国王ヴィルヘルム一世として即位した。
エリーザベトは、夫の死後なおも十三年を生きた。サンスーシから、彼女は一八六一年二月二十三日に彼女の甥のオットーに手紙を書いている。ギリシャの当時の国王。
また彼女はザクセンのピルニッツ宮殿に、彼女の二人の妹のアマーリエとマリーをしばしば、そして、快く訪ねた。
またザクセンのエルブファー。ドレスデンからのおよそ10キロメートルの南東。
しかし、彼女の主な目的は、まだバイエルンの家族だった。 彼女は、テーゲルンゼーで彼女の異母兄カールに会った。ゾフィーがイシュルにいて。そしてポッセンホーフェンのルドヴィカ。しかし、元々病気がちな傾向があったエリーザベトの健康的な問題は、歳月と共にますます起こるようになった。
彼女は心臓と足の疾患に悩まされるようになった。やはりプロイセンの政治に関与することは、全然なかった彼女だとはいえ、明らかに、エリーザベトは一八六六年のプロイセンとオーストリアとの、ケーニヒツグレーツの戦いが起きたことには、心を痛めていた。
自分の新しい祖国となったプロイセンと妹のゾフィーが嫁いでいたオーストリア。
そしてこの戦いでの勝利は、この一日にしてプロイセンをヨーロッパの大国へと押し上げ、その内に「ドイツ連邦」を結成するまでに至る。逆に既にロンバルディア・ヴェネツィアの喪失に加え、この戦いにより、ドイツからも勢力を締め出された形となったオーストリアは、以前から帝国のウィーン中央政府からの独立志向が強かったハンガリーへの譲歩を余儀なくされることとなり、一八六七年のオーストリアとハンガリーのアウグスライヒ成立となる。しかし、これ以降、ますますハンガリー人達の要求は厚顔になっていき、またドイツ人とハンガリー人とで帝国が支配される形となり、締め出された形となった他の多くの他民族、特にスラヴ人の中でもチェコ人達も、ハンガリーと同等の権利をと、自分達との間にもアウグスライヒを迫るようになっていき、以降、帝国内の民族運動は活発化していく。また皇帝の保守的な諸政策を公然と批判する皇妃エリーザベトと皇太子ルドルフなど、こうしてオーストリアは、内憂外患に悩まされることとなっていく。
この戦い以降、プロイセンとオーストリアは、ヨーロッパの大国としてのそれぞれの利害を巡り、ますます対立を深め、上昇する一方のプロイセンと衰退を余儀なくされていく一方となっていく、オーストリア。
そしてかつてプロイセン王妃エリーザベトがその代母となり、その結婚を心から祝福した姪の皇妃エリーザベトは、義母の大公妃ゾフィーの取り仕切る宮廷を嫌がり、ウィーンから遠い異国へとあてのない旅へと出かけるようになっていく。
そしてエリーザベトはしばしば皮肉っぽく、何十年も後悔し続けることになる自身の結婚については、こんな言葉を言っている。「結婚とは不合理な行事です。十五歳の子供が売りに出され、意味もわからずに宣誓をして十三年以上も後悔し続け、しかもその宣誓は取り消せないのですから」