フレデリック・ルドヴィック
フレデリック・ルドヴィック
アメリア・ソフィー
アメリア・ソフィー

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が、一七一六年にそれを希望していたために。

ロシア皇帝ピョートル一世と同盟を結ぶことを。(スウェーデンに対する戦いについての)。そしてスウェーデン国王カール十二世の軍勢を、ポンメルンから追い出すための、軍事的援助を要請するために。

皇帝はモン・ビジュー宮殿に、王妃ゾフィー・ドロテアを訪問をし、モン・ビジュー離宮に宿泊した。王妃には、まだ幼い少女の頃に出会った、ロシアの皇帝ヘの、全く良い思い出があった。

彼女は十数年前の一七九八年に、ブランデンブルク選帝侯妃だった叔母のゾフィー・シャルロッテと共に、皇帝とコッペンブリュッケンで会っていた。

当時、北方の野蛮人と見なされていたロシア人である、ピョートルだったが、ゾフィー・シャルロッテとゾフィー・ドロテアは、彼のことを面白い人物と思ったようである。

そして幼かったゾフィー・ドロテアは、心からこの野蛮なロシア皇帝の両方の頬に、挨拶のキスをした。まだ彼女の中では、これらの好ましい記憶は心の中から、決して失われてはいなかった。従って、彼と喜んで会うことを決心した王妃ゾフィー・ドロテアは、早速その準備に取り掛かった。

 

 

ゾフィー・ドロテアの祖母のハノーファー選帝侯妃ゾフィーが、一七一四年六月八日、ハノーファーで死去した。

ゾフィーは八十四歳になっても、最後まで元気な精神状態を保っていた。

彼女の死は、とても突然に起こった。

彼女が常に好んでいた、ヘルレンハウゼン宮殿庭園を散歩中に、心臓発作を起こしたのだった。そして更にアン女王が、ゾフィーの死の九週間後に、イギリスで死去する。

初めイギリスは一七〇一年の三月二十三日の「声明」、続いて六月十二日の「王位継承確定法」の制定により、イギリス王位をプロテスタントに限定し、「イギリスの王位は、ハノーファー選帝侯兼公爵の未亡人ゾフィー殿下及びプロテスタントである血縁の後嗣に存する」と規定していた。

しかし、それから十三年後になってから、病の床にあったアン女王は、突然異母弟ジェームズに王位を譲ろうとして、その旨を前述の手紙に託していた。

そしてついにゾフィーの息子であり、またゾフィー・ドロテアの父である、ゲオルク・ルートヴィヒが晴れてイギリス国王に即位することが決定した。

 

 

ジョージ一世。イギリスの王位継承者。

一七一四年九月十八日に、イギリス国内に入った。国王父子の他には、王太子妃の美しいカロリーネ・フォン・アンスバハ。

また、彼が連れてきた二人の愛人。

シャルロッテ・フォン・キールマンゼッゲとメルジーネ・フォン・シューレンブルクの姿があった。そしてゲオルク・アウグスト。

ゾフィー・ドロテアの兄。

今やウェールズの王子にまで上昇した。

こうしてついにプロイセン王妃ゾフィー・ドロテアの立場も、イギリス国王の娘にまで、上昇した。しかし、彼女は彼女の子供達のために、少なくとも輝かしい将来のための地慣らしをしたかった。

今やイギリス国王となった自分の父ジョージ一世の長男で、自分の兄ゲオルク・アウグストと妻カロリーネ・フォン・アンスバハとの息子であり、更には自分には甥のフレデリック・ルドヴィックと自分の長女の王女ヴィルヘルミーネを。そして更に王妃ゾフィー・ドロテアは、長女のヴィルヘルミーネだけではなく、長男のプロイセン王太子フリードリヒとはいとこ同士であり、自分には姪のイギリス王女アメリア・ソフィーと結婚させるという、自分の大きな野望に基づく計画を同時に思いついた。

これにより、プロイセン王家とイギリス王家についての合併を完了すること。

 

 

この二つの結婚計画は、実質的に何十年もの間、この野心的な王妃ゾフィー・ドロテアの心の中で、密かに温められ続けることになっていく。 ゾフィー・ドロテアは、とても野心的な母親だった。

王妃は長年の間、ことごとく合わない夫に虐げられる生活を送り続けてきて、どうして誇り高いヴェルフェン家、ハノーファー選帝侯家の一員である自分が、このようなみじめな扱いを受けなければならないのか?

常に心の中は、その屈辱と悲しみと不満で一杯であった。強い自信と誇りを持っていた彼女だけに、よけいに夫のこうした仕打ちに、激しく傷つき、かつ屈辱感も、より大きかったのだろう。彼女にとってこの結婚計画は、自分が王妃として味わい続けてきた、長年の屈辱と鬱屈を一気に晴らす、絶好の機会と思ったのだろう。

 

 

ようやくプロイセン王家に授かった後継者の、「フリッツ」、王太子フリードリヒだが、彼は勇ましい軍人というよりも、専ら文学や芸術を愛好する、文学青年の気質と傾向を持っていた。

息子のこういった傾向を、父親のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、大変に嫌っていた。

自分の後継者である息子フリードリヒのこういった好みや傾向は、彼にとっては全て柔弱なものとしてしか映らなかったのである。

また、こうした父親からすれば女々しさというようにしか映らない傾向も、彼が王妃ゾフィー・ドロテアの方針で、幼い頃に受けていた、フランス風の教育によるものに違いないとも考えていた。

そのため、国王は妻や女性フランス人教師による、彼言う所の「女どもの連隊」から息子を引き離し、新たに士官達を教育係に任命した。 息子の王太子フリードリヒが六歳になった一七一八年には、国王が息子の軍人教育のために与えた指令書には、「美徳を尊び、朝晩の祈祷の後で聖書を読むこと。オペラや喜劇など世俗の下らぬ楽しみにできる限り近づけぬこと」といった内容のことが書かれている。

 

 

フリードリヒは、およそ全体的に、何かと繊細さというものを欠く傾向があった荒々しい父親とは違い、繊細な面を持っていたようである。またフリードリヒは体質的にも、およそ病気知らずだった彼の強健な父とは正反対で、若い頃から通風やリューマチ、胃痛、発熱などに悩まされていた。

彼自身も既に王太子の頃から、おそらく自分は父よりも長生きできないだろうと言うくらいだった。そしてフリードリヒはこういった弱い体質に、生涯に悩まされ続けることになる。だが父親のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、こういった息子に対して容赦なく、彼のことを屈強な兵士に仕立て上げようとした。 彼ら父子の対立は深まる。

そして自分の意に添わない場合などは、父親の彼の暴力による制裁が、待っていた。

こうした辛い環境の中で、王太子フリードリヒは好きなフルートの演奏や読書に避難場所を見出したが、本や楽譜を買うために、密かに借金をしたことが知れると、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの怒りは、更に爆発した。 そして彼は自分の教育上の良心にかけて、将校や従僕達の面前で息子を嘲り、殴りさえもしたのである。

 

 

そしてこんな境遇にある彼にとっては、自然と、厳しく恐ろしい父は極めて稀にしか姿を現わさない場所であり、また自分と趣味を同じくする、母親の王妃ゾフィー・ドロテアのモンビジュー宮殿が、格好の避難場所となった。 ここで、フリードリヒは自分の秘密の図書館を持っていた。

ここでは、彼は好きなだけフルートを吹いて楽しんだり、音楽を作曲することができた。 またこれも彼が好んでいた、それらのファッショナブルなフランスの衣服を着た。

こうして、王太子フリードリヒは、父親の目の届かない、母親の取り仕切る、この宮殿の中で、束の間の安息を見出すことができた。だが、こうして辛うじて辛い仕打ちに耐えてきた王太子フリードリヒにも、ついに我慢の限界へと達し、やがて一七三〇年の、大事件に発展していくこととなる。

長女のヴィルヘルミーネは、自分達姉弟の母親である王妃ゾフィー・ドロテアについて、回想録の中でこう語っている。

「王妃は、決して美しくはなかった。

彼女の顔は痘痕が残り、でこぼことしていた、そして、彼女の顔は全く古典的ではない。だが彼女のダークブラウンのその髪。

その姿は、彼女の容姿の中で最も美しいもの一つである。そして彼女の立派で堂々とした態度。彼女の厳しい洗練と彼女の大きな精神は、より多くの完全さの上で指示をする。

彼女は、良いものを持っている。

寛大で穏やかで豊かなその抱擁。

彼女は、美しい芸術と科学を好んでいた。

彼女は家の中では彼女のハノーファー家の誇りと傲慢で、全てを体現している。

彼女の野心は極端だった。そして彼女は、限りなく嫉妬深かった。慎重で執念深い気質。」

 

 

いくらか婉曲的な表現もされてはいるものの、彼女の母の性格が、おそらく、かなり正確に表現されていると思われる、この長女のヴィルヘルミーネの証言である。

特に王妃ゾフィー・ドロテアの性格の中で最も特徴的である、その大きな野心。

そして彼女のそうした性向は、プロイセンのイギリスの二つの結婚計画に、最も明らかに現れた。この特に、一七二三年から、彼女のその持てる全てのエネルギーを注ぎ込まれるようになったこの計画。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムには、一つの計画があった。将来のプリンス・オブ・ウェールズと彼女の長女ヴィルヘルミーネとの結婚。フレデリック・ルドヴィックとの。

そして、彼の妹アメリアとプロイセンの王太子フリードリヒとの結婚。

王妃のこの計画は、初めは全く有利な状況にあった。それは、第三世代のヴェルフェン家との関係だった。例え当時反プロイセン路線の党派が、ロンドンにあったとしても。

 

 

プロイセン王女ヴィルヘルミーネ。

潜在的な花嫁。 やがて、イギリスの侍女がベルリンにやって来た。花嫁候補のプロイセン王女を評価するために。

そしてわずか数週後には、王妃の父ジョージ一世も、個人的にベルリンにやって来た。

そして、一七二三年十月九日に、文書は署名された。将来の、イギリス王子フレデリック・ルドヴィックとプロイセン王女ヴィルヘルミーネ、そしてプロイセン王太子フリードリヒとイギリス王女アメリアとの二つの結婚計画を承認する。

しかし、その内に予想外の困難が起こった。少なくとも王妃ゾフィー・ドロテアにとっては、まるで予想外の、イギリスの宮廷で、反プロイセンの党派が湧き出してきたので。

 

また、同様のグループは、ベルリンでも存在していた。全ての手段を用いて、ヴェルフェン家との新しい関係を防ぐこと。

プロイセンでは二人の男性達が、この党派の中心人物としてよく名前を挙げられている。彼らはホーエンツォレルン宮廷の親オーストリア派の重鎮であった。

フリードリヒ・ハインリヒ・セッケンドルフ。あともう一人は、プロイセンの大臣フリードリヒ・ヴィルヘルム・グルンブコフだった。

 

 

そして同時代人によると、最も狡猾な裁判官の一人。大選帝侯の名付け子として、彼はその外交手腕と都会風の器用さを通し、ついには政府関係者として有名になった。

ちょうど最大の野心と不親切な陰謀家。

二十五歳で既に、彼はプロイセン軍大佐にのし上がった。一七一三年には陸軍大臣に、そして更に九年後の一七二三年には、財務、軍事、内政を統轄する統理府長官に任命された。そして彼は、最も重要な、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの外交政策アドバイザーになった。より多くの影響は、その時フリードリヒ・ヴィルヘルムの上でこの反イギリスの党を獲得した。そしてゾフィー・ドロテアの望みは、より不利になっていった。

より大きい政治的な役割は、宮廷で少なくとも最初から彼女に与えられていなかった。

王妃が政治について話し始めた頃。

ウィーンから報告しているセッケンドルフ。

 

 

また比較的、この結婚計画に関心を示していた、王妃ゾフィー・ドロテアの父であるジョージ一世が、この計画が具体化する前に死去してしまったことも、痛手といえば、痛手だった。そして、彼の息子のジョージ二世とフリードリヒの間には、どんな非常に大きい欲求も、存在はしていなかった。

また、このプロイセンのいとこに対しての親戚としての繋がりさえも、感じてはいなかった。ジョージ二世は、このいとこから暴力を振るわれたり、銀糸刺繍を施された寝間着を暖炉の火の中に放り込まれたりした幼児の日々以来、フリードリヒ・ヴィルヘルムのことが大嫌いだった。

確かに誰でも子供の時にこんな仕打ちをされれば、相手のことが嫌いになるのは当然だと思われる。そしてまた更に、享楽的なジョージ二世と、質実剛健で粗暴な傾向のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世とは、基本的にも相性が悪かったのであろう。

 

 

またこのフリードリヒ・ヴィルヘルムといえば、その幼い頃には、知的なだけではなく、度量も大きい女性だった祖母の選帝侯妃ゾフィーや知的な母親の王妃ゾフィー・シャルロッテでさえも、その教育にはさんざん手を焼かされ、母親を深く失望させたあげく、ついには愛想をつかされる程の、大変扱いずらい、札付きの問題児であった。

また、このような性格であったため、これも温和で享楽的な父フリードリヒ一世とも、折り合いが悪かった。

更に、ジョージ二世は、横暴なこの夫の下で、妹のプロイセン王妃ゾフィー・ドロテアが不幸な結婚生活を送っていることも、知らされていたのかも知れない。

また自然とこうした彼の妹の姿は、彼の妹と同名の彼の、やはり不幸な結婚生活を送った母親の姿とも重なり合う。

ジョージ二世は、ついに彼女がアールデン城に幽閉されて以来、一度も会うことも叶わないままであった、美しい母親のことを、大変に慕っていた。

 

 

具体的な数々のこの結婚計画に反対する一派の、今後に展開される、数々の妨害工作が行なわれたことが、実現の障害になった決定的な要因ではあるものの、一応、王妃ゾフィー・ドロテアのこの結婚計画には賛同する形にはなっていたものの、ジョージ二世、彼女にとっては兄のゲオルク・アウグストも含め、彼ら二人が必ずしもこのように、その個人的な関係が良くなかったこともあり、心底から彼ら両国王が両国の結婚による結びつきを望んでいた訳ではなかったことも、この計画のスムーズな進行及び実現に、間接的に影を落とすことになったと考えられる。

フリードリヒ・ヴィルヘルムに対しての、セッケンドルフとグルンブコフの下でウィーンの皇帝の影響は接近した。

一七二五年に、オーストリアに対抗して結ばれたハノーファー・イギリス・フランス同盟にプロイセンが加担したことは、この王妃ゾフィー・ドロテアの念願である、それぞれ王女ヴィルヘルミーネとイギリス王太子を、そして王太子フリードリヒをイギリス王女アメリアと結婚させるという、二つの結婚計画を保証してくれるはずだった。

 

 

やがて、王女ヴィルヘルミーネを審査するために、ついにイギリスから侍女が派遣されてくるまでになった。そしてイギリス側はフリードリヒ夫妻がハノーファーで暮らしてくれることを密かに期待していた。

しかし、この結婚計画には、様々な妨害があった。ウィーンの巧妙な外交政策によって、帝国への忠誠心を捨て難く思っている国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、手玉に取られていたし、当時ベルリンに駐在していた帝国大使セッケンドルフはグルンプコフと組んで国王をイギリスから引き離そうとしていた。 プラハでオーストリア皇帝カール六世にお目通りした、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、皇帝に忠誠を誓ったが、皇帝側は、このプロイセン国王にハプスブルク家の女系相続者を認めるための国本勅諚を、できるだけ安い代価と引き替えにプロイセンに認めさせることしか考えてはいなかった。

プロイセン国王の心は皇帝とハノーファーの間で揺れていた。

 

 

またイギリス国王の特使ホサム卿が、対になったこの二つの結婚話を進める一方で、セッケンドルフ大使とグルンプコフ大臣はロンドン駐在のプロイセン大使ライヒェンバッハを用いてイギリス王家を中傷する情報をプロイセンに送った。

そしてこの結婚成立妨害運動は、ホサム卿の策謀によって思いがけない相乗効果を発揮することとなった。

新大使ディケンズと交代するに当たってホサム卿は、ロンドンにおけるグルンブコフの秘密工作を証拠立てるため、グルンブコフ自身の外交郵便の複製したものをプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世に手渡したのである。 これは彼がロンドンの中央郵便局で密かに開封して手に入れたものだった。

ホサムはこの行動によってグルンブコフを失脚させようと狙ったが、反対に、国王は激怒し、手紙を床に投げつけてその場を去った。

 

 

こうして自分の方が名誉を傷つけられる形となったホサム卿は、王太子フリードリヒの懇願をも退けてイギリスヘ去り、イギリス王女アマリーとの結婚によって何とか父の暴力から逃れようとしていた王太子フリードリヒの計画は、失敗してしまった。

一七三〇年の夏、王太子には逃亡の機会が訪れるはずだった。国王は王太子を伴ってラインラントの友好諸侯の宮廷を訪問することになっていた。この旅を利用してイギリスへ逃亡しようとしたのである。

しかし、このように計画は失敗し、後はもう逃亡しかないとフリードリヒは考えた。

そしてその夜、王太子はイギリス大使ディケンズに会い、亡命者の受け入れを打診した。しかし王太子はこの時、王位継承者の亡命受け入れが国際間のバランスを崩す危険な賭けであることを知るべきであった。

大使がこの王太子の申し出に対して曖昧にしか対応しなかったことは言うまでもない。

 

 

四日後、王太子は側近の近衛騎兵少尉カッテを呼び、国王に従って南ドイツヘ旅する際に逃亡したいと打ち明けた。

カッテ自身も募兵士官としてドイツ西部へ派遣される予定になっていたのだ。

南ドイツへのプロイセン国王の旅とは、実はウィーン宮廷の依頼で、ドイツ諸侯に国本勅諚を認めてもらうためのものであった。

逃亡計画の挫折は、まず、カッテ少尉が募兵の出張命令を受けなかったことから始まっている。そこで王太子は、同じく腹心のカイト少尉の弟である近習のペーターに手助けしてもらうことにした。

一七三〇年八月五日の早朝、プロイセン士官であることを見破られないよう、赤い服に着替えた王太子はシュタインスフルト村の宿舎を出た。 そこからは馬で三時間行けばライン河を渡ってフランス領に入れるはずだった。 鞍を付けた馬とカイトが既に王太子を待っていた。しかしそこには、ロッホ大佐の姿もあった。彼は王太子の逃亡を防ぐために監視していたのである。 大佐は国王フリードリヒ・ヴィルヘルムに報告しなかったが、カイトの弟が国王に一件を白状してしまった。

 

 

プロイセンの飛び領土であるヴェーゼル要塞に入った国王は王太子フノリードリヒを尋問した。王太子の逃亡を手伝った方の、カイト少尉は危い所で追っ手を逃れ、イギリスへと亡命したが、カッテ少尉はベルリンで逮捕された。 フリードリヒは「一切の責任は自分にある。少尉は自分にそそのかされただけ」と父に懇願した。国王の尋問に対してカッテは、逃亡計画を知ってはいたが、それを進行させること、なかった、と証言した。

一七三〇年九月二十日、カッテは逮捕されなかったら逃亡していたかという問いに、王太子が逃亡していたら、自分もそれに従っていたと証言した。 更に国王は長女ヴィルヘルミーネを王太子フリードリヒ逃亡の共犯者と見なし、暴力を振るった。

そして、彼女の手文庫を改めたが、あらかじめ侍女達は彼女にとって不利な手紙を差し障りのない内容の物とすり替えていた。

 

 

王妃ゾフィー・ドロテアは、モンビジュー宮殿の図書館の中で、密かに王太子フリードリヒと話すことに多くの日を費やして、一七二八年には父親から逃げる彼の計画を知っていた。息子の生活が不憫で、プロイセンからの亡命を、黙認したのであった。

王太子フリードリヒがプロイセンの宮廷から脱出した後、ついに彼の逃走が国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの知る所となり、キュストリン要塞に監禁されていた時も、監禁先の息子と通信までもしていた。

また姉のヴィルヘルミーネも、もちろん既に事前に弟から直接このような内容の手紙の中で、この逃亡計画について知らされていた。 そして王太子はキュストリン要塞に監禁されて尋問されたが、父の意に背いたことだけは認めたものの、逃亡しようとしたことは認めなかった。フリードリヒは巧みに自己弁護した。しかしそれが国王にとっては気に入らなかった。 国民世論は王太子に同情的であったし、スウェーデン国王もウィーン皇帝も、イギリス国王も、ロシアもオランダもザクセンもプロイセン国王に慈悲と寛容を求めた。

 

 

だが、それがまた、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムには気に入らなかった。

十月の末、ベルリン郊外のケーペニックで開かれた軍法会議で、カイト少尉は逃亡中のまま肖像絞首刑に処されたが、カッテ少尉については判決は無期禁固と死刑の半々となり、議長裁決で無期を宣告された。

しかし、国王は判決書の欄外に「軍法会議を再召集し、別の決定をせよ」と記した。裁判官達は「決定を変えることはできない」と反論した。勇気ある反論だった。

しかし、それにも関わらず、一七三〇年十一月一日の勅命は、カッテを外国勢力と内通した反逆者とし、死刑を宣告した。

国王は彼を処刑することで、自分を欺き、逃亡しようとした王太子に復讐しようとしたのである。ハンス・ヘルマン・カッテは平然と斬首刑の宣告を受け入れ、遺言状の中で王太子フリードリヒに宛てて、自分の死に責任があるなどとは思わないで欲しい、自分は国王を恨んではいない。王太子は国王と和解し、今後も父母である国王と王妃を敬うようにと述べた。一七三〇年十一月六日に、カッテは処刑された。

 

 

このカッテの処刑は、生涯に渡り、フリードリヒのに、かなり深い心の傷を残したことと、予想される。

なお、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムが、息子のフリードリヒに、公女エリーザベト・クリスティーネとの結婚について手紙で述べたのは、この悲惨な事件から、ほんの数ヵ月後のことであった。

そしてここからは、フリードリヒを含めた、彼の数多い姉や弟妹達、つまり王妃ゾフィー・ドロテアにとっては、子供達の紹介をしたい。