オーストリア大公妃ゾフィー・フォン・バイエルン
オーストリア大公妃ゾフィー・フォン・バイエルン
マリー・アンナ・フリーデリーケ・フォン・プロイセン
マリー・アンナ・フリーデリーケ・フォン・プロイセン

一八四八年十一月には、プロイセン国王夫妻の銀婚式が祝われた。

このように、エリーザベトは普段は一切政治に関わるようなことはしなかったが、そんな彼女とは全く異なる気性であり、また政治を好む妹のゾフィー大公妃により、彼女もこうしたバイエルンの家族の輪を通して、多少政治に関与することとなった。

フランツ・ヨーゼフの母親。

彼女は一八四二年に、十九歳でウィーンの宮廷にやって来た。そして当時皇帝フランツ二世は、完全に宰相メッテルニヒの影響下にあった。更に彼の長男で後継者のフェルディナントは、病弱であり、精神障害もあった。

そして直ちにこの現在の宮廷の状況を正確に把握した、この野心的でまた政治への関心と高い知性をも備えていたバイエルン王女は、いわば真空状態であったウィーン宮廷に突如現われ、たちまちその真空を彼女のその強い個性でいっぱいに満たしてしまった。

そしてメッテルニヒでさえ、容易に無視できない、一つの勢力を宮廷に形成するまでに至った。そして大公妃ゾフィーは、メッテルニヒについてこう訴えた。

「あの男は、皇帝抜きで、王室の代表者に無能な人間を据えて君主制を支配しようとした」。彼女の指している無能な人間とは、精神障害があり癲癇持ちであった義兄のフェルディナントである。そしてゾフィーはついには自分の夫のフランツ・カールをも、飛び越して、自分の息子である、若々しいフランツ・ヨーゼフの王位継承をさせることに成功した。

 

 

しかし、実際には彼女は五〇年代の間でさえ、既に陰の皇妃だった。

また帝国皇帝である、自分の息子フランツ・ヨーゼフの将来の結婚相手については、息子自身の気持ちよりも何よりも、政治的思惑が選ぶ基準の最優先事項とされたのは当然であった。オーストリアは一四八四年の「三月革命」以降、明らかにドイツを念頭に置いた外交政策を推し進めることになった。

何とかして、ドイツ連邦における指導的地位に留まり、失いつつあったプロイセンに対するオーストリアの優位を死守し、あるいは奪還したいと考えていた。

プロイセン側の意図とは真っ向から衝突するこの大目標を、ゾフィーは政略結婚という手段を用いて、実現に近づけようと目論んでいた。彼女はこうしてドイツとの連帯を模索し、まず念頭に浮かんだのは、姉のエリーザベトが嫁いでいる、ホーエンツォレルン家で、それによってこれまで波乱含みであったオーストリアとプロイセンとの関係を修復し、ドイツ連邦におけるオーストリアの主導的立場を再び揺るぎないものとしたかった。

そして彼女は、こうした大きな政治的目的のためなら、例えプロテスタントの嫁でも我慢しよう、どうせ結婚前に改宗させればいいと考えた。

 

 

 

 

一八五二年の冬、政治と家族に関わる、尤もらしい口実でベルリンに赴いた若き皇帝は、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の弟のカール王子とマリー・フォン・ザクセン・ヴァイマル・アイゼナハの娘である、同い年のアンナ・フォン・プロイセンに、一目で好意を抱いた。

こうして息子の皇帝フランツ・ヨーゼフに、首尾良く花嫁候補のアンナ王女に関心を抱かせることに成功したゾフィーだったが、生憎既にこの時王女には、ヘッセン・カッセルのフリードリヒ・ヴィルヘルムという婚約者が存在していた。

しかしゾフィーは簡単には引き下がらず、プロイセン王妃となっていた、おそらく彼女のいくらか単純な姉エリーザベトの気持ちに訴えかけることを。

そしてエリーザベトは、プロイセン王妃として、今やハプスブルク帝国の皇太后であるゾフィーに対してというよりも、おそらく純然たる肉親への愛情から、かつてバイエルンで家族仲良く過ごした、一人の姉エリーザベトとして、妹であるゾフィーのために、ぜひこの結婚について役に立てればと思っていた。

 

 

 

しかし、ゾフィーはもはや既にかつてのバイエルン王女ではなく、ウィーン宮廷で並ぶ者なき権威と権力を有した皇太后ゾフィーであり、そして常にハプスブルク家及び帝国の利益を最優先する意図に基づき行動しており、また非常に政治的に物事を考える女性であった。そして、そのゾフィーの意図は、プロイセンの利害にとっては邪魔なものであった。しかしこの姉は、おそらく全くそれには気付いてはいなかった。

ゾフィーは表面上は、あくまでも同じ女性として、そして肉親としての共感に、切々と訴えかけるという形で、こうして姉のエリーザベトに尋ねた。

「少しの望みもないかどうかにかかわらず。麗しいアンナが押しつけられている悲しい結婚、彼女が幸福になる見込みは全くないあの結婚を回避する希望は少しもないのでしょうか。更に皇帝が既にこのアンナにすっかり心を捕らえられていることを、これも皇太后としてではなく、純粋に一人の母親として、ハプスブルク帝国皇帝という、この若くして広大な領土を統べることとなった、重い責務を背負わされた息子の、せめて結婚に対してだけは、彼の恋する女性と結ばせてやりたいという感動的な内容の手紙を書き綴り、更に姉の心に訴えかけた。

「つかの間の夢のように姿を現わして、私が当初考えていたよりもはるかに強く、はるかに深く若者の心を感動させたあの幸福・・・・・・あなたはあの子をよくご存じですから、あの子の好みを満たすのは容易ではないことや、可愛いだけですぐになびいてくる相手に満足できないこと、また伴侶となる女性を必ずや愛するようになること、その女性を気に入って、好意を抱くであろうことがおわかりになるでしょう。あなたの令嬢はこうした条件を全て満たしているようですし、幸福をとても必要としている息子のために、私が彼女をどれ程熱望しているかは、あなたご自身でご判断ください。息子は、若者に許される気楽な暮らしや夢を、人生の早くから放棄しなくてはならなかったのですから。」

プロイセン王妃エリーザベトのウィーンの妹の、このゾフィーにとっては、快くこの結婚の仲立ちを引き受けてくれた、姉のエリーザベトは有難かった。

しかし、政治的に物事を考える妹のゾフィーとは違い、およそ政治的ではなく、またそのために、一人の母親としての、息子に対する愛という、おそらく彼女を感動させた目的の裏に潜む、妹の大きな政治的意図も見抜けず、また妹のように自分から積極的に政治に関与することなど思いもつかない、そして夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムに対して強く自分の意見を主張することなどしない、従順な妻である彼女にとっては、この妹から託された任務の遂行は、困難なものであった。

 

 

 

彼女は一応妹の希望に従い、夫側にこの縁談を勧めはしたものの、結局、プロイセンの利益を最優先する、プロイセンの政治家達の反対を押し切ることはできなかった。

オーストリアとの婚姻関係が、プロイセンの概念に、全然適合しなかったので。

しかし、エリーザベトにとっては、最終的に皇帝の結婚相手として選ばれた相手に、大満足する展開となった。若いオーストリアの皇帝が一八五三年の夏に、彼女が代母として自分の名前を与えた、これも彼女のバイエルンの妹の一人の娘である姪と婚約したので。

十五歳のエリーザベト。

バイエルン公爵マクシミリアンとルドヴィカの娘。そして、この後、直接プロイセン王妃エリーザベト自身も、この姪と甥に会っている。ハルシュタットに一同が馬車で遠乗りに出かけた。何日か雨が降り続いた後だったので素晴らしい眺望だった。

沈みかけた太陽が岩や山を赤く染めていた。そして湖面の水はきらきらと美しく輝いている。そして若い皇帝フランツ・ヨーゼフは、これもまだ若い、婚約者エリーザベトの手を取り、あたり一帯の地理を説明してやっていた。この若いカップル達の光景を妹のゾフィーと共に眺めていた王妃エリーザベトはすっかり感動して「なんと美しいことでしょう。なんと素晴らしい風景の中の、なんと若々しい幸福でしょう。」と思わず漏らしている。

そして彼女は、妹ゾフィーの息子である甥とこれも妹ルドヴィカの娘であるエリーザベトの婚約という、自分もこうして多少は関わりがある今回の家族達の幸せに、特定の満足感でいっぱいになった。