フリードリヒ大王の弟アウグスト・フェルディナントの娘として生まれた。
兄のハインリヒ、 弟のルイ・フェルディナント、 アウグストの兄弟達がいた。
1796年に、ポーランドの大貴族ラジヴィウ侯爵アントン・ラジヴィウと結婚する。
周囲の反対を押し切っての、恋愛結婚だったという。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、プロイセンとポーランドとの融和にも効果的だと思ったのか、この結婚を祝福した。
また、ルイーゼ・フリーデリーケと仲のいい弟
ルイ・フェルディナントも、初めは大切な姉を奪われてしまうとの思いから、この結婚にいい顔をしなかったが、アントン・ラジヴィウの友好的な態度や、彼もルイ・フェルディナントと同じく、音楽に大変関心が深く、また彼自身優れた作曲家でもあったようであり、
ルイ・フェルディナントとはプロイセンの領土問題や、音楽について話し合う、良い仲間となった。
このように、至ってルイーゼら姉夫婦とルイ・フェルディナントの間は、良好な関係が続いていく事になる。
教養があり、才気とユーモアに富んだルイーゼ・フリーデリーケは、1796年頃から1815年まで自らサロンを主催するようになる。
当時のベルリンには、プロイセンの教養市民層の女性やユダヤ人女性達の主催する、
数多くのサロンがあった。
ルイーゼ・フリーデリーケが主催したサロンは、ベルリンの広大なラジヴィウの邸宅で、
芸術家や学者、音楽家や貴族など、
幅広い範囲の人々が自由に出入りを許される、
開放的なサロンであった。
また、当時の王女としては異例な事に、
比較的普通の母親達のように、自分の身近に
子供達を置く事を好んでいた。
夫との夫婦仲は極めて良く、
ヴィルヘルム、フェルディナント・フリードリヒ、ルイーゼ、エリーザ、など多くの子供達に
恵まれた。
ルイーゼ・フリーデリーケは、十八世紀フランスの優れたサロン主催者と同じ資質を持っていた。
また、彼女は対象を深く掘り下げて議論するというより、説得力ある見解や、生き生きとした表現力が勝っていた、昔のサロンの話術を心得ていた最後の女性であったという。
またルイーゼ・フリーテリーケは、
一時はルイーゼ・フリーデリーケの弟ルイ・フェルディナントとの間に縁談が持ち上がっていた、クールラント公女ヴィルヘルミーネの
母でやはり有名なサロンを主催していた
クールラント公妃ドロテア・フォン・クールラント、そして他にはスタール夫人、シュタイン、歴史家のニーブールなどとも交友を結んでいた。
また、このような彼女のラジヴィウ家で主催されたサロンには、同じく教養と才気に富んだ、
ルイーゼ・フリーデリーケの弟達のルイ・フェルディナントやアウグストも、よく顔を見せていた。
王侯・貴族の女性達の主催するサロンとしては、ルイーゼ・フリーデリーケとクールラント公妃ドロテア・フォン・クールラントの
サロンが有名だったのである。
サロンの主催や参加者達との交流に留まらず、ルイーゼ・フリーデリーケは、
ペスタロッチの弟子ツェラーなどが提唱していた、教育改革にも関心を寄せていた。
そしてルイーゼ王妃と共に、
子供の教育と家庭生活についての一種革命的な
考え方を宮廷に実現しようとした。
ルイーゼ・フリーデリーケは、自然な態度を
大切にしていたが、けしてそれが不作法に堕すような事はなかった。
しかし、このように知的・文化的交流に重きを置いていた彼女のサロンも、ヨーロッパ情勢の変化により、変質を余儀なくされていく事になる。
ナポレオンは、ドイツ方面での勢力・領土を拡大化させていった。
そして、ホーエンツォレルン家の領土であった
アンスバハ、そしてイギリスのハノーファー選帝侯国を侵攻し、これらを占領してしまった。ハノーファーは王妃ルイーゼの生まれ育った場所でもあった。
このナポレオンの侵攻に、
プロイセンの反フランス感情は増大し、
愛国心が高揚していく。
特に宮廷内ではルイーゼ王妃、ルイ・フェルディナント、シュタイン、リュッヘル将軍、
歴史家ヨハネス・ミュラーなどの反ナポレオン派が勢力を強めていった。
結果的には、やはりハノーファーを巡る問題から、最終的にプロイセンはナポレオンとの開戦に踏み切る事となる。
1806年の9月、ついにプロイセンはフランスに宣戦布告する。
しかし、その後の10月10日、
プロイセンにとって最初の凶報が届けられる。
陸軍中将としてザールフェルトで戦っていた
ルイ・フェルディナントが戦死したのである。
享年34歳の若さであった。
愛する弟を失ったルイーゼ・フリーデリーケ
は、悲しみに暮れた。
また、ルイ・フェルディナントの存在は、
いわばプロイセンの希望、プロイセン軍の象徴のような大きなものであり、
プロイセン軍にとっても、大変な衝撃をもたらした。
また、これを皮切りにプロイセン軍はイェーナ・アウエルシュテットの戦いでも、
敗戦を重ねた。
ナポレオン率いるフランス軍がベルリンに
侵攻して来る。
国王一家と宮廷は、東プロイセンへ逃亡しつつ、ナポレオンへの抵抗を続ける事になった。
ラジヴィウ侯爵夫妻も、国王達と行動を共にした。
1807年に、 ルイーゼ王妃がナポレオンとの交渉の相手に選ばれ、ティルジットで会談した。
しかし、ルイーゼ王妃の訴えはほとんど認められず、プロイセンは領土の半分を失い、
国庫の三倍に当たる賠償金を課され、
更にこの返済が済むまでは国内の十五万人のフランス軍の駐留を認めなければならなくなり、
プロイセンは占領状態に置かれてしまった。
このような中、2年後に国王夫妻と共に戻ってきたルイーゼ・フリーデリーケや、フォス伯爵夫人ルイーゼ・フォン・フォス、枢密顧問官夫人アマーリエ・フォン・ベーリゲンなどの女性達によって、愛国主義的色彩を帯びたサロンが、主催されるようになった。
ルイーゼ・フリーデリーケらラジヴィウ侯爵夫妻は、ベルリンの愛国的で反フランス的な党派の最も影響力の大きいメンバーの一人となっていた。
1808年の6月、フリーデリーケ・ルイーゼやフォス伯爵夫人ルイーゼ・フォン・フォスら愛国サロンを主催する女性達の間で「美徳同盟」という同盟が結成された。
この「美徳同盟」は、「道徳と学問の協会」という名前を持ち、表向きはプロイセンの道徳の再武装を目的として作られた。
しかし、実際には政治性を帯び、愛国的かつ
フランスの占領に対する、プロイセンの蜂起を促すような要素を持ち合わせたものだった。
1809年に蜂起した、プロイセンの陸軍少佐フェルディナント・フォン・シルは、
このフォス伯爵夫人のサロンの常連客だった。
(この蜂起自体は、失敗に終わっている。)
フォス伯爵夫人ルイーゼ・フォン・フォスは、ルイーゼ王妃の友人カロリーネ・フォン・ベルクの娘で、彼女の夫のフォス伯爵アウグスト・エルンスト・フォン・フォスの祖母は、
ルイーゼ王妃の女官長だった、
ゾフィー・フォン・フォスである。
一方、同様の色彩を持っていたとはいうものの、前者二人のサロン程、蜂起を促すような
要素はなかったとはいえ、
後者のアマーリエ・フォン・ベーリゲンの
サロンも、政治的な影響力は大きかった。
彼女は、宮廷顧問官クラマー・アウス・グローガウの娘でシュタイン、ハルデンベルク、
グナイゼナウと友好関係にあった。
ハルデンベルクもグナイゼナウも、
祖国をフランスの占領から解放するという
目的は同じだったが、そこに至る双方の意図している手法には、違いがあった。
そんな二人の仲介に立ち、歩み寄りを図ったのが、彼女と夫のハインリヒ・フォン・ベーリゲンだった。
アマーリエ・フォン・ベーリゲンのサロンは、
彼ら双方の理解を深めるための場所として、
提供されたのであった。
そして、この夫妻の努力は実ったのであった。
1810年には、ルイーゼ王妃が34歳の若さで死去した。プロイセンの多くの人々が、
王妃の死を悼んだ。
1813年の12月には、ついにナポレオンのロシア遠征に参加させられていたプロイセン軍のヨルク将軍が、ロシアと単独で「タウロッケン協定」を結び、これが翌年には「解放戦争」へと繋がっていく。
この戦争中、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の弟フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・プロイセン王子の妻のマリアンネ・フォン・プロイセンや、ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケら王族の女性達も、負傷者のために救援活動を行った。
ルイーゼ・フリーデリーケは、 邸を野戦病院として提供した。
1813年の3月に、ロシア軍がベルリンに
行軍して来た際には、ルイーゼ・フリーデリーケはクトゥゾフ元帥とベンケンドルフ将軍を
喜んで邸に迎え入れた。
1814年には、ナポレオンの退位後に
即位した、ルイ十八世により、
解放戦争の相手国との間に「パリ条約」が
結ばれた。
1814年の12月には、アントン・ラジヴィウはベルリンに滞在していたロシア皇帝アレクサンドル一世のために祝宴を開いた。
ルイーゼ・フリーデリーケは、平和の証としてカドリーユを上演させた。
ようやくプロイセンにも平和が戻ってきた
1815年、ルイーゼ・フリーデリーケの娘
エリザ・ラジヴィウとフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の次男の、ヴィルヘルム王子が
出会う。
2人はお互いに恋愛感情を抱くようになる。
しかし、ヴィルヘルムが10代になっても、
美しいエリザへの気持ちは変わらず、
フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は2人の結婚に反対した。彼女の家柄とプロイセン王家の家柄が釣り合わないという事と、エリザがカトリックであった事から
そして、ヴィルヘルム三世は1826年には エリザの事をあきらめないなら、 王位継承権を剥奪すると最後通告をした。
しかし、エリザは1834年の9月に、結核で31歳で死去してしまった。
プロイセン激動の時代を生きたルイーゼ・フリーデリーケは、1836年の12月7日に