ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン
ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン
英雄の死、ザールフェルトのルイ・フェルディナント王子(リヒャルト・クノーテル  1896年)
英雄の死、ザールフェルトのルイ・フェルディナント王子(リヒャルト・クノーテル 1896年)
フリードリヒ・フォン・ゲンツ
フリードリヒ・フォン・ゲンツ
ヨハネス・フォン・ミュラー
ヨハネス・フォン・ミュラー
ラーエル・ファルンハーゲン
ラーエル・ファルンハーゲン
ヘンリエッテ・ヘルツ
ヘンリエッテ・ヘルツ
パウリーネ・ヴィーゼル
パウリーネ・ヴィーゼル

 

女性ではないですが、ぜひ取り上げたい人物です。 まず、彼について書いておきたいのは
池田理代子の漫画「栄光のナポレオン」では、

どうでもいいようなチョイ役扱いだった彼。

しかし、実は「プロイセンのアポロン」と呼ばれていた程の 人物だったのです。

ドイツではプロイセンの英雄として、

1823年にヴォールスドルフに、

記念碑まで建てられています。

 

 

 

 制作を手がけたのは、ルイーゼ王妃の霊廟の

彫像も手がけた、カール・フリードリヒ・シンケルです。 この記念碑には、 

ローマ神話の神ゲーニウスの彫像が設置されました。

どちらかというと、ルイ・フェルディナント

王子は、日本では世界史の方でより、

クラシック音楽の世界での方が、

有名かもしれません。

 

 

 

ルイ・フェルディナントは、1772年11月18日に、フリードリヒ大王の弟アウグスト・フェルディナントとアンナ・エリーザベトとの間に生まれています。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世も、フリードリヒ大王の甥の一人で、

よって彼とはいとこの関係で、

ルイーゼ王妃の夫である次の国王

フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、

ルイ・フェルディナントにとってはいとこの子

という関係になります。

 

 

 1789年2月19日、17歳の時に、

兄ハインリヒと共にプロイセン軍に入隊。

 ルイ・フェルディナントは、

モレンドルフ歩兵連隊に配属された。

1792年からの、フランス革命軍と、

オーストリア・プロイセン連合軍の連合戦争では、第一連隊大佐に任命された。

1793年の、マインツを巡るフランスと、

オーストリア・プロイセン連合軍との

戦いでは、勇敢さと戦功により、

軍人としての名声が響き渡る。

また、この戦いの間の、夜のフランス兵の突然の奇襲により、負傷した、オーストリアの

マスケット銃兵を、自分の馬まで借して、

救出し、この事により、七月十四日に、オーストリアから勲章を授けられた。しかし、彼自身も、

この戦いの期間の間に、フランス軍の攻撃で、

腿を負傷してしまい、仲間のオラニエ公子に

支えられて、その場から退避しなければいけなく

なった。そして、しばらくは足を引きずらなければ

いけなかった。しかし、恋人のコンタード子爵夫人や、新しく興味を惹かれた、亡命貴族の女性の

ブイユ侯爵令嬢などが取り巻き、相変わらず

彼の周りは、華やかだった。

そして、オーストリア皇帝から、感謝の印として、

大使のロイス公が派遣され、改めてマインツの

戦いにおいての、自国の兵士を救出してくれた事についての、感謝の気持ちを述べた。

ルイ・フェルディナント、そしてプロイセン軍を称賛した。

1795年の、フランスとプロイセンの

「バーゼルの講和」においての、

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の対応を批判する。

この講和前後からこのような、彼の批判が見られるようになったため、

1795年の2月から、

一時マクデブルク歩兵連隊に転属されてしまう。

1795年の8月に、最愛の姉ルイーゼ・フリーデリーケと、ポーランドの支配者階級の大貴族アントン・ラジヴィウ侯爵と婚約した。

  両親とは疎遠な関係であり、

愛する兄ハインリヒも病気で早く失っている

ルイ・フェルディナントにとって、

優しい姉ルイーゼ・フリーデリーケの存在は、

大きなものであった。

彼は姉を失う事への不安から、

この結婚を素直に祝福する事ができなかった。

しかし、アントン・ラジヴィウの友好的な態度や、彼も音楽に関して大変に関心が深い事なぢから、二人は領土問題や音楽について語り合う、良い仲間となっていく。

(まず、彼の姉のルイーゼ・フリーデリーケの結婚についてですが、プロイセン国王フリードリヒ二世のいとこであるプロイセン公女と

ポーランド貴族が結婚していた事に驚きました。やはり、従来言われていたような、

親フランス、反プロイセンのようなポーランド

貴族ばかりではなかったという事ですね。

一時は、ルイ・フェルディナントのポーランド

国王即位の話まで出ていたくらいですし。

 

 

 

このラジヴィウは、プロイセン人とポーランド人の架け橋になろうと努力し、

プロイセン王国との同君連合という形で、

プロイセン領ポーランドに、

「ポーランド王国」を再興しようとしていた

とか。また、彼の下の世代にも、

同じような形でポーランドを再興しようとした

フッテン=チャプスキのようなポーランド貴族の存在があったようです。

 

 

池田理代子は、まるでユーゼフ・ポニャトフスキやアンジェイ・タデウシュ・コシチウシコのような、とにかくポーランドからプロイセンの勢力を駆逐しようとした人々が、

あるべきポーランド人の姿のような書き方をしていましたが。 革命家好きですからね、

池田理代子。

 

 

 

しかし、上記の二人のポーランド人達のように、プロイセンとの共存を計りながら、

国としてのポーランドの存在を残そうとした人々もいたという事ですね。

フッテン=チャプスキの 存在は、「多民族国家プロイセンの夢 今野元  名古屋大学出版会」で知りました。

この本の著者の今野元先生は、

調査していく内に、「プロイセン貴族院」の

名簿に、多数のポーランド系の名前を発見したとか。

ただ、この本、何かと刺激的な視点や新事実の指摘が多く、大変勉強になる良い本なのですが、ルイ・フェルディナント王子の姉の

ルイーゼ・フリーデリーケが、

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の娘に

なっている誤りが少し気になります。

実際は、ルイ・フェルディナントと同じく、

フリードリヒ・ヴィルヘルム二世とは

いとこの関係に当たる。)

 

 

 

 

1797年の4月、ポーランドの将軍ワックジンスキがベルリンを訪問する。

 そしてアントン・ラジヴィウ、

フリードリヒ大王の弟で騎士修道会総長のハインリヒの仲介により、一時ルイ・フェルディナントのポーランド国王即位の計画の提案が、

浮上した事があった。

 

 

 

 

1800年に、ルイ・フェルディナントと

クールラント公女ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガンとの縁談が持ち上がるが、破談。

ルイ・フェルディナントが公私共に様々な悩みに沈んでいた時だった。

そんな時、彼に金銭的援助をしてくれた

銀行家一家の娘ヘンリエッテ・フローメと

知り合い、恋人となる。

(ルイ・フェルディナントは、王子とはいえど、父親のアウグスト・フェルディナントが、

吝嗇家であり、あまり十分な生活費を支給して

もらえず、またルイ・フェルディナント

自身が派手な生活を好んだ事もあり、

しばしば何年にも渡り、多額の借金を抱え込む事になった。)

 

 

 

 

彼にとっては、しばらくの静かな年月だった。

二人の間には、息子アントン・アルバート・ハインリヒと、娘ブランカという子供が生まれている。

その内にルイ・フェルディナントは、

当時評判だったラーエル・ファルンハーゲンの

サロンに顔を出すようになる。

彼女はユダヤ人宝石商の娘だった。

 

 

彼女のサロンは「屋根裏部屋」と呼ばれており、フンボルト兄弟、政治家で著述家の

フリードリヒ・フォン・ゲンツ、

歴史家ヨハネス・フォン・ミュラー、

フリードリヒ・フォン・シュレーゲル、

作家のジャン・パウル、 彫刻家のゴットフリート・シャドー、 スウェーデンの外交官カール・グスタフ・ブリンクマン男爵、そしてルイ・フェルディナントと義兄のアントン・ラジヴィウなど、 役者、文学者、外交官、貴族などの 多様な階層の著名な人々が様々な事柄について 自由に語り合うサロンだった。

ルイ・フェルディナントは、このサロンで

ピアノの演奏をする事もあった。

 

 

その内に彼女の友人で運命の女性となる

パウリーネ・ヴィーゼルと出会う。

そして2人は情熱的な恋愛関係になる。

パウリーネは、枢密顧問官カール・フィリップ・セザールの娘で、彼女の叔母には有名なサロン主催者の、ヘンリエッテ・フォン・クレヤンがいる。

 

 

 

1804年の1月、ルイ・フェルディナントは、ある著名な女性と知り合いになる。

ナポレオンの敵対者で、ナポレオン批判により

フランスを追われ、プロイセンに亡命してきた

スタール夫人アンヌ・ジェルメールだった。

スタール夫人は、1766年にフランスの金融大臣ネッケルの娘として生まれた。

1786年にスウェーデンの男爵の、

エリック・マグヌス・フォン・スタール=ホルシュタインと結婚。

1803年の12月に、夫と死別し、未亡人になる。そしてドイツ方面を旅行した彼女は、

ゲーテやシラーと会う。

才女で機知に富んだスタール夫人は、

ベルリンのサロンでも好意的に迎えられた。

そんな中、1804年の3月21日に

コンデ公の子孫に当たるアンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデが、ナポレオン殺害を企てた王党派の一員として、銃殺された。彼はルイ・フェルディントと

同年の32歳だった。

このアンギャン公銃殺により、

ヨーロッパ各国の君主達の中での

反ナポレオン感情が高まった。

当然、ルイ・フェルディナントも、

このアンギャン公銃殺に関して、

激しい反応を示している。

彼はナポレオンについてこう言った。

「情けを知らない愚か者」 ・「王家の血は、侮辱された」

 

 

 

 

 

なお、ユダヤ人女性で、ベルリンでの

サロンの主催者と言えば、他には彼女と同じく

ユダヤ人のヘンリエッテ・ヘルツがいます。

彼女がベルリンで最初にサロンを主催した女性らしく、ラーエル・ファルンハーゲンより

十年早い1780年に、サロンの主催を始めています。

なお、ラーエル・ファルンハーゲンも

彼女のサロンの参加者でもあり、

ラーエルは彼女に触発されて十年後のサロン

主催に至ったようです。

ベルリンでの有名なサロンが、いずれもユダヤ人女性達により主催されていたというのは、

興味深い事実だと思います。

 

 

 

ルイ・フェルディナントは、多才な才能に恵まれ、十三曲もの作曲をし、そのピアノ演奏はベートーヴェンからも絶賛される程。

王子で軍人ながら、ちゃんと作曲家としても認められているのです。 また彼からは「ピアノ協奏曲第三番」を献呈されています。

ベートーヴェンは、根っからの共和制主義者でしたから、演奏への絶賛と共に、

相当な事だと思います。

また、シューマンからは「全ての王子達の中で最もロマンティックな人物、古典派の中のロマン派だ」と、その音楽的才能を称賛されています。

 

 

ルイ・フェルディナントは、以下の曲を作曲しています。

 

ピアノ五重奏曲 ハ短調 第一番  

1806年

 

ピアノ三重奏曲  変イ長調 第二番  

1806年

      

ピアノ三重奏曲  変ホ長調 第三番

1806年

 

アンダンテと変奏曲 変ロ長調 第四番

1806年

 

ピアノ四重奏曲 変ホ長調 第五番

1806年

 

ピアノ四重奏曲 ヘ短調  第六番

1807年

 

夜想曲 ヘ長調 ピアノ、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと二つのホルン

第八番 

1808年

 

ロンド 変ロ長調 ピアノ、二つのヴァイオリン、フルート、二つのクラリネット、

二つのホルン、ヴィオラ、チェロとコントラバス

 第九番 

1808年

 

ピアノ大変奏曲 変ホ長調 ヴァイオリンと

チェロ、第十番

  1806年

 

 

 

 

 ルイ・フェルディナントは、

自由主義者でした。

 また 、外交官のゲンツ、

ドイツ・ロマン派の女流作家ラーエル・ファルンハーゲンなどとの交友でも知られています。

彼女のサロンは、当時有名なものでした。

軍人としても優れていて、ポーランドやフランスとの戦いでも 、何度も戦功を上げています。

そして反ナポレオンの中心人物でもありました。1804年の3月には、オーストリアから

メッテルニヒがベルリンに派遣されきた。

目的は、ナポレオンに対抗するための、

プロイセンとの同盟である。

この頃、オーストリアではナポレオンとの戦いが新たに計画されていた。

メッテルニヒと外務大臣で領国宰相の

ルートヴィヒ・ヨーハン・コベンツル伯爵は、

オーストリア・プロイセン・ロシアで

同盟し、ナポレオンと戦争をする事を企図していた。

ルイ・フェルディナントも、ナポレオンに対抗するために、オーストリアと同盟する事は、

以前から考え、意図していた事だった。

また、オーストリアとの同盟に、

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世も、

関心を持ち始めた。

しばらく、オーストリアとプロイセンの間で、

手紙を通した内密の交渉が続けられた。

1804年の9月には、国王の使者として、

ルイ・フェルディナントがウィーンを訪れた。 

しかし、結局オーストリアとの同盟は、

実現しなかった。

 

 

なお、四月二十七日には、シュタインがハルデンベルクの覚書に絡め、大改革案を起草していた。その中でシュタインは、ハーグヴィツ、コシクリッツ、ロンバルトらを辛辣に批判すると

共に、顧問官の役割を細々と批判した。

彼は弊害が大きいと考えていた顧問官制度を廃止し、その代わりに大臣達による審議会を設置し、これに行政権を持たせたいと意図していた。シュタインはこの文書の中で、

不穏な箇所は削除した提案書をまず最初に、

王妃ルイーゼの許に送った。

ルイーゼは、基本的には原案に賛成したが、

提案内容も言葉も、国王にはあまりに急進的に映るのではと伝えた。

そして更に、「この原案を修正し、更にシュタインの他に国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの

信任厚い人々と共同署名してから持っていってはどうでしょう」と提言した。

こうして、6月、7月、8月の三ヶ月の間に、

国王の許に、プロイセン陸軍総司令官の

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公、ルイ・フェルディナントを初めとする古参将校達から、ハーグヴィツとロンバルトを罷免し、フランスとの開戦を決意せよという要求が、何十通と突きつけられた。

しかし、国王はこれに一切取り合わず、

また激怒し国王の権威を振りかざしたため、

更に過激な手段が取られる事になる。

 

これが、8月の、軍部の人間やシュタイン達ばかりか、 国王の兄弟達まで加わった、

プロイセンの歴史の中でも、今までに例のない、意見書が提出される事態になったのである。

 

 

ルイ・フェルディナントら「戦争の会合」のメンバーは、フランス寄りの政策をとる顧問官達が政治に関わっている、「顧問官制度」

とハーグヴィツが害を及ぼしていると考えた。

特にハーグヴィツは、ルイ・フェルディナントも「フランス人の友」と呼び、嫌っていた。

 

1806年の8月には、

なかなかフランスとの開戦に踏み切らない

国王に対して、自分の弟フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ・アウグスト王子、

 リュッヘル将軍、プヒュル将軍、

シュタイン、国王の弟ハインリヒとヴィルヘルム、国王の義弟オラニエ公子ヴィルヘルムらと、内閣の解任を要求する意見書を

提出した。

 

元々この覚書は、ルイーゼの友人カロリーネ・フォン・ベルクを通して、何かのおめでたい集まりでもある時にルイーゼに渡し、

彼女からそっと打診してもらう計画だった。

しかし、手違いで、共同署名者の一人の副官が国王に直接届けてしまったのである。

プロイセンの歴史上、極めて重要な意味を持つ

この文書は、何の根回しもされず、

いきなり国王の目の前に差し出された。

この覚書の中では、プロイセンを昨今のような深刻な危機に陥れた諸政策を厳しく非難した後、現在の国王の顧問団はやがて全軍部、

全国民、今はまだ好意的な国外の王室からさえ、極端な不信を買うに違いないと断言している。そして顧問団は買収されているという噂も

あるが、この際そんな事は問題ではない。

何かにつけてナポレオンと共謀している彼らは最も卑劣な従属と引き替えに平和を買うか、

戦争になったらできるだけ手ぬるい措置を取るつもりであろうから、もしも陛下が積極的な

方針を打ち出し、将軍達が名誉にかけてそれを実行する事に全力を尽くしたいと言い出せば、

顧問団はこちらを裏切る訳にもいかず、

身動きが取れなくなるであろう。

望ましい成り行きを期待するには、

ハーグヴィツ伯爵と二人の顧問官を解任する

以外にない。これらは自分達ばかりでなく、

国民全体の声であるという内容だった。

 

 

これを読んだ国王は激怒し、「謀反だ」と叫んだ。また、さすがに王妃ルイーゼも、

この内容には賛成しなかった。

署名者達には国王の立腹振りが伝えられ、

似たようなグループの活動は一切禁止された。

また、軍隊の指揮権を委ねられていた王子達は直ちに所属部隊に帰任するよう命令された。

その後、署名者の一人であった国王の弟ヴィルヘルムと国王で話し合いの場が持たれても、

一向に事態は好転しなかった。

ルイ・フェルディナントは、別れの挨拶に、

国王夫妻に対面する事も許されなかった。

ルイ・フェルディナントはルイーゼに釈明の

手紙を書き、それを姉のラジヴィウ侯爵夫人

ルイーゼ・フリーデリーケとカロリーネ・フォン・ベルクを通じて送った。

ルイ・フェルディナントはその手紙の中で、

ルイーゼに対して「プロイセンの前途は誠に悲観的だが、国王と祖国のために我が血を流す

覚悟をしています。」と書いている。

 

 

1806年に、こうして彼は陸軍中将として

プロイセン軍の前衛を務めましたが、

ザールフェルトの戦いにより、10月10日、34歳で戦死しました。

ザールフェルルトの戦いは、フランス軍に対し、プロイセン軍はザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム一世、ザクセン=ヴァイマル公カール・アウグスト、ザクセン=コーブルク=ゴータ公爵

エルンスト一世アントン・カール・ルートヴィヒ(ヴィクトリア女王の夫のプリンス・アルバートの父)の軍隊も加わっていた。

戦いの当日、彼らが布陣していたザーレ渓谷は

霧が立ち込め、地理的に不利な位置にあった。ルイ・フェルディナントは、フランス軍との戦いに苦戦を強いられ、

ザーレ渓谷で少数になったプロイセン軍と共に、フランス騎兵隊との戦いの末、

第十騎兵連隊の下士官ジャン・バプティスト・グウィンディとの戦いで、致命的な攻撃を受け、死去した。

 

 

 

 

 

グウィンディは、彼の華麗な軍服やプロイセンの星型の黒鷲勲章から、

彼がプロイセン軍の元帥の一人だと見当を付けていたが、まさかプロイセン王子だとは知らなかったのである。騎兵隊からの報告で、

後から、グウィンディが倒したのは、

プロイセン王子のルイ・フェルディナントだと知ったナポレオンは、彼を捕虜にできなかった事を、悔しがった。そしてナポレオンは彼について「プロイセン王子ルイ・フェルディナントは、勇敢で誠実な兵士だった。」と言った。

 

ザールフェルトの戦い終了後、

間もなくザールフェルトはフランス軍で

占められた。

プロイセン軍に勝利を納めたランヌ元帥は、ザールフェルト宮殿にやって来て、

フランス兵三十人の食事を用意するよう、命令した。

宮殿側は、敵軍のこの屈辱的な要求に従わなければならなかった。

十月十一日の朝、ルイ・フェルディナントの遺体は、金目の物はフランス軍の下級

兵士達にあらかた略奪された、裸の姿で、ザールフェルト宮殿に帰還した。

 

 

 

 

 

女官のアマーリエ・ウッテンホーフェンは、悲しみの記述をしている。

「私は哀悼の客人達と共に泣きました、

 彼の遺体は、傷ついた担架で宮殿に運ばれてきました。彼は音楽合唱で喜びの勝利の行進曲を演奏していました。担架に横たわるルイ・フェルディナント王子、プロイセン軍の名声・・・・・・このような恐ろしい事になるなんて!」

ルイ・フェルディナントの遺体は、

ザールフェルト宮殿の教会に仮葬された。

 彼の遺体は、公爵夫人アウグステや宮廷の女性達によって、月桂冠で飾られた。

一方、ルイ・フェルディナントの戦死を

知らされたプロイセン軍に、大きな衝撃が走った。ルイ・フェルディナントは、いわばプロイセン軍の象徴、希望のような存在だったからだ。クラウゼヴィッツの一八〇六年の十二月十九日の日記にも、

王子の死は大いなる損失だと書かれている。

また、もちろん、彼の姉ルイーゼ・フリーデリーケや義兄のラジヴィウ侯爵、

恋人のヘンリエッテ・フローメやパウリーネなどの親しかった人々も、彼の死を嘆き悲しんだ。

 

 

ルイ・フェルディナントの棺は、

一八一一年の三月二十日に、

ベルビュー宮殿に運ばれた。

家族達が棺の周りに集まっていた。

姉のルイーゼ・フリーデリーケは、

泣きながら棺に跪いた。

棺は夜になってから、騎士達に囲まれてベルリン大聖堂に運ばれ、地下納骨堂に埋葬された。

 

 

 

 

ルイ・フェルディナントの弟アウグスト王子の副官で参謀大尉だったクラウゼヴィッツは、1806年の12月19日の書簡の中で、

ルイ・フェルディナントの英雄的性格が、

結果的に彼の命を奪う事となってしまった事を悔しがっている。

「確かにフランス軍との戦いがこうした

不幸な戦闘によって開始された事は不愉快な

事でした。しかし、わが軍が被った

最大の損失は、王子を失った事です。

王子はこれまで全ヨーロッパの注目を集め

偉大なる歴史の希望に満ちた第二のコンデ

公(ルイ十四世の将軍)の役割を果たす才能を持っておられました。

元々英雄の性格をあのように明白に示された

人物はあまりありません。

王子は非の打ち所のない優れた人物であったと

断言できます。それこそ平和な時代でも、

私自身が経験した事もないような

あらゆる危険を王子は全く意に介しないという

信じられない程勇敢な方でした。このような

性格の全てが、王子の肉体的美しさを真の

優雅な姿になるまで高め、

また王子の内面的価値を充実させたと思います。

そのために、歴戦の勇士も王子には親しみを

持って接し、若者達も王子に感嘆しました。

プロイセン軍人の中のごくわずかな人々だけしか、王子が享受されたような心情を

支配する能力を持つ事はできませんでした。

確かに、王子の戦死は王子のお人柄の成せる

業です。王子の軍が敗れ、ご自身も戦傷を負われた時、実は、ご自身の命を助ける事は

できたはずです。

それでも王子は戦果を挙げる事なく

退却する事を肯んじませんでした。

私はかねがね、このような自己犠牲の

王子のあり方を非難していました。」

 

 

 

 

ルイ・フェルディナントは、これまでの革命戦争の

歴戦の勇者であり、マインツ攻防戦でも非常な勇気を見せ、国のために尽くしたいという意欲に溢れていた人物だったが、これ以降の、1798年頃から、元々、正反対の性格であり、それ程仲が

良いとはいえない関係だった国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世との関係が、決定的に気まずくなり始め、そして戦争が一段落する時期にさしかかると、彼は地方の駐屯地を点々とする事を余儀なくされ、また享楽的で放縦な日々を送りがちになっていく。 このように、ルイ・フェルディナント本人は、祖国プロイセンのために、大いに尽くしたいという意欲に満ちていたが、重要な軍事や政治的問題の圏外に置かれてしまっていた。

そして、恋人達を次々と作り、父のフェルディナント王子が倹約過ぎる所や、本人が元々、派手な

生活を好んだ事もあり、度々財政に窮し、

多額の借金を重ね、先代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世やフリードリヒ・ヴィルヘルム三世との間に、金銭や一時は、当時人妻であったフランス亡命貴族のコンタード子爵夫人や、ロシアとの

外交問題に発展しかねない、クールラント公女

ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガンとの結婚計画

などを巡り、いざこざが絶えなかった。

しかし、彼自身はシュタインやシャルンホルストの

ような人々に、真剣に教えを乞いたいと、

心から願っていた。また、十九世紀に入ってからは、定期的にベルリンに滞在し、当時サロンの中でも特に著名だった、ラーエル・ファルンハーゲン

のサロンに出入りし、当代名の知れていたプロイセンの文学者・知識人・芸術家、そして他国の外交官などと知的・芸術的な議論を戦わせ、けして享楽のみに耽っていた訳ではなかった。

しかし、このように、ともすれば放縦になりがちであった、彼の生活についても、けしてこのような

生活は、彼の奔放な性格から来ていたものだけではなく、ままならない彼の不如意な境遇からも

来ていた事を、クラウゼヴィッツは理解していた。

そして彼は「破局を迎えたプロイセン」という文章の中で、こう書いている。

 

 

 

「彼は享楽家で、羽目をはずしがちであると同時に、危険を食べて生きているようなところがある。

子ども時代からそうで、戦争で危険に身をさらすことがなければ、じゃじゃ馬に乗り、激流を突っ切って狩りに出たがる。

猛烈に頭が良く、身ごなしは洗練されていて、

ウィットに富み、読書家で多才。とりわけ音楽に秀でていた。彼のピアノの腕前は名人級である。

フリードリヒ大王の甥で、勇敢で大胆、なかなかの

遊び人でもある若くてハンサムなこの貴公子将軍は、間もなく兵隊達や若手将校達のアイドルに

なった。しかし、古参の頭がこちこちの将軍達はこういうタイプの青年紳士には首を傾げ、フレッシュな才能など無用な軍隊の日課や規則にがんじがらめにしてその芽を摘んだ。

彼はしかたなく放埓な生活に浸って多額の借金を

作り、そのエネルギーのはけ口をひたすら享楽に

求めた。取り巻きも立派な人達ばかりだったとは言えない。それにも関わらず、彼は決して自堕落に陥らなかった。頭は常に水面に出し、精神は

高貴な領域に住まわせておいた。

国家、祖国の重大事から目を離すことはなく、

栄光と名誉に憧れ続けた・・・・・・ところが結果的にはこれが政府関係者から煙たがられた。国王(フリードリヒ・ヴィルヘルム三世)はとにかく彼と関わりあうまいとした。真面目な王は、彼の放縦な生活振りが気に食わなかった。独裁国の君主なら無理もないことではあるが、国王は彼の野心をのさばらせまいと警戒もした。彼の才気煥発さがかえって

王を懐疑的にした。」

 

 

 

 

 

 

 

戦死した後、彼はルイーゼ王妃と共に、

プロイセンの伝説になりました。
1857年に、彼はテオドール・フォンターネから以下の詩を贈られています。

 

 

六フィートのすらりとした身体つき、

さながらその様は軍神の如き、

仲間達からは愛され、

美女達の寵児、

その青い瞳、ブロンド、大胆さ、

そして彼の若々しい手には、

プロイセンの古びた剣が握られていた。

 ルイ・フェルディナント王子

 

 

 

 

それからルイ・フェルディナントに関して

非常に気になった事は、「栄光のナポレオンで」は「皇太子」と、誤表記されていた事です。

そして「ラーエル・ファルンハーゲン 

ハンナ・アーレント みすず書房」では、

ルイ・フェルディナントの姉のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケが、「妹」になっていたし。

どちらも、まちがいです。

彼は皇太子ではありません。

それに漫画では、顔も全然違っていたし・・・。

プロイセンの人物が日本ではマイナーなせいなのでしょうが、 淋しいですね。

 

 

 

 

 

 ルイ・フェルディナントとジョージ四世王妃 カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク= ヴォルフェンビュッテル(キャロライン・オブ・ブランズウィック)

 

 

 

 ルイ・フェルディナントは、1791年に

家族とクロートの鉱泉保養地を旅行した時、

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵カール二世カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの一家と出会う。

 彼はフリードリヒ大王の妹シャルロッテの

息子だった。妻はイギリス王子フレデリック・ルイス・オブ・ハノーヴァーの娘で

ジョージ二世の孫の、

オーガスタ・オブ・ハノーヴァー。

  このような親戚関係から、

しばらくルイ・フェルディナント一家は、

ブラウンシュヴァイクの宮廷に滞在する事になった。そこでルイ・フェルディナントは

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵の娘カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルと出会う。

 カロリーネは、活発で独立心が強い公女だった。

ルイ・フェルディナントと彼女は、

お互いに好感を持ち、恋に落ちた。

 1792年にも、ルイ・フェルディナントは、ブラウンシュヴァイクを訪れた。

 ルイ・フェルディナントとカロリーネは、

この再会を喜んだ。

 彼らは観劇に行ったりした。

 

 

 しかし、1794年にカロリーネと

イギリス王子のジョージとの間に、

縁談が持ち上がり、結局、カロリーネは

1795年に彼と結婚する事になってしまった。

 なお、この前後の1794年の夏にも、

ルイ・フェルディナントはブラウンシュヴァイクを訪れている。

 

 

 しかし、カロリーネの夫ジョージ四世は、

大変に好色ですでに結婚前から何人もの

愛人を作り、結婚当初でさえ、人妻のジャージー伯爵夫人フランシス・ヴィリアーズと

平然と関係を持ち続けていた。

 当然の事ながら、彼らの結婚生活は

早々に、破壊と墜落に見舞われた。

 また、ジョージ四世自身も当初から

妻のカロリーネを嫌い、ほとんど関心を示さなかった。

 

 

 以降も、メアリー・ロビンソン、フィッツハーバート夫人メアリー・アン、

ハートフォード侯爵夫人イサベラ・イングラム=シーモア・コンウェイ、カニンガム侯爵夫人エリザベス・カニンガムなど、

彼の周辺に愛人の姿が途絶える事はなかった。

 ジョージ四世国王夫妻は、イギリス史でも評判の、仲の悪い夫婦となってしまった。

 更にジョージ四世とフィッツハーバート夫人とは、秘密結婚までしていたという。

 これは、明らかに重婚であった。

 

 

 ルイ・フェルディナントは、カロリーネとの手紙のやり取りで彼女の不幸な結婚生活を

知っていた。 彼はカロリーネに、同情した。自分と結婚していれば、こんな事にはならなかったと思ったのかもしれない。

 また、カロリーネにとって、不幸な結婚生活を送る日々の中で、ルイ・フェルディナントとの思い出は、心の慰めになっていたのではないだろうか?

 

 

 後年、カロリーネは信頼するイギリス人の

侍女のベリー夫人シャーロットに、

ルイ・フェルディナントとの事を話している。

 カロリーネは、ルイ・フェルディナントが

死ぬまで自分の事を想い続けてくれていたと

信じていた。

 とうとう、ジョージ四世とカロリーネの

間に生まれた子供は、一人娘のシャーロット

のみだった。

 だが、彼女も1816年にヴィクトリア女王の叔父ザクセン=コーブルク侯爵レオポルトと

結婚した後、わずか一年余りの結婚生活の後、

1817年の11月6日に、死産だった息子と共に死去してしまった。

 イギリス王位は、ケント公の手に渡る事と

なった。

 王妃として妻として無視され続け、

長年の不幸な結婚生活を送ったカロリーネは、

1821年の8月7日に死去した。

 

 

 

 

 

カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(キャロライン・オブ・ブランズウィック)
カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(キャロライン・オブ・ブランズウィック)
ジョージ四世
ジョージ四世
ジャージー伯爵夫人フランシス・ヴィリアーズ
ジャージー伯爵夫人フランシス・ヴィリアーズ
メアリー・ロビンソン
メアリー・ロビンソン
フィッツハーバート夫人メアリー
フィッツハーバート夫人メアリー
ハートフォード侯爵夫人イサベラ・イングラム・シーモア=コンウェイ
ハートフォード侯爵夫人イサベラ・イングラム・シーモア=コンウェイ
カニンガム侯爵夫人エリザベス・カニンガム
カニンガム侯爵夫人エリザベス・カニンガム
ルイ・フェルディナント
ルイ・フェルディナント
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ

 

 

 

ルイ・フェルディナントとフリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ

 

 

 

ルイ・フェルディナントとフリーデリーケは、

ルイーゼ達姉妹が結婚前の1793年の、

フランスとプロイセン間の、マインツ共和国を巡る戦争の時に初めて出会った。

この戦争の負傷兵の手当てをする為、

二人の公女は兵営を訪れた。

若く美しい公女達のこの訪問を、

兵士達は大歓迎した。

 その後、1793年の12月24日と26日に、ルイーゼとフリーデリーケの結婚が執り行われた。

ルイーゼ姉妹とルイ・フェルディナントは、

すぐに親しくなった。

ルイーゼは誠実な王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムとの間に、多くの子供達にも恵まれ、

幸せな結婚生活を送っていた。

しかし、フリーデリーケの方は、

そうではなかった。

彼女の夫ルートヴィヒは、妻をほったらかし、

賭博や多くの女性達との浮気などの放蕩に耽っていた。元々、フリーデリーケに以前から

関心を抱いていたルイ・フェルディナントは、

彼女を口説くようになる。

 

 

 

そしてついに、1796年の冬に、

2人は恋人同士となった。

この間のルイ・フェルディナントについて、

姉のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケは、「弟は公女に、心からの忠誠と愛を誓っている」と言っている。

ルイ・フェルディナントはフリーデリーケの事を「アゼーリエ」と呼んでいた。

しかし、ルイ・フェルディナントの気持ちの方は、しだいに冷めていく。

1796年の12月25日、

フリーデリーケの夫ルートヴィヒは、

急病にかかり、その三日後には、帰らぬ人と

なってしまう。彼との間に生まれた息子フリッツ・ルイが三歳になる頃だった。

18歳で、未亡人となってしまったフリーデリーケは、悲嘆に暮れた。

そしてフリーデリーケは、半年後に、

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の

勧めに従い、1797年の6月に、

いとこに当たるイギリスのケンブリッジ公爵アドルフとバート・ピュルモントで会う事となった。バート・ピュルモントには、

国王とフリーデリーケの他に、

姉のルイーゼと王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、そしてルイ・フェルディナントが同行した。

彼らが宿泊した鉱泉ホテルでは、

数日に渡り、フリーデリーケとルイ・フェルディナントがけんかをしていたという。

 ルイ・フェルディナントは、まだフリーデリーケに未練があり、関係の修復を迫った。

 フリーデリーケも、心が揺れている部分も

あったようだが、アドルフとの事を前向きに

考えたいとの意向を彼に伝えた。

しかし、結局この縁談は成立しないで終わった。

だがその後フリーデリーケは、

1798年に出会った、アンスバハの騎兵大尉でルイ・フェルディナントの友人の

ソルムス=ブラウンフェルス公子と恋に落ちる。

 

 その後、フリーデリーケの妊娠が発覚し、

ルイーゼら事情を知る少数の関係者は、

スキャンダルになるのを恐れ、

12月10日に彼らは急いで結婚し、

ベルリンを離れ、ソルムスの領地に向かった。

最終的にフリーデリーケは、かつてバート・ピュルモントで会った、ケンブリッジ公爵アドルフの弟の、カンバーランド公爵エルンスト・アウグストと結婚し、ハノーファー王妃となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルイ・フェルディナントとヴィルヘルミーネ・フォン・クールラントとの縁談

ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガン(クールラント公女ヴィルヘルミーネ・フォン・クールラント)
ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガン(クールラント公女ヴィルヘルミーネ・フォン・クールラント)
ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガン(フランソワ・ジェラール作)
ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガン(フランソワ・ジェラール作)

  1800年にライプツィヒで、

ルイ・フェルディナントは、ラトビアに位置するクールラント公国公女ヴィルヘルミーネ・フォン・クールラントおよび、その家族と出会った。

 クールラント公爵家は、元はヴェストファーレンに居住していた一族だった。

1710年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラーが、イヴァン五世の娘で後のロシア女帝アンナ・イヴァノヴナと結婚し、

これ以降クールラント公国は、

ロシア帝国に臣従する事になった。

 

 

 しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルム

とアンナとの間に子供はなく、

叔父のフェルディナント・ケトラーに、

クールラント公爵家は引き継がれる事に

なった。

 その後、彼はエルンスト・ヨーハン・フォン・ビロンを、クールラント公爵に指名した。

エルンスト・ヨーハンは、アンナ女帝の寵臣として、目覚ましい働きを見せ、

ついにロシア帝国の摂政の地位にまで昇り詰めた。

こうして、彼の代にクールラント家は隆盛

した。

 

 そして彼の息子の、クールラント公爵ペーター・ビロン・フォン・クールラントと、

ドロテア・フォン・メデムとの娘が

19歳になる、ヴィルヘルミーネだった。

 そしてルイ・フェルディナントと、

このヴィルヘルミーネ・フォン・クールラント

との間に、新たに縁談が持ち上がった。

 ルイ・フェルディナントは、

すぐに美しいヴィルヘルミーネに惹きつけられた。更に彼女は魅力的な上に、父のクールラント公爵ペーターには息子がいないため、

ゆくゆくは長女の彼女が、

ザーガン公国の方を相続する見通しだった。

 

 

 ペーター公爵は、ルイ・フェルディナントの

住むフリードリヒスフェルドを訪れた。

 しかし、それからわずか数週間後の、

1800年1月13日に、ルイ・フェルディナントと娘ヴィルヘルミーネの縁談を、

積極的に推し進めていたクールラント公爵は、

急死してしまった。

 こうして、この結婚計画に暗雲が垂れ込めてきた。しかし、ルイ・フェルディナントは

依然として事態を楽観し、まだヴィルヘルミーネとの結婚をあきらめていなかった。

 

 

 しかし、ルイ・フェルディナントには

ライバルがいた。

 ロシアのスヴォーロフ侯爵アレクサンドル・スヴォーロフである。

 彼も当時、ヴィルヘルミーネに求婚していたのであった。

 ルイ・フェルディナントは、彼に対して

対抗意識を表わし、次のように言っている。

「ヴィルヘルミーネは、ロシアで暮らしたいのか?彼は哲学的な意見を持っているのか?

自由と独立を愛しているのか?」

 

 

 1800年の5月4日、ルイ・フェルディナントは再びライプツィヒを訪れた。

  ルイ・フェルディナントは、

ヴィルヘルミーネ母娘に歓迎された。

 そしてその三日後に、彼は母親への手紙の中で、自分はすっかりヴィルヘルミーネに魅惑

されてしまったと書いている。

   同時代人の、ヴィルヘルミーネの魅力に

関する記述や意見によると、

彼女は背が高く、ブロンド、青い瞳を持って

おり、魅力的で、高い知性を持ち、

才気に富んだ女性だったという。

 

 

 ルイ・フェルディナントの、ヴィルヘルミーネへの求婚の経過は、順調に進んでいると思われた。しかし、思わぬ方向へと事態が発展していくのである。

その原因は、ヴィルヘルミーネの母ドロテア

だった。

 ドロテアは、ルイ・フェルディナントの義兄ラジヴィウ侯爵アントン・ラジヴィウの事を

調査した。そして、ルイ・フェルディナントの姉ルイーゼがポーランド貴族である彼と

結婚した事から、一時ルイ・フェルディナントのポーランド国王即位の話が浮上していた事を

突き止めた。

 野心家だったドロテアは、ぜひルイ・フェルディナントをポーランド国王にし、

娘を ポーランド王妃の地位に昇らせたいと

目論んだのである。

 

 

 そして、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム

三世に、ルイ・フェルディナントを

ポーランド国王にしてくれるよう、

働きかけるつもりだったらしい。

 だが、彼女のこの計画は、ポーランドの現状を把握していない、空論に過ぎなかった。

 これを知ったフリードリヒ・ヴィルヘルムは、強い不快感を表わした。

  これにより、ロシアとプロイセンの関係が

危うくなり、国際問題にまで発展しかねなかったからである。

 国王は、ルイ・フェルディナントと

ヴィルヘルミーネの結婚に、反対した。

 

 

 ルイ・フェルディナントは、

懸命に自分にもヴィルヘルミーネにも、

ポーランド王位への野心は全くないと

説明したが、結局結婚の許可は下りなかった。

 ルイ・フェルディナントは、

自分の求婚のこの不幸な結果に、

大いに落胆した。

 一方、ヴィルヘルミーネはその後

ローアン・ド・ゲムネ侯爵と結婚した。

 しかし、1805年に離婚。

 その次にはトルベツコイ侯爵と結婚、

更にその次にはカール・ルドルフ・フォン・

シュレンベルク伯爵と結婚する。

 その内に、ヴィルヘルミーネはメッテルニヒの愛人になる。2人は、反ナポレオンの政治

姿勢でも共感を抱き、政治的に連携していく事になる。

 

  ルイ・フェルディナントの方は、

ヴィルヘルミーネとの縁談が破談になり、

本人達以外の政治的思惑が絡む、

王族の結婚が嫌になったのか、

これ以降彼はヘンリエッテ・フローメ、

パウリーネ・ヴィーゼルなどのブルジョワ階級の女性達と付き合うようになっていく。