彼は「女性達は、できる限り薄い衣装と下着を身に纏っている。」と日頃からベルリンの
ルイーゼは、当時の流行に相応しい装いをしていた。
フランス革命後の年月、ヨーロッパの女性達のファッションは驚くべき変化を遂げた。
まずコルセットとスリップが姿を消した。
古代ギリシャや古代ローマ風の、
いわゆる「古典古代」様式の、
ゆったりとした薄いドレスが流行するようになった。
ルイーゼが喉を腫らしてしまった時に、
それを隠すために首にスカーフを巻いたのが、
間もなくベルリンの女性達の間で流行するようになった。ルイーゼは、宮廷の女性達のファッションリーダー的存在であった。
1794年、ポーランドでは「愛国派」の革命家アンジェイ・タデウシュ・コシチウシコが
独裁宣言を行ない、1793年1月23日の第二回ポーランド分割に対して、ロシア・プロイセン軍の撃退を表明した。
ルイーゼは手紙の中で、こう書いている。
「人々は残忍な戦いに熱中しています。多くの負傷者が出ています。」
今回のポーランドとの戦いで、
プロイセンは敗戦してしまっていたのである。
しかし結局11月にはロシアとプロイセン軍により、ワルシャワは陥落した。
この時ルイーゼは過敏になり、いらいらしやすくなっていた。
この時ルイーゼとフリーデリーケは、
妊娠中だった。
宮廷を訪れたクリストフ・フォン・ザルデン将軍の息子で、歩兵連隊大将のリュッヘルは、
また恋愛遊戯を仕掛けているルイ・フェルディナントと(彼はこの頃、フリーデリーケを口説きにかかっていた。)意気阻喪している様子のルイーゼを目にした。
1794年の10月2日に、
フリーデリーケより一足早く、
ルイーゼは女児を出産した。
しかし、この娘は間もなく亡くなってしまった。その20日後にフリーデリーケが、
男児のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(フリッツ・ルイ)を出産した。
同時期の出産ながら、姉妹で明暗が別れてしまったのであった。
ルイーゼは死産してから、しばらくベッドに付いていた。 ルイーゼは当初は「娘は神の御意志によって召されました。」と言って悲しみに耐えていたが、やはり初めての子供の死と
いう悲しみは、心に重くのしかかっていた。
「この悲しみから涙が溢れてきます。私の愛する子供は死という大きな不幸に見舞われてしまいました。」と姉テレーゼに宛てて初めての出産ですぐに子供をなくした悲しみを訴えている。
王太子は子供を亡くした病床の妻を心配して、何夜にも渡って見舞いに訪れた。
ルイーゼは夫のこの心遣いに、
強く感激した。
1795年の4月に、フランスとプロイセンの間で、「バーゼルの講和」が結ばれた。
この講和で主要な役割を果たした
ルイ・フェルディナントは、
プロイセンの英雄だった。
ルイーゼ夫妻の間に、長男のフリードリヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
45年後に、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世として即位する息子である。