1776年の3月10日、ハノーファーのアルテン宮殿で、メクレンブルク公爵夫妻の4人目の娘である、ルイーゼが誕生した。夫妻の間には1769年には長女のシャルロッテが、1771年に次女のカロリーネが、異端児のプロイセン王太子妃">1773年に3女のテレーゼが、そして4人目が、このルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエだった。ルイーゼの母フリーデリーケ・カロリーネ・ルイーゼは、プロイセン王家と親戚関係になる、 ヘッセン=ダルムシュタット公女だった。 彼女は後にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世王妃になる、王太子妃フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの いとこだった。 ルイーゼの父カール・ルートヴィヒ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツは、子供のいない兄アドルフ・フリードリヒの遺産を 相続し、ハノーファーの州知事になっていた。カール・ルートヴィヒとダルムシュタットの美しいフリーデリーケは、1768年の9月に結婚した。この結婚は調和に満ちたものだった。 1772年と、1774年に2人の息子ゲオルクとフリードリヒが誕生した。 1779年にはカールが誕生した。ルイーゼは、大勢の兄弟姉妹達とハノーファーで過ごした。彼女は活発で、気まぐれな所のある子供だった。 しかし、家族の穏やかな日々は、突然に終わりを告げた。母のフリーデリーケが、30歳で死去したのである。フリーデリーケは1782年の5月22日に、お産が元で亡くなってしまったのだった。また、アウグステと名付けられた生まれたばかりの娘も、生後わずかしか生き永らえる事ができなかった。 突然の愛する母の死に、ルイーゼら子供達は深く悲しんだ。父親のカール・ルートヴィヒにとっても、この愛する妻の死は大きな苦痛と悲しみをもたらした。カール・ルートヴィヒは、今や大勢の娘達と3歳になる息子を抱えた寡夫となってしまった。困り果てた彼は、再婚する事を決めた。再婚相手には、亡くなった妻の妹である、28歳になるシャルロッテ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットが選ばれた。 2人は1784年の9月に結婚した。 シャルロッテは1785年の12月12日に息子のカールを産んだ。 シャルロッテと子供達の関係は、彼女が実の叔母だという事もあってか、非常に円満だった。突然の母の死により、母親の愛情を求めていた子供達は、この叔母によって、再びそれを十分に与えてもらう事ができた。ルイーゼは、祖母のゲオルク公爵夫人が大好きだった。このルイーゼの母方の祖母は、ゲオルク公爵夫人こと、本名をマリー・ルイーゼ・アルベルティーネ=ライニンゲン=ダグスブルク=ファルケンブルクといった。彼女はライニンゲン=ダグスブルク伯爵クリスチャン・カール・ラインハルトの娘で、夫ヘッセン=ダルムシュタット公爵ゲオルク・ヴィルヘルムは1782年に死去していた。その際に妻の彼女が領地を引き継いだため、彼女は「ゲオルク公爵夫人」と呼ばれるようになった。 ゲオルク公爵夫人は、思慮深い女性で、また人からは現代的とも呼ばれていた。ルイーゼは姉妹達の中でも、特に2歳違いの妹フリーデリーケと仲が良く、2人はそのブロンドの巻き毛や青い瞳も、快活で無邪気な性格もそっくりだった。
ルイーゼの姉妹達の中で、長姉シャルロッテ(愛称ロロ)は最も音楽的才能があり、次姉テレーゼは、知的で活動的、さらにその上美しかった。 妹のフリーデリーケは、セクシーな魅力があり、ちゃっかりした所があった。 ルイーゼは、強情で反抗的な所があり、時々つむじを曲げる事があった。 また気まぐれな面もあった。体つきは若木のようにほっそりとしなやかで、その表情は生き生きとしていた。ルイーゼを教えたのは、シュザンヌ・ド・ゲリューという、スイス人の女性教師だった。彼女はルソーの信奉者だった。ルイーゼは、歴史・英語・文学、ギリシャ神話、フランスの啓蒙家ルソーやドイツの劇作家レッシング、詩人クロップシュトック、詩人・小説家・劇作家のヴィーラント、シェイクスピア劇、ヴォルテールの『カンディード』などを学んだ。彼女は手紙の中に、時々英語とラテン語を交えて書く事があった。 しかし彼女自身は、けして優等生とは言えない生徒だったようだ。 当時の同級生は、学校時代の彼女について、<こう証言している。 「論文を書くためのノートの内容はほとんどまちがいだらけで、しかも落書きをしたりする事もあった。さらにその上落ち着きがなく<思いのままに部屋の中を動き回っていた。」 しかしルイーゼは、スケッチとピアノには熱中し、これらの才能を示した。 1785年にルイーゼの上の姉シャルロッテ・ゲオルギーネが、フリードリヒ・フォン・ザクセン=ハイデルベルク公爵と結婚した。1789年には次の姉のテレーゼが、カール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵とレーゲンスブルクで結婚した。楽しくて幸福な祝祭が続いた。ただ、一家にとって幸せな事が続いている中、祖母のゲオルク公爵夫人は一つ気がかりな事があった。それは孫のルイーゼの健康の事だった。 ルイーゼは健康に関して、かなりの問題を抱えていた。 彼女の身体は血液の循環に問題を抱えており、風邪と戦わなければならない時もあった。 また、突然ベッドで安静にしていなければならない時もあった。 1790年の2月20日に、ウィーンで神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ二世の葬儀が行われた。大変に荘厳なものだった。ゲオルク公爵夫人は、即座に孫娘のルイーゼとフリーデリーケを連れて、10月にフランクフルトで行われるレオポルト二世の即位式典を見に行く事に決めた。ルイーゼ達一行は、快適な宿泊地と名高い、レーマーブルク近くのゲーテの母カタリーナ・エリーザベト・ゲーテの家に泊まらせてもらう事にした。 彼女は60歳になっており、人々から「アーヤ夫人」と呼ばれていた。 アーヤ夫人は楽しく、もてなし上手な女性で、ルイーゼ達に心からの好意を示してくれた。そして見事な歌やピアノの演奏でもてなしてくれた。人々はみんな笑いながら歌った。 1790年の10月9日、ヨーゼフ二世の弟レオポルト二世の華麗な戴冠式が行なわれた。1791年祖母は見聞を広めるために、孫娘のルイーゼ達を連れてオランダの各都市アルンヘイム、ユトレヒト、アムステルダム、デン・ハーグ、スヘフェニンゲン、ロッテルダムを旅行した。翌年の1792年の1月15日に、ルイーゼとフリーデリーケに堅信礼が施された。これは、成人式のようなものに当たる。これでルイーゼ達の少女時代は、終わりを告げたのである。これで彼女達は社交界にも出入りができるようになった。 そしてルイーゼ達は、結婚適齢期を迎えた事になる。 そうこうしている内に、隣国のフランスの方からラインへと暗雲がしのび寄ってきた。 同年の4月から、フランスとオーストリア・プロイセンが戦争状態になった。 そして8月10日から一ヵ月後、ブルボン王家が追放され、フランスは共和制を宣言した。革命は成功し、オーストリア軍とプロイセン軍は、フランス軍に撃退された。 そして新たにフランス軍は、ライン川の方へと侵攻してきた。 まずシュパイアーとヴォルムスが、フランス軍の脅威に晒された。 次はヘッセンが戦火に見舞われ、多くの人々がパニックに陥った。 そしてダルムシュタットの方へも、フランス軍が迫ってきた。 ルイーゼは「私は死ぬのが怖い」とこの時の恐怖を語っている。 更にルイーゼは、10月2日のザクセン=ハイデルベルクの姉シャルロッテに宛てた手紙の中で「フランス軍は強く、およそ1500人~二〇〇〇人がシュパイアーにいます。彼らは盗賊と化し、狙っています。彼らはこれからダルムシュタットにも、進軍してくるでしょう。今から私達は避難しなければなりません。」と、フランス軍進軍への恐怖と緊迫した情勢について書いている。シュパイアーは、フランス軍の進軍によって莫大な被害を被った。それから2日後、決然とした祖母ゲオルク公爵夫人は安全のために孫達と共にシャルロッテを頼り、ここから1500キロメートル離れたハイデルベルクハウゼンに向けて旅立った。 シャルロッテは家族の到着を喜び、彼らの世話をした。シャルロッテには、先日生まれたばかりの子供がいた。この女の子の名前はテレーゼ、後の1825年にバイエルン王太子のルートヴィヒ・フォン・バイエルンと結婚し、バイエルン王妃となっている。 当時のハイデルベルクの宮殿は、シャルロッテの文化振興の努力により、「小アテネ」と呼ばれるまでになった。当時の宮廷に集っていたドイツ・ロマン派の作家の一人、 ジャン・パウルは、著作『巨人』の中で、 ルイーゼを美の女神アフロディーテに、 シャルロッテを輝きの女神アグライアに、 テレーゼを喜びの女神エウフロシュネに、 フリーデリーケは花の盛りを表わす女神タレイアに擬えられている。この『巨人』は、メクレンブルク公女四姉妹のために、捧げられた作品だった。
ルイーゼ達がハイデルベルクに到着して落着いてきた頃、久しぶりに再会した一家は、和やかな団欒を過ごした。 そして愉快な夕食や田園のピクニックなどになった。ルイーゼは1793年の3月10日、ハイデルベルクハウゼンで17歳を迎えた。 彼女の父カールは、美しく優雅な娘達を誇らしく思っていた。 煌めく青い瞳に生き生きとした表情、朗らかさと素朴さ、そして生まれつきの魅力をルイーゼは持っていた。しかし、そんな彼女にも、批判的な目はあった。ルイーゼがベルリン宮廷に来た時、彼女と妹フリーデリーケの彫像を彫った彫刻家ヨーハン・ゴットフリート・シャドーなどは、「パーティーでの彼女は、だらしなく酔い潰れ、品行が悪かった」などと批判している。古臭い、プロイセンなど他国の国王達から見れば、自由闊達なルイーゼの振る舞いは、受け入れ難いものがあった。当時メクレンブルクは、自由主義的・進歩的な気風が急速に広まっていた所であり、いまだ主流であった保守的なドイツ諸国の考えと対立する事があった。 ダルムシュタットの活動的なルイーゼの祖母は、事前に孫娘の花婿候補に関して綿密に知る機会を設け、二人を会わせた後に改めて結婚させるかどうか考えたいという事で、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世と内密に交渉を行い、会う場所が決められた。
ルイーゼとフリーデリーケ達は、ハイデルベルクハウゼンからフランクフルトへと出発した。 フランクフルトのホテルに、フリードリヒ・ヴィルヘルム王太子とその弟のカール・ルートヴィヒ・カールが現われた。2人は当時プロイセンで主流だった、フランス風の服装をしていた。まず初めにフリードリヒ・ヴィルヘルムが「偶然ですね、こんな所でお2人に会うなんて」と切り出した。この言葉は、決まり文句として使われた。 王太子と弟はすぐに、この魅力的なメクレンブルク公女達に魅了された。 そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは、「まるで真っ白な白鳥のようだ」や「2人の天使」とルイーゼ達に向かって言い表した。また「あなた達の美しさには、本当に驚いています」などとも言っている。どちらかというと言葉少なの兄に対し、弟の方は雄弁だった。 フリードリヒは、ルイーゼに指輪を渡した。 ルイーゼもフリードリヒに好感を抱き、結婚を承諾した。フリーデリーケもルートヴィヒと結婚する事になった。しかし、結婚が決まってからもルイーゼは、自分がプロイセンの王太子妃になる事への不安もあったようです。彼女はその気持ちを「まるで、見てはいけない伝説上の生物を目にしてしまったかのような、畏れを感じています。」と語っている。 1793年の12月13日、ルイーゼは祖母とフリーデリーケと共に、ダルムシュタットからヴュルツブルク、デッサウを過ぎ、ベルリンへと向かった。 未来の夫達や国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世と王妃フリーデリーケ・ルイーゼに、挨拶をするためである。ベルリンに入ったルイーゼは、すでに人々が自分の事を未来の王太子妃として注目している事に気が付いた。メクレンブルク公女一行が、ベルリン宮殿に向かう途中、人々の手により急ごしらえで菩提樹の凱旋門と観覧席が設けられた。 ルイーゼがそこに到着し、馬車から降りてくると一目彼女を見ようと人々が殺到した。 それから彼らは「ようこそ可愛らしいお嬢様」と呼びかけ、歓迎の挨拶と歓迎の詩をルイーゼに贈った。「国民の母に祝福を。」 ルイーゼは、この歓迎に深く感激した。そして自然に歓迎の少女を抱きしめ、彼女の頬にキスをした。ルイーゼに抱きしめられた少女やそれを見ていた人々は、メクレンブルク公女の思いがけない行動に、しばし呆気に取られていた。そして共にメクレンブルク宮廷からルイーゼに同行し、ルイーゼ付きの女官長として彼女を注意深く見守っていた、フォス伯爵夫人ゾフィー・マリア・フォン・フォスもこのルイーゼの行動に仰天し、ホーエンツォレルン家の一員となるルイーゼが、市民に向かってこのような振る舞いをするとはとんでもない不作法だと注意した。
しかしルイーゼの方は「どうして私のした事が悪いのですか?」とゾフィーに聞き返した。一方、すでに人々の間ではこの未来のプロイセン王妃の、確かに不作法ではあるが、心のこもった大胆な行動に対する深い感動が広まっていた。だが、この話を聞いたベルリン宮廷の貴族達は、ルイーゼの振る舞いをとんでもない事だとし、このような事をするルイーゼは王太子妃として果たして大丈夫なのか?と危惧した。 1793年12月24日のクリスマス・イブ、白く塗られたベルリン宮殿の大広間で、ホーエンツォレルン家の人々や居並ぶ廷臣達が見守る中、結婚式が行われた。 ルイーゼは、胸元の切れ込みにはダイヤモンドの薔薇が縫い取られた繻子織りの銀色のドレスを纏い、喉元は豪華な首飾りで飾られ、思わず「まるで童話の中のお姫様のよう。」という声が人々の間から洩れる程、優美な姿を披露した。そしてルイーゼの頭には、ダイヤモンドのティアラが輝き、その間からはカールしたブロンドが覗いていた。彼女のそのアッシュブロンドの頭にティアラが置かれた時、人々は思わずうっとりとしていた。 そしてその2日後の12月26日には、フリードリヒ・ヴィルヘルムの弟フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール 王子とルイーゼの妹フリーデリーケの結婚式が行われた。 その時の花嫁の様子についてルイ・フェルディナント王子の姉ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケは「彼女はうっとりする程美しく、優雅だった。」とフリーデリーケの事も称賛している。ルイーゼ達夫婦は、王太子宮殿に住む事になった。ルイーゼの宮廷での最大の親友は、妹のフリーデリーケとルイ・フェルディナント王子だった。