エリーザベト・フォン・シュテーゲマン
エリーザベト・フォン・シュテーゲマン

ヘンリエッテ・フォン・クレヤンのサロンが、

彼女がベルリン移住のユグノー三世代目に当たる事もあり、フランスの手本にならい、いまだに会話はほとんどフランス語で交わされていた、貴族的な

色彩が濃いロココ風サロンなら、やはり当時の著名なサロンとなる、エリーザベト・シュテーゲマンの

それは、ドイツ啓蒙主義の影響下にある、

教養市民層の基本的なサロンであったと言える。

 

 

 

 

 

エリーザベト・フィッシャーは、商人の娘として、

1761年の4月11日に、ケーニヒスベルクで

生まれた。1780年、19歳の時にグラウン法律

顧問官と結婚する。 彼の父は作曲家でフリードリヒ大王お抱えの楽長カール・ハインリヒ・グラウン

だったが、狭量な法律家であった息子の方は、

妻エリーザベトが芸術に寄せる関心をどうしても

理解できず、妻の活動に冷淡だったので、

結婚生活は不幸だった。エリーザベトは豊かな

音楽的才能に恵まれ、声は美しく、スケッチや絵の

才能もあり、文学の才能もあった。

また宗教問題については啓蒙思想に立つ合理主義へ、友情と融和を求める気持ちでは、感情過多の感傷主義へと、両者の間を揺れ動いていた。

その内に恋に落ちたホルシュタイン=ベック公

フリードリヒ・カールが、彼女と結婚するために、

妻と離婚しようとするが、彼には妻がおり、

また自分にも夫がおり、そして夫への義務感から、彼との結婚を断念した。当時の多くの女性達のように、彼女の場合も、不幸な結婚が才能の開花を促す事となった。エリーザベトはケーニヒスベルクで

アマチュア演奏会、主としてオペラやオラトリオに、

独唱者として度々出演した。

1873年に知り合った、当時若い大学生だった

フリードリヒ・ゲンツは、エリーザベトに共鳴する。

エリーザベトはゲンツに好影響を与えたらしく、

二人の文通は八年間続いた。

しかし、その後ゲンツの人生が進展していく内に、

疎遠になっていった。

芸術や文学に関心が高かったエリーザベトは、

ケーニヒスベルクで一目置かれる存在となった。

彼女の屋敷では、1788年頃から楽しい集いが開かれ、すでにそれはサロンと呼べるものだった。

音楽が中心の教養市民サロンで、ケーニヒスベルクの芸術と知性を代表する重要人物達が集まった。エリーザベトが自分のサロンで音楽の振興に

非常に重きを置いていたのは確かだが、彼女の

サロンでも会話も活発に交わされたし、朗読も

行われた。サロンの客には、著名な音楽家ベンダ、

カステリエリ、リーギニ、若い大学生だったホフマンがいる。エリーザベトは、作曲家ヨーハン・フリードリヒ・ライヒャルや、法律家で作家のケーニヒスベルク市長テオドア・ゴットリープ・ヒッペルと非常に

親しかった。エリーザベトには学者の知り合いも多く、例えば哲学者ヨーハン・ゲオルク・ハーマン、

イマヌエル・カントがいる。

カントはエリーザベトのサロンの常連で、

一緒に芸術の問題について語り合うのを何よりも

楽しんでいた。

サロンを開いた時、エリーザベトは母親と二人の子供と、ケーニヒスベルクで暮らしていた。

法律顧問官であった夫グラウンはベルリンの最高

法院に招聘されており、妻や子供達はベルリンに

ついてくる必要はないと考えていた。

数年後、夫はようやく家族をベルリンヘ呼ぶ決心を

した。しかし、ベルリンで暮らし始めて間もなく、

エリーザベトは夫とこれ以上一緒に暮らせないと

気がついた。夫は年と共にますます短気になり、

ますます暴君になってしまっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

その後、ついにエリーザベトは、最初の夫のグラウンとは離婚。 しかし、開いていたサロンは離婚、

次の夫シュテーゲマンと再婚後も、続けられた。

エリーザベトは、1796年に、長年に渡る誠実な

崇拝者であり、法律家で詩人であり、後に財政顧問官となったフリードリヒ・アウグスト・シュテーゲマンと再婚する。 今度の夫シュテーゲマンはエリーザベトが持つ芸術への関心を分かち合う事ができ、

二人は非常に円満な結婚生活を送った。

エリーザベトがケーニヒスベルクで作っていた

サロンの末期には、新たにハインリヒ・フォン・クライストが客として加わった。彼はエリーザベトに

対して賞賛の念を抱き、後に彼女のサロンがベルリンへと移ってからも、そのサロンを訪れる事を、

喜びとした。 

再婚後、娘のヘートヴィヒ・オルファースを

出産。1806年の夫の赴任に伴い、

一家はベルリンへと移る。

しかし、この後イェーナ・アウエルシュテットの戦いが起こり、プロイセンはフランスに大敗。

国王一家と宮廷人達は、東プロイセンのケーニヒスベルクに亡命。ベルリンは、フランス軍占領下に

置かれた。この時、シュテーゲマン一家も、

同行した。

 

 

 

 

 

 

 

ここで彼らは、親しい関係にあった

ラジヴィウ侯爵夫妻と、シュテーゲマン一家の

婚戚に当たるシュヴィンク家(ケーニヒスベルクの名望ある商人の一族)を中心に、プロイセン国王一家も交え、重要な文学的、音楽的サークルが形成された。このサークルの一員には、スウェーデンの外交官でヘンリエッテ・ヘルツやラーエル・ファルンハーゲンなど、他の多くの著名なサロニエール達のサロンにも顔を出していた、カール・グスタフ・ブリンクマン、ルイ・フェルディナント王子の弟アウグスト・フォン・プロイセン、時にハルデンベルクの

協力者であった歴史家ヴィルヘルム・ドーロー

並びにアヒム・フォン・アルニムに楽長ライヒャルト

などがいた。ドーローは、エリーザベト・シュテーゲマンの当時もう結婚していた、前夫との娘の

アントワネット・フォン・コルフが歌を歌った家庭音楽会の様子について書いている。それによると、

彼女は母親譲りの美しい声をしており、歌う時にはしばしばラジヴィウ侯爵家に、ピアノの伴奏をしてもらっていたという。

このケーニヒスベルクのサロンは、当然1807年の

戦争で、何度も妨げられ、ついにロシアと連合して

再びフランスと戦うが、アイラウの戦いでも敗れたプロイセンは、国王や宮廷人達が揃って、更に

北方のメーメルにまで逃れざるを得なくなった。

また後に、ケーニヒスベルクに再び戻り、

再開された社交の集いにおいて、人々は不安な

思いで政治的出来事を見守っていた。

しかし、このような非日常的事態により、

狭い空間の中で物理的に距離が近くなった事から、王族貴族そして市民階層の官吏達の、

社会階層間の距離がなくなり、心理的距離も

近づき、王族貴族そして市民階層の官吏の妻達が、偏見を持たず、全く平等に交際する事と

なった。そして、身分の差もなく、一緒に遊び

プロイセン王家及びラジヴィウ侯爵家シュテーゲマン家の幼い子供達が無邪気に遊ぶ姿には、

大人達も慰められる事が多かった。

また、この時エリーザベト・フォン・シュテーゲマンが、 幼い娘のヘートヴィヒを連れて散歩していた時、 途中で王妃ルイーゼに出会い、彼女に向かって ヘートヴィヒが花束を差出そうと駆け寄るという、

思いがけない出来事が起こった。

エリーザベトは娘を止めようとしたが、

王妃はただ笑っただけだった。

 

 

 

 

 

 

やがて、不安と苦労の多い、ケーニヒスベルク

での亡命生活が終わり、1809年の12月には、

国民達の歓呼の中、国王一家は帰還した。

そして、エリーザベト・フォン・シュテーゲマン一家も、 他の人々と共にベルリンに帰還し、

1810年頃から、イェーガー通りの王立銀行内の

官邸で「金曜日」というサロンを、開き始める。

1815年以降において、作家で歴史家のヴィルヘルム・ドーローは特にエリーザベト・フォン・シュテーゲマンのサロンの意義を称揚した。

著名な外国人や当地の人々が喜んでこのサロンを

訪問し、枢密顧問官夫人エリーザベト・フォン・シュテーゲマンとその娘で非常に音楽に秀でたアントワネット・ホルンとの交際で殊の外楽しい精神と心の満足を見出したという。

ハインリヒ・フォン・クライストの友人で数十年の

長きに渡り、ベルリンサロンの重要な常連客で

あったエルンスト・フォン・プフーエル将軍は、

ここにも出入りしていた。

更に詩人で作家のヴィルヘルム・ミュラーやカール・マリア・フォン・ヴェバーのオペラ「オイリアンテ」の台本を書いたヘルミーナ・フォン・シェジ、カルシンもこのサロンの客であった。

また、しはしば、これも当時の有名なサロニエールであったアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒや、

ヘンリエッテ・フォン・クレヤン、そしてラーエル・ファルンハーゲンとその夫のカール・アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼも、客として訪れていた。ここでは様々なテーマについて語られたり、時々

カード遊びがされたり、音楽が演奏されたりした。

特にこのサロンで好まれたのは、

1811年に発表した、「ウンディーネ」で非常に有名になった、フーケーの作品であった。

プロイセンの高級官僚達の中からも、

学制改革者ジューヴァンやニコロヴィスなどの

代表的な人々が、エリーザベト・フォン・シュテーゲマンのサロンに出入りしていた。

フンボルト夫妻も、ベルリンにいる間は姿を見せた。また官房官僚達の定期的な「集まり」もシュテーゲマン家で行われた。

このサロンでは市民的ないし教養市民的なレベル

で事が進められていた。

シュテーゲマン家でのサロンでは、

政治的話題よりも、別の目下の話題、例えば心霊信仰や動物磁器説に基づく治療法などについて、

多く語られた。この後期ロマン派の時代のベルリンでは、精神的現象、例えばメスメル派の磁器療法や、霊媒のような事への関心が高まっていたのである。

アヒム・フォン・アルニムと妻のベッティーネ並びに

兄のクレメンス・ブレンターノは、シュテーゲマン家の常連客だった。

このフォン・アルニム一家とフォン・シュテーゲマン一家は、以後三代に渡る親密な交際が続いた。

なお、このエリーザベト・シュテーゲマン家の

サロンには、プロイセンの改革官僚で

プロイセン復興の功労者の一人であった、

グナイゼナウも出入りしており、彼はエリーザベトの娘のヘートヴィヒ・フォン・シュテーゲマンや

その友人達が控えの間で行っている罰金遊びに

参加するのが大好きだったという。

1814年、1815年以降の数年間、エリーザベト・フォン・シュテーゲマン家のサロンは、

特に音楽サロンの性格を際立たせていた。

多くの音楽サロン同様に、この屋敷の音楽の夕べはプロの音楽家と素人の和気あいあいの共同作業が特徴的であった。芸術家は客となり、

素人の技量はプロの音楽家の存在により励まされ、認められる事にもなった。

1814年に、ヴァイオリン奏者ピエール・ローデは

シュテーゲマン家で、枢密顧問官ヨルダンと他の

二人と四重奏曲を演奏した。これは聴衆にとっては、当時ヴァイオリン奏者だけではもはや公開コンサートが開かれない時代であったゆえに、

大いに喜ばしかった。

 

 

 

 

 

 

1820年代後半に、エリーザベト・フォン・シュテーゲマンの健康状態が非常に悪くなり、

屋敷の集いからは引きこもるようになった。

時々この女主人である母の代わりを務めていたのは、すでに外交官イグナーツ・フォン・オルファースと結婚していた、娘のヘートヴィヒだった。

すでにヘートヴィヒは、1815年から母親のサロンに出入りしており、またこうしてサロンの女主人の

代役を努める事により、サロン客となる人々との

人間関係など、後年の彼女が主催する

オルファース家のサロンの基本が、もうできあが

っていたのである。

 

 

 

1835年の7月11日に、エリーザベト・フォン・シュテーゲマンは死去。享年74歳。