特にルイーゼは、氷のような寒さを感じていた。
ルイーゼは5人の子供達の顔を見やると、
子供達の自慢を始めた。
まず長男のフリードリヒについては
「フリッツは美しい希望を私に与えてくれます、彼はとても良い心を持っています、
彼は才気に富み、旺盛な知的好奇心を持っています。国王として必要な全ての力を持ち合わせています。」と記している。
ヴィルヘルムについては「利口で全く病気にもかからず、丈夫です。」
シャルロッテについては「彼女は黄金です、とても良い子です。優しくて陽気です。」
カールについては「フリッツと性質が似ています。」
最後にアレクサンドリーナについては
「穏やかで素直です。」と書いている。
ルイーゼはこの時、6人目の子供を妊娠していたのだった。
ルイーゼの友人カロリーネ・フォン・ベルクも、
王妃のこの妊娠を知り、大喜びしている。
プロイセン側の講和条件はほとんど認められなかったものの、テイルジットでの王妃の
この勇気ある交渉は、プロイセン国民の間で
の王妃に対する尊敬と愛情をますます高める事となった。
おそらく王妃ルイーゼは、ナポレオンに抑圧されるプロイセンの、象徴となっていたので
あろう。
さながら彼女はプロイセンを覆う雷雲の中に
光り輝く、星のような存在となっていたので
ある。
その頃プロイセンでは、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・カールとシュタインが
金融と経済の抜本的な改革に着手していた。
なお、この頃当時ベルリンにあったサロンは、みなフランスとの戦争によって、
常連客の多くがベルリンを去り、多くは
東プロイセンに滞在し、他の人々はあるいは戦死、あるいは戦犯となって捕らえられるという、サロン社会を四散させる事となり、ほとんどは姿を消していた。
かろうじて、元々ナポレオンを崇拝していた、クールラント公国の、クールラント
公妃ドロテア・フォン・クールラントや、やはりフランスとの繋がりか深く、
特に反フランスという訳ではなかった、
銀行家未亡人ザーラ・レーヴィなど、
フランスの占領に妥協する事ができた、
この二人のサロンが残っていただけだった。なお、クールラント公妃の娘ヴィルヘルミーネは、かつてルイ・フェルディナント王子との間に、結婚話が出ていたせいもあるのか、彼女の方は反ナポレオンであり、その点でメッテルニヒと協調していくようになっていく。このように、母娘でも
ナポレオンに対する姿勢は、大きく別れていた。しかし、この二人のサロンはベルリンにあり、このケーニヒスベルクで存在していたサロンは、ラジヴィウ侯爵夫妻と、枢密顧問官フリードリヒ・アウグスト・シュテーゲマンの妻エリーザべト・シュテーゲマン、そしてその婚戚に当たるシュヴィンク家(ケーニヒスベルクの名望ある商人の一族)などのものがあった。
そして当地では、彼らのサロンを中心に、
文学的・音楽的サークルが形成された。
彼女のサロンの常連客には、戦争前の有名なサロンの一つであった、ラーエル・ファルンハーゲンのサロンの常連客でもあった、スウェーデン外交官カール・グスタヴ・フォン・ブリンクマン、1806年のフランスとの戦いで戦死していた、ルイ・フェルディナント王子の弟の、アウグスト王子や、ハルデンベルクの協力者であった歴史家ヴィルヘルム・ドーロー並びにアヒム・フォン・アルニムと楽長ライヒャルトなどがいた。苦労と不安の多いケーニヒスベルクでの亡命生活中に、国王夫妻や宮廷の人々は、この亡命先で遊ぶ子供達の姿に、気を紛わされていたという。
時にはこんな出来事も、あった。
母の枢密顧問官夫人エリーザべト・シュテーゲマンと幼いヘートヴィヒが散歩の途中、王妃ルイーゼに出会った時、ヘートヴィヒが今摘んだばかりの花束を、王妃に向かって差し出そうと、駆け寄っていった。
エリーザべト・シュテーゲマンは、
娘を止めようとしたが、自身もかつて
おてんば娘だった王妃は、ただ笑っただけ
だった。当時のケーニヒスベルクで、
注目される事は、プロイセン崩壊後の非常
に例外的状況が、このように社会階層間の
距離を、なくしていた事が、注目される。元々、プロイセン国王夫妻は、
ブルジョワ的な生活をしており、
比較的国民達との距離も、近かったが、
このケーニヒスベルクでの亡命生活が、
更に各階層との距離、そして各階層間
相互の距離を近づける事になった。
諸侯、貴族、そして市民階層の官吏の妻達が偏見を持たず、全く平等に交際していた。子供も大人もケーニヒスベルクに
おける亡命の日々の中で、普通の時よりも、もっと緊密な接触をしていた。
その時の様子は、エリーザべト・シュテーゲマンの、当時のベルリンでハルデンベルクと共に必死でプロイセンの再建のために、政務に励んでいた、夫フリードリヒに宛てた次の手紙にも、よく表わされている。
「わたしの茶会は―とても楽しいものでした。大人たちは子供たちが(シュテーゲマン家とラジヴィウ家の子供たちならびに
プロイセン王家の小さな王子ならびに王女
たち)歓声あげると自分たちも子供に
かえっておりました。
その大人たちもすんでのところで、
「目の見えない牡牛」という遊びでは目隠しされそうになりました。
フォン・ゴルツ大臣閣下ご夫妻、シュレッター法務長官夫人とフォン・ベルク夫人たちはソファーの上に座っていられずに、
子供達と一緒にはねまわりました・・・・・・
ラジヴィウ侯爵は片足で飛び跳ねながら、
ハンカチ落としの遊びをやっていました。
侯爵は小さなエリーザを連れていましたが、ほんとに天使のようでした。」
この年月を体験したプロイセン国王一家の人々は、ベルリンに戻ってからも市民や
下級貴族とごく自然に交際していた。
1808年2月1日、ケーニヒスベルク宮殿で健康な女児が誕生した。
母親と同じく、ルイーゼという名が付けられた。
1808年の12月、プロイセンを占領していたフランス軍が、やっと撤退していった。
新たなスペインとの戦争のためである。
この月、サンクトペテルブルクのクリスマスの祝祭に、アレクサンドルからプロイセン国王夫妻はサンクトペテルブルクに招待された。
ルイーゼはアレクサンドルとの再会に、
心が弾んでいた。
1809年の1月7日、
国王夫妻はロシア皇帝アレクサンドルからの、
心のこもった歓迎を受けた。
サンクトペテルブルクの宮廷ではパレード、歓迎会、オペラ、晩餐会、コンサート、花火と、連日歓迎の行事が行なわれた。
アレクサンドルは温かく迎えてくれたものの、皇太后のゾフィー・ドロテー・アウグスタ・ルイザ・フォン・ヴュルテンベルク(ロシア名マリヤ・フョードロヴナ)と皇后エリザヴェータは、アレクサンドルのようにプロイセンに肩入れしておらず、特に皇太后は息子のこのような外交姿勢にかなり批判的だった。
しかし、数日後にバーデン公女である皇后の祖父とルイーゼの祖父が兄弟同士であり、
2人が親戚である事が判明した。
これを知った2人は喜び合い、
一気に皇太后と皇后の態度も温かくなった。
しかし、このサンクトペテルブルク滞在中の
ルイーゼの日記には、圧倒的に病気に関する
記述が目立つ。
「最後はベッドへ。」
「何だか死んでしまいそうな気がする、少ししか眠る事ができなかった、心臓の動機が激しい、歯痛がする。」
「全て病気の事ばかり。」
「今日もあまりよく眠れません、熱があるようです、歯痛がします、吐き気も。」
日記の記述にあるように、
ルイーゼはロシア滞在中、終始体調の不調に
悩まされ続け宮廷での各催しも、
心から楽しむ事ができなかった。
また、ルイーゼはアレクサンドルの態度にも
ショックを受けていた。
アレクサンドルは相変わらず好意的な態度を
示してはくれるものの、ルイーゼの目には
どうも以前より彼が冷たくなり、
自分よりマリヤ・ナルィシキナの方にばかり
注目しているように映った。
ルイーゼは、この数日間のサンクトペテルブルク滞在を通し、アレクサンドルの自分に対する態度の中に、情熱が失われた事を悟ったのである。
1809年の10月4日、
プロイセン王妃は7番目の子供アルブレヒト
を出産した。そしてこの10日後に、
ナポレオンからの,プロイセン国王一家の
ベルリン帰還を許すという長いメッセージが
届けられた。
1809年の12月15日、
ナポレオンのベルリン進軍以来、
各地を転々とする事を余儀なくされていた
国王一家は、ようやく2年振りに
ベルリンに帰還する事ができた。
その場に居合わせた、当時は学生だった
若き詩人アイヒェンドルフは国王一家帰還の
様子についてこう描写している。
「国王一家の帰還を祝い、ベルリン中の
鐘という鐘が鳴り響いていた。女性達はお互いに目配せして、家の窓から彼らの帰還を歓迎した。間もなく馬に乗り、簡素な軍服にチャコ(筒型軍帽)姿の国王、そしてその後ろに王子達が続いた・・・・・・。」
国王達のベルリン帰還を耳にした友人達は、
喜びを表わした。
ルイーゼの様子については、作家のエルンスト・モーリッツ・アルントは、こんな情景を
目撃している。
「家々の窓から人々は、王妃の帰還を歓迎する気持ちを表わしていた。それに応える王妃は
涙で眼を赤くし、その顔にはこれまでの苦悩の跡が刻まれていた。」
ルイーゼの友人である、若いフリードリヒ・フォン・クライストは、喜びと歓迎の気持ちを
『プロイセン王妃に捧げる』という詩で
表現している。
市民達に大歓声で迎えられた国王達だが、
プロイセンの置かれた状況は厳しかった。
これまでの戦争で大きな損害を蒙った上に、
フランスから莫大な賠償金の支払いを課されていたからだ。
賠償金支払いのため、シュタインは王家にも
経費削減を求め、フリードリヒ大王の黄金の
高価な食器、ルイーゼのダイヤモンドやアレクサンドルから贈られた化粧道具、その他のプロイセン王家伝来の家宝なども、売り払わなくてはならなかった。
結果的にほとんど失敗に終わった会談後に
締結されたこのティルジット条約の内容は、
会談後にルイーゼが弟ゲオルクへの手紙の中で、ティルジットでの会談後のナポレオンの
対応を激しく非難している通り、
プロイセンにとって非常に屈辱的かつ過酷な
内容であった。
結局せめてマクデブルクとシュレージエン、ヴェストファーレンだけでもプロイセンに
残して欲しいというルイーゼの懇願は、
ほとんど聞き届けられなかった。
マクデブルクとヴェストファーレンは、「ヴェストファーレン王国」として、
ナポレオンの弟のジェローム・ボナパルトに
与えられた。
まず、プロイセンの兵力を4万2000人にまで削減され、1億2千万フランの大金を
賠償金として課され、エルベ以西(この地帯は
マクデブルクやヴェストファーレンと共に
ヴェストファーレン王国として併合され、
ナポレオンの弟ジェロームに与えられる。)
と以前のオーストリア・ロシア・プロイセン間で行なわれた、第二次・第三次ポーランド分割で得た領土全てを放棄する事。(この領土は、ザクセンの王族であるフリードリヒ・アウグスト一世が統治者に据えられ、ナポレオンの傀儡国家のワルシャワ大公国とされた。
ナポレオン軍の元帥の中には、
ポーランド国王スタニスワフ・ポニャトフスキの甥の、ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ侯爵がいた。)
ポンメルン、ブランデンブルク、旧プロイセン、シュレージエンの4州のみとなった。