ルイーゼは安全の為に逃れていたヴァイマルで、この敗戦による破局の報告を聞いたが、

やや平静さを取り戻していた。

 「国王の大軍は壊滅しました。

とにかく今は、人々は休息する義務があります!」

 そうしている内にも、10月17日に

ナポレオンの軍隊が、ベルリンに向けて

進軍してきていた。

 ルイーゼの侍医フーフェランドは、

帰還したルイーゼの様子についてこう証言している。

「王妃の眼は泣いて赤く腫れ上がり、

髪の毛も乱れて何本かは抜け落ちてしまっていた。今回の度重なる敗戦で、大変に意気消沈しているようだった。」

「全てが失われてしまいました!!

私は私の子供達にも会いたくないし、

もう戦場にも同行したくありません!!」

 フランス軍の雷鳴のように轟く大砲の音が、

ブランデンブルク凱旋門の方角にまで

聞こえてくる頃、ベルリン宮廷の人々は

フランス軍の略奪を恐れ、財産を運び出し始めた。

 国王一家と廷臣達は話し合いの末、

宮廷と政府を東プロイセンの別の場所に

移し、ナポレオンに抵抗し続ける方針が決定された。

 ルイーゼ達は、ナポレオンへの抵抗を続けながら、東プロイセンの各地を転々としなければいけなくなった。

10月23日に、ナポレオンがベルリンに入場した後、戦争の公報に憎しみに満ちた戯画を描かせて、ルイーゼを侮辱した。

「戦いに飢えたアマゾネス」・「プロイセンに

取り返しのつかない災いをもたらしたトロイのヘレネ」などと書いたのである。

そして、ナポレオンはフランスの全新聞や雑誌に、王妃ルイーゼを標的とした、中傷的なプロバガンダを展開した。

イェーナ、アウエルシュテットの戦争の勃発の原因を、ルイーゼの責任として書かせた。

ルイーゼ王妃個人が、この戦争を煽動したとして書いたのである。

またナポレオンはシャルロッテンブルク宮殿から、ベルリンに設置させた電信機を使い、

同様の内容を今度はプロイセン国民に向けて

発信させた。

 

 

そしてナポレオンは、ルイーゼ非難のプロバガンダの内容を、ルイーゼ本人とアレクサンドルにも知らせた。

 この侮辱に怒ったルイーゼは「卑劣で何て

無礼なボナパルト」という言葉を残している。

 

フランス軍がベルリンを占領し、

11月21日に、この場所から「大陸封鎖令」が発令された。

 逃亡先の宿舎で、ルイーゼはこの時の苦悩と悲しみの気持ちを、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」中に使用されている

以下の詩に託した。

「パンを涙と共に食べた事のない者、長い悲しみに満ちた夜の間、泣きながら寝台に座っていた事のない者は、天上の力よ、汝らを知らない。」

この詩をルイーゼは、宿舎の窓に書いた。

 

 

 その内にルイーゼはナポレオンについて

「何て卑劣な男!!」などの、罵倒をし始めるようになった。

 この頃アレクサンドルとルイーゼの手紙の

間には、以前のような親密な調子の数々の

やり取りが再び見られるようになった。

 

 

 逃亡生活を余儀なくされたルイーゼだが、

更に悪い事は重なり、10月の間に

息子の5歳のカールと娘の3歳の

アレクサンドリーナがチフスにかかってしまった。

 チフスはすでに、2歳になろうとしていた

ルイーゼの幼い息子フェルディナントの命を

奪っていた。

 ルイーゼは今後のナポレオンへの抵抗と、

子供の病気という2つの不安に悩まされる事になった。

 そんな時に、ルイーゼの憎らしい敵ナポレオンから、有り難くないプレゼントが届けられた。

「世の人々は、これまでのフランスに対する

プロイセンの戦争は、全てルイーゼ王妃が主導したものだという事を知っている、

彼女の存在自体が、これまでのプロイセンへの

全ての災いをもたらしている、そしてプロイセン国民はそれに耐え忍んでいる。」

10月27日に出された、ナポレオンの警告

だった。

 

ナポレオンは、政治に口を出す女性を嫌って

おり、そのためルイーゼの事も否定的に見ていたのだった。 彼はこのような個人的なルイーゼに対する悪感情と政治的意図から、

フランスの新聞やベルリンの電信機を使い、

ルイーゼ王妃個人を標的とした、

大々的なプロバガンダを行なったのである。

 

 ナポレオンのメッセージを聞いたプロイセン国民は激怒し、憎くて意地の悪いナポレオンが、プロイセン国民から慕われている王妃に

対し、ある事ない事を言い触らしていると

憤慨した。

 そしてこの事が、ますます国民達を

ルイーゼ王妃に傾倒させ、彼女の事を

ナポレオンによってこのようないわれなき非難

を受ける罪のないプロイセンの殉教者、

そして不屈の愛国者としての存在にしていった。

 

 

 1806年の12月、

 喜ばしい事に、子供達の病気は回復していた。

 そして23日のクリスマス・イブに、

国王一家が集まった。

 国王フリードリヒ・ヴィルヘルムと

ルイーゼ一家の他には、

妹夫妻のソルムス=ブラウンフェルス公と

妻のフリーデリーケ、 ラジヴィウ侯爵アントン・ハインリヒ・フォン・ラジヴィウと

妻のルイーゼ・フリーデリーケ・フォン・ラジヴィウに、彼らの3歳の子供達、

そしてフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の弟

フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・プロイセン王子とその妻のマリアンネ・フォン・プロイセン夫妻の顔ぶれがあった。

 その後ナポレオンがケーニヒスベルクに

進軍を始め、国王一家は急いで避難していった。

 子供達がチフスから回復した矢先、

今度はルイーゼの方がチフスにかかってしまった。しかも、ケーニヒスベルク宮殿から

メーメルに向かう途中、寒さと吹雪に行く手を阻まれ、乗用馬車は難渋した。

 侍医のフーフェランドはルイーゼの

病状がかなり悪いのを見て取り、

心配した。その後、なんとか一行はメーメル

に到着した。

 メーメルに辿りついたものの、

ルイーゼにとって恐ろしい数週間が続き、

彼女は依然として重い症状に苦しめられた。

 

  1807年2月8日、ナポレオンとアレクサンドルとの間でアイラウの戦いが起こった。

 勝敗ははっきりとしない結果に終わった。

1807年の王妃ルイーゼのメーメルからケーニヒスベルクへの逃亡(パウル・キッテル1896年)
1807年の王妃ルイーゼのメーメルからケーニヒスベルクへの逃亡(パウル・キッテル1896年)