ルイーゼは安全の為に逃れていたヴァイマルで、この敗戦による破局の報告を聞いたが、
ルイーゼの侍医フーフェランドは、
帰還したルイーゼの様子についてこう証言している。
「王妃の眼は泣いて赤く腫れ上がり、
髪の毛も乱れて何本かは抜け落ちてしまっていた。今回の度重なる敗戦で、大変に意気消沈しているようだった。」
「全てが失われてしまいました!!
私は私の子供達にも会いたくないし、
もう戦場にも同行したくありません!!」
フランス軍の雷鳴のように轟く大砲の音が、
ブランデンブルク凱旋門の方角にまで
聞こえてくる頃、ベルリン宮廷の人々は
フランス軍の略奪を恐れ、財産を運び出し始めた。
国王一家と廷臣達は話し合いの末、
宮廷と政府を東プロイセンの別の場所に
移し、ナポレオンに抵抗し続ける方針が決定された。
ルイーゼ達は、ナポレオンへの抵抗を続けながら、東プロイセンの各地を転々としなければいけなくなった。
10月23日に、ナポレオンがベルリンに入場した後、戦争の公報に憎しみに満ちた戯画を描かせて、ルイーゼを侮辱した。
「戦いに飢えたアマゾネス」・「プロイセンに
取り返しのつかない災いをもたらしたトロイのヘレネ」などと書いたのである。
そして、ナポレオンはフランスの全新聞や雑誌に、王妃ルイーゼを標的とした、中傷的なプロバガンダを展開した。
イェーナ、アウエルシュテットの戦争の勃発の原因を、ルイーゼの責任として書かせた。
ルイーゼ王妃個人が、この戦争を煽動したとして書いたのである。
またナポレオンはシャルロッテンブルク宮殿から、ベルリンに設置させた電信機を使い、
同様の内容を今度はプロイセン国民に向けて
発信させた。
そしてナポレオンは、ルイーゼ非難のプロバガンダの内容を、ルイーゼ本人とアレクサンドルにも知らせた。
この侮辱に怒ったルイーゼは「卑劣で何て
無礼なボナパルト」という言葉を残している。
フランス軍がベルリンを占領し、
11月21日に、この場所から「大陸封鎖令」が発令された。
逃亡先の宿舎で、ルイーゼはこの時の苦悩と悲しみの気持ちを、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」中に使用されている
以下の詩に託した。
「パンを涙と共に食べた事のない者、長い悲しみに満ちた夜の間、泣きながら寝台に座っていた事のない者は、天上の力よ、汝らを知らない。」
この詩をルイーゼは、宿舎の窓に書いた。
その内にルイーゼはナポレオンについて
「何て卑劣な男!!」などの、罵倒をし始めるようになった。
この頃アレクサンドルとルイーゼの手紙の
間には、以前のような親密な調子の数々の
やり取りが再び見られるようになった。
逃亡生活を余儀なくされたルイーゼだが、
更に悪い事は重なり、10月の間に
息子の5歳のカールと娘の3歳の
アレクサンドリーナがチフスにかかってしまった。
チフスはすでに、2歳になろうとしていた
ルイーゼの幼い息子フェルディナントの命を
奪っていた。
ルイーゼは今後のナポレオンへの抵抗と、
子供の病気という2つの不安に悩まされる事になった。
そんな時に、ルイーゼの憎らしい敵ナポレオンから、有り難くないプレゼントが届けられた。
「世の人々は、これまでのフランスに対する
プロイセンの戦争は、全てルイーゼ王妃が主導したものだという事を知っている、
彼女の存在自体が、これまでのプロイセンへの
全ての災いをもたらしている、そしてプロイセン国民はそれに耐え忍んでいる。」
10月27日に出された、ナポレオンの警告
だった。
ナポレオンは、政治に口を出す女性を嫌って
おり、そのためルイーゼの事も否定的に見ていたのだった。 彼はこのような個人的なルイーゼに対する悪感情と政治的意図から、
フランスの新聞やベルリンの電信機を使い、
ルイーゼ王妃個人を標的とした、
大々的なプロバガンダを行なったのである。
ナポレオンのメッセージを聞いたプロイセン国民は激怒し、憎くて意地の悪いナポレオンが、プロイセン国民から慕われている王妃に
対し、ある事ない事を言い触らしていると
憤慨した。
そしてこの事が、ますます国民達を
ルイーゼ王妃に傾倒させ、彼女の事を
ナポレオンによってこのようないわれなき非難
を受ける罪のないプロイセンの殉教者、
そして不屈の愛国者としての存在にしていった。
1806年の12月、
喜ばしい事に、子供達の病気は回復していた。
そして23日のクリスマス・イブに、
国王一家が集まった。
国王フリードリヒ・ヴィルヘルムと
ルイーゼ一家の他には、
妹夫妻のソルムス=ブラウンフェルス公と
妻のフリーデリーケ、 ラジヴィウ侯爵アントン・ハインリヒ・フォン・ラジヴィウと
妻のルイーゼ・フリーデリーケ・フォン・ラジヴィウに、彼らの3歳の子供達、
そしてフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の弟
フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・プロイセン王子とその妻のマリアンネ・フォン・プロイセン夫妻の顔ぶれがあった。
今度はルイーゼの方がチフスにかかってしまった。しかも、ケーニヒスベルク宮殿から
メーメルに向かう途中、寒さと吹雪に行く手を阻まれ、乗用馬車は難渋した。