思います、おどけていて機知に富んでいます、フリッツは全体的に元気な子です、
ポツダム宮殿やシャルロッテンブルク宮殿の庭園、1797年に王太子夫妻のために
建造されたパレツ宮殿、そしてプファウエンインゼル(孔雀島)で一家は夏を過ごしていた。
またこの年の夏には、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ルイーゼ、子供達のフリードリヒ・ヴィルヘルム、ヴィルヘルム、シャルロッテ、
カール、アレクサンドリーナの国王一家に、
マリアンネ・フォン・プロイセン、
国王の兄弟のハインリヒやヴィルヘルム達と
シャルロッテンブルク宮殿の庭園で過ごしている。
それまでプロイセンは、政治的にフランスに対して中立的な態度を示していたが、
その政策に打撃を与える政治的局面がやって来た。
1803年の7月5日、
ナポレオンは「エルベの慣例」
という条項を持ち出し、モルティエ元帥率いる
3万人のフランス軍が当時イギリス国王ジョージ三世の支配下にあったハノーファー選帝侯国を占領、フランスの領土化してしまった。
そしてその知事には、ナポレオンの部下で
あるベルナドット元帥が据えられた。
これは明らかに不法なナポレオンの軍事行動であった。
この領土はルイーゼの父メクレンブルク公爵カールが州知事となっており、
ジョージ一世の時から、代々のイギリス国王を輩出している場所でもあった。
今回のハノーファーのフランス軍占領は、
プロイセンの中立政治に大きな打撃を
与える事となった。
またルイーゼにとっても、この領地は父が治めている場所であり、生まれ育った所でもあり、
今回のフランス軍によるハノーファー占領は、
悲しみと許し難い思いを抱かせるものだった。
経済的損失を蒙ったのはまちがいない。
だが、このような事態に陥っても、
国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは
優柔不断な態度を示していた。
だが結局はこのフランスのハノーファー占領が、その後のプロイセンの中立政治の政策方針の転換を促す主要因となっていく。
1804年の4月、ルイーゼは弟のゲオルクに宛てた手紙の中で、義弟のヴィルヘルムと
18歳のマリアンネ・ヘッセン=ホーンブルク
の結婚式の祭典に出席した事を書いている。
そしてこの期間にサンクトペテルブルクで、
アンナ大公妃にも会っている。
彼女はザクセン=コーブルク公女で、
アレクサンドル一世の弟のコンスタンチン
大公の妻だった。
しかし彼女にとっては、これは不幸な結婚
だった。
結局、この夫妻は1820年に離婚した。
更にルイーゼは才女として、
そしてナポレオンの敵対者としても有名な、
ドイツ方面を訪れたスタール夫人とも会っている。
スタール夫人は、この時のドイツ滞在を
題材にして『ドイツ論』という紀行文を書いている。
ルイーゼに会ったスタール夫人は、
彼女の事を大変興味深い女性であり、
当時のヨーロッパの中で最も美しい王妃だと
後に書いている。
特にこの時期から、ルイーゼは政治的に
積極的な役割を果たしていく。
ルイーゼはポツダムから、父に宛てた手紙の中でこう書いている。
「私は新たに重要な願いと希望を抱いています。それはイギリスとの同盟です。」
当時の一時期ルイーゼの弟のゲオルクと
、ルイーゼの叔母であり、イギリス王妃になっていたゾフィー・シャルロッテ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツの娘達のマリー、あるいはソフィアかアマリエ王女との間に
結婚話が持ち上がった事があったのである。
ルイーゼと父親は、手紙の二行目の中で
イギリスとの同盟結成に関して意見の一致を見た。しかし、両者の間には多少意見の対立も
発生していた。
この頃ルイーゼと会っているドイツ・ロマン派の作家ティークは、ルイーゼ王妃は古代ゲルマン人のケルスキ族長息子で英雄アルミニウスの妻トゥースネルダにも匹敵すると言っている。
帝国騎士の家柄出身で帝国男爵であり、 改革官僚・国務大臣のシュタインは、 国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世に ついてこう観察している。 「不活発で威厳に欠ける、そして偉大な信念に欠けている。」 ルイーゼに関しては「王妃はとても親切な方である、そしてその振る舞いも好ましい。」 しかし彼はこう付け加えてもいる。 「母親としてだらしない所があり、 母としての義務感に欠けている面が見られる。」シュタインの言葉の中には、 彼ら国王夫妻の特徴について、 一片の真実が含まれている。
1804年の12月にノートルダム大聖堂で
、1802年に終身執政官になっていた
ナポレオンが、フランス皇帝ナポレオン一世として即位した。
1805年の8月9日に、
オーストリア、イギリス、ロシア間で
「第三次対仏同盟」が結成された。
フランスは1805年の10月3日に、
ナポレオンがドイツ南部のアンスバハに
フランスの軍隊を侵入させるという、
再び条約違反の行動に出た。
この領土は以前からホーエンツォレルン家の
管轄にある場所だった。
また、アンスバハはルイーゼの妹のフリーデリーケが嫁いでいた国でもあった。
それまでルイーゼは夫の補佐的役割はしていたものの、基本的には政治に関する決定にも
口を挟むような事はなかった。
ルイーゼは今回のこのフランス軍のアンスバハ侵入を、ナポレオンがプロイセンの領土を