1805年の10月3日に、突如ナポレオンが、フランス軍にアンスバハを侵攻させ、そしてフランス軍はそのままアンスバハを占領してしまったのである。
フリーデリーケ達一家は、ひとまずベルリンに避難した。ナポレオンに占領された
アンスバハは、ホーエンツォレルン家の領土だった。当然、この明らかな条約違反のナポレオンの軍事行動に、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と、フリーデリーケの姉の王妃ルイーゼは、激怒した。
そして、プロイセンは1806年のシェーンブルン条約の時に、アンスバハをナポレオンに返還してもらおうとしたが、成功しなかった。これにより、フランスは、プロイセンの領土だったヌーシャテルとクレーフェ公国を、プロイセンはハノーファー選定候国を、
そしてバイエルンはアンスバハを獲得する事になった。そしてプロイセンは、この条約の中でイギリスと貿易を行わない事をフランスと約束した。すでに、ハノーファーは1803年にフランスに占領されていた。
こうしてフリーデリーケ達は、 自分達の国を失ってしまったのである。
一家は、この成り行きに衝撃を受け、今後に不安を抱いた。これ以降、フリーデリーケ達一家は、七年に渡る亡命生活を余儀なくされる。
ひとまず、フリーデリーケ達はフリーデリーケの姉の王妃ルイーゼのいるベルリンへと逃れた。1806年の10月9日には、プロイセンがフランスに宣戦布告。戦争が開始された。しかし、10月のイェーナ・アウエルシュテットの戦いで、プロイセンはフランスに大敗してしまうのである。
これでまた、フリーデリーケ達のアンスバハ
帰還は、遠のいてしまう事になった。
10月17日には、フランス軍がベルリンに
進軍し、ベルリンは占領されてしまう。
プロイセン国王一家や廷臣達は、
ベルリンが占領される前に、
東プロイセンのケーニヒスベルクに逃れ、
フリーデリーケ達一家も、同行した。
フリーデリーケは、この時妊娠していた。
そしてこのような混乱した情勢の中、
フリーデリーケは、1807年の3月12日に、次男のアレクサンダーを出産した。
しかし、48時間にも及ぶ、苦しい出産だった。子供の洗礼式が行なわれた二ヵ月後に、
姉の王妃ルイーゼによって、出産祝いが開かれ、五十人の客が出席した。
このように、厳しい状況の中、新しい生命の誕生は、暗い気持ちになりがちな人々の心を、明るくしてくれたのであった。
アレクサンダーの出産を、姉妹は共に大変に喜んだ。姉のルイーゼは、手紙の中で妹のフリーデリーケの出産を喜ぶ気持ちを表している。その内にフリーデリーケは、姉のルイーゼを通して、哲学者で教育者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトと知り合い、彼や他の客達と素晴しい時間を過ごした。
フリーデリーケのケーニヒスベルクのサロンには、後にプロイセンの復興のために諸改革を実行する人々の姿があった。
プロイセンの軍事顧問で著述家であった、ヨーハン・ゲオルク・シェフナーは、朝に王妃ルイーゼとフリーデリーケ姉妹の許を訪れ、彼らは何時間にも渡り、政治や哲学的なテーマについて議論した。
また、この時間から姉妹と彼との間に
長年に渡る友情が芽生えていった。
特に、フリーデリーケとシェフナーの間では、哲学的な疑問についての一致が見られた。
また、シュリーベン伯爵の邸には、以下のような国際的な客が訪れていた。
プロイセンのブリュッヒャー将軍、イギリスの外交官ハッチンソン卿、ロシアのニコラエヴィチとストロガノフ、ロシア皇帝アレクサンドルの秘密委員会のメンバーであった、パウル・チャルトリスキ、そして作家のアヒム・フォン・アーニムとマックス・フォン・セッケンドルフ、そして外科医のゲールケなど。
1807年の4月16日、2月のアイラウの戦いの後、ロシア皇帝アレクサンドル一世とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世との間で、別れの言葉が交わされ、 ロシアとプロイセンとの同盟が解消された。
またしても、ナポレオンに勝利する事ができなかったのであった。
この後、ルイーゼとフリーデリーケ姉妹は、
ケーニヒスベルクの野戦病院ヘ負傷した兵士達を見舞いに訪れた。
そして、兵士達のために寄付を募った。
姉妹は、ナポレオンに対する憎しみでも、強く結びついていた。
1807年の4月から、ルイーゼは、明らかにフリーデリーケの夫ソルムスの様子に異変が表れ始めたのを案じる、定期的な報告をしている。この頃、ソルムスは約二年前から故郷アンスバハがフランスに占領されてしまった心労と、頼みにしていたプロイセンの大敗、そしてロシアと共同で戦った、二ヶ月前のアイラウの戦いでさえ、ナポレオンに対する勝利を収められなかった事が原因か、彼は激しい悲嘆と苦悩を示し、心の病の症状を表し始めた。
しかも、彼の症状は、しだいにひどくなる一方であり、ルイーゼはこの事を心配する気持ちを、義妹のマリアンネ・フォン・プロイセン(マリアンネ・フォン・ヘッセン=ホーンブルク)に宛てた手紙の中でも書いている。
もちろん、一番夫のこの異変に、心を痛め、心配に思ったのは妻のフリーデリーケだった。ソルムスは、重い憂鬱状態に沈み込んだかと思うと、突如叫び声を上げたりする事も
あった。
フリーデリーケ一家は、8月から夫の療養と
気分転換を兼ねて、カールスバートとテプリッツへと旅行に出かけた。
一家は、この機会にエルツ山脈の谷間とボヘミアの低山地方を見て回る事にした。
旅行のかいあって、ソルムスは回復しつつあった。しかし、この旅行は多額の出費が代償として付いていた。
この旅行の間、一家は次の月にカールスバートの鉱泉地とボヘミアのテプリッツに宿泊する事にした。
ここ一帯は、夏の間に毎年ヨーロッパ中から
王族や貴族達が保養のために訪れる場所だった、ゲーテも十三年の間に、ここら一帯を訪れている。
この旅行の時、カールスバートでフリーデリーケは、偶然ゲーテと出会った。
この時ゲーテは、フリーデリーケについて
「美しくて賢い」と高い評価をしている。
また、 フリーデリーケは、この保養地の社交界で、ロシア皇帝アレクサンドル一世の従兄妹の、バグラチオン侯爵夫人エカテリーナ・パヴロヴナやクラリー=アドルリンゲン侯爵一家、オーストリアの外交官で最高指揮官の
カール・ヨーゼフ・デ・リーニュ侯爵、かつてルイ・フェルディナント王子と結婚の話が出ていた、ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガンなど、知己の人々と出会う事が
できた。ゲーテはリーニュ侯爵について「快活で機知に富んだ人物だ」という発見をしている。リーニュ侯爵は、以前にベルリンの宮廷を訪れた事があった。
フリーデリーケは、このようにカールスバートやテプリッツで、親しい人達との交際や家族と過ごす時間を楽しんでいた。
この頃、フリーデリーケは弟のゲオルクに
充ててこう書いている。
「この旅行で、私の友達と愛する子供達と共に、楽しい時間を過ごしています・・・・・・ヴィルヘルムは機知に富み、気高い心を持っています。アウグステは美しく、そして愛らしいです。アレクサンダーは、前途有望です。」
フリーデリーケ達が旅行している間、
1807年の7月6日に、プロイセン王妃
ルイーゼとフランス皇帝ナポレオンの間で、
戦争後の領土問題を巡り、ティルジットでの会談が行なわれた。
フランスとの交渉の役目として、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世では不適当と、プロイセン側で判断されたためである。王妃ルイーゼは、ナポレオンに向かって、せめてシュレージエン、ヴェストファーレン、マクデブルクだけでもプロイセンに残してくれないかと訴えた。
しかし、ルイーゼのこの要求は、ほとんど聞き入れられなかった。
結局プロイセンは、ヴェストファーレン、マクデブルク、アルトマルク、ハルバーシュタットとポーゼンを失ってしまう事となった。
そして、プロイセン国内には十五万人の
フランス軍が駐留する事になり、ナポレオンが課した、多額の賠償金の支払いが済むまで撤退しない事が決定された。
このように、領土の半分を失ない、更に多額の賠償金と、その支払いが済むまで国内の十五万人のフランス軍の駐留を認めさせられるという、屈辱的な講和条件を結ばされる事になった上に、更にルイーゼは、ナポレオンによる個人攻撃を受ける事になったのである。
ベルリン占領後、シャルロッテンブルク宮殿に入ったナポレオンは、ここからフランスの全新聞・雑誌などを使い、この中で王妃ルイーゼをフランスに対する戦争の扇動者として扱い、ルイーゼ個人を攻撃する内容の、プロバガンダを行なった。
また、ベルリンに設置させた電信機からも、今度はプロイセン国民に向けて、広範囲に同様の内容を発信させた。
ナポレオンは、王妃ルイーゼに対する個人的
嫌悪と政治的な意図から、このような大々的なプロパガンダを行ったのである。
ルイーゼは、ナポレオンの自分に対するこのような攻撃に対して、友人のカロリーネ・フォン・ベルクへの手紙の中で、その怒りと屈辱を、こう書いている。
「ボナパルトの卑劣さと侮辱には、吐き気がします。」
また、フリーデリーケも、姉ルイーゼに対するこの侮辱を、ルイーゼと共に耐え忍ばねばならなかった。