ソルムスの死から四ヵ月後、結婚の意志を固めていた、フリーデリーケとエルネスト・オーガストは、婚約した。
1815年の5月29日、フリーデリーケはエルネスト・オーガストと結婚した。
フリーデリーケ36歳、エルンスト・アウグスト43歳だった。
しかし、フリーデリーケにとっては父のメクレンブルク=シュトレーリッツ公爵カールの妹で、自分の叔母にも当る義母のイギリス王妃ゾフィー・シャルロッテ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツは、2人の結婚に大反対であり、お祝いの言葉さえも言わなかった。彼女は、男女間のモラルに厳しい性格で、フリーデリーケがもうすでに七人の子持ちである事や、息子エルネスト・オーガストとの結婚が三度目の結婚である事を快く思っていなかったのである。
このようなゾフィー・シャルロッテの態度も
あり、イギリスでのフリーデリーケの生活は、快適なものではなかった。
また、フリーデリーケがこのような経緯で
三度目の結婚をしている事を、あまり世間一般でもよく思われておらず、「今世紀の勇敢な雌ライオン」・「罪深い」・「淫らなフリーデリーケ」・「不道徳」などと批判した。
フリーデリーケがこの義母のゾフィー・シャルロッテと和解したのも、何年も経ってからの事となる。
フリーデリーケ夫妻は、結婚から4年後の1819年から数年間ベルリンに滞在したり、
その後また数年間、イギリスに滞在するという生活を、送るようになった。
夫妻はベルリンで1819年から1829年の、最長10年間を過ごしている。
彼らは最終的には、1833年から1837年まで、ベルリンに滞在する事になった。
なお、この前後の1817年には、フリーデリーケは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の弟で、最初の夫のフリードリヒ・ルートヴィヒ王子との間に生まれた、
長男のフリッツ・ルイの結婚式に、参加している。1819年から、懐かしいベルリンに戻ってきたフリーデリーケは、ベルリンで多くの懐かしい友人達と再会し、宮廷や故郷のノイトレーリッツで催された、仮面舞踏会などの様々な祝祭や社交の集いを楽しんだ。
1823年には、甥のプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと、バイエルン王女エリーザべト・ルドヴィカ・フォン・バイエルンの結婚式にも、出席している。
そしてフリーデリーケは一生を通して、文学と哲学的なテーマに興味を持ち続け、よく弟のゲオルクとこのような話題について、活発に意見を交換し合った。
特に、この頃ゲーテの作品について、議論が行なわれた。詩の含まれた戯曲「プロメテウス(「ゲーテ全集4 」潮出版社 収録)」や、戯曲「タウリスのイフィゲーニエ(「ゲーテ全集5」潮出版社収録)」・「ファウスト」についてなど。二人とも、ゲーテの愛読者だった。またフリーデリーケは、1819年の「ファウスト」初演にも、大きな関心を持っていた。
この頃、プロイセン王女で、ラジヴィウ侯爵夫人となっていたルイーゼ・フリーデリーケの夫で、文学や音楽に、深い関心を寄せ、実際に作曲家でもあった彼は「ファウスト」に、作曲した自分の曲を付けた。
そしてゲーテは、これを了承してくれた。
1816年の、フリーデリーケの甥のカール・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツの発案で、彼の曲で「ファウスト」をベルリンで上演する事が、企画された。
1819年の5月24日、ラジヴィウ侯爵の誕生日に、 モンビジュー宮殿でカールがメフィストに扮装し、登場した。
この宮殿で、この日素人とプロの俳優を交えて、ラジヴィウ侯爵の曲で、「ファウスト」が、上演される事になった。
もろちん、一連の事はゲーテの承諾を取りつけてあった。この事について、ゲーテの息子のアウグスト・フォン・ゲーテも、楽しそうに父親に手紙の中で触れている。
1810年に、病気のためカールスバートに来ていたフリーデリーケは、特に気に入っている作品の一つである、「プロメテウス」についての感想を、ゲーテに手紙で送っていた。このようなフリーデリケの崇拝に対してゲーテも、反応を示していた。
これまでゲーテは何度も、自分の本の小包や
手紙を、自分の作品の熱心な愛読者である、
フリーデリーケや、彼女の弟のゲオルクに
送っている。
フリーデリーケは、ゲオルクへの手紙の中で、ゲーテの事を、こう批評している。
「それは全く不思議な事ではありません、
そのこんなにも偉大な精神、私が普遍的な才能と名付けたいもの。」
このように、フリーデリーケはゲーテ個人と
彼の作品を、生涯に渡り、崇拝し続けた。
フリーデリーケが、特にゲーテの作品の中で
「ファウスト」を好んでいたのは、彼女とこの作品に、特別な関係があったからでもある。彼女と姉のルイーゼを、長年に渡って
苦しめ続けたナポレオンは、フリーデリーケにとって、メフィストフェレストに等しい存在であった。そして、グレートヒェンの場面も、そこには存在していた。
妊娠に喜ぶグレートヒェンは、1798年に初めての子供を妊娠して喜びに輝いていた、
フリーデリーケ自身の姿と、重なっていた。
その内にフリーデリーケの人生に、大きな転機が訪れる。 1837年の7月に、エルネスト・オーガストが ハノーファー国王として、即位する事になった。フリーデリーケは、かつて子供の頃、大勢の家族達と幸福に暮らしていた地ハノーファーに、再び住める事を喜んだ。しかも、今度はハノーファー王妃としてである。すでにエルネスト・オーガストとの間には、1819年の5月27日に、長男のジョージも生まれていた。
かつては「今世紀最大の雌ライオン」と呼ばれ、恋愛スキャンダルで浮名を流したフリーデリーケだが、今ではすっかり夫と子供を愛する、家庭的な良き妻、良き母となっていた。
エルネスト・オーガストとフリーデリーケ夫妻は、護衛兵に付き添われ、ハノーファーに到着した。
大砲の音と教会の鐘が響き渡る中、二人は、ヘルレンハウゼン宮殿に到着した。
そこには外務大臣に外交団、そして宮廷人と将校部隊全員が、集まっていた。
ハノーファーの至る所で、新国王夫妻の到着が祝われた。
7月30日には、射撃祭が催され、夕方から夜にかけては、夏の劇場で芝居が上演された。ハノーファー国王夫妻は、冬の間はライネ宮殿で過ごす事にした。
その反対にある宮殿は、かつてフリーデリーケが誕生した場所だった。
彼らは夏の間は、モンブリアン宮殿で過ごす事にした。ここは、木材建築の二階建ての宮殿だった。そして、その周囲はヘルレンハウゼン庭園に、囲まれていた。
ハノーファー国王夫妻は、このライネ宮殿で、レセプション、祝祭、オペラのガラ公演などを行なうようになった。
また、華麗な行進なども行なわれた。
そして当時の有名なソロ演奏者達の参加を
得て、数多くのコンサートも、行なわれた。また、二人の息子のジョージ王子自身も、自身で作曲を手がける事があった。
ライネ宮殿には、二つの宮廷劇場があり、
遺物の宝物と銀のコレクションの部屋も
あった。そして寄木張りと美しい象眼細工の床があった。そして中央ホールには、
36人が座る事ができる、大きなテーブルが置かれていた。ここは国王が、客達と歓談する時に、試用された。
その他にも各テーブルに、多くの蝋燭と
ランプがあった。そして、メッキではない無数の、純銀の鏡。
これら蝋燭やランプなどは、大規模な宮廷の祝祭の時の500人の来客に、
役に立った。そして、この人数は、時には700人から、800人の事もあった。 フリーデリケとエルネスト・オーガストは、
リヨン製の絹のタペストリー、フランス製の銅像を購入し、 そして ボザール様式とパリの古典様式の宮殿装飾を、採り入れた。
1837年に、ライネ宮殿の玄関の改築が
完成した。この改築の一部分には、フリーデリーケが、積極的に関わった。
彼女の提案で、「緑の家」というものが、
新たに作られる事になった。
玉座の間の改築も、始められた。
彼らは芸術家や建築家達と、話し合った。
王座の間の宝石の紋章のため、しばしば彼らの甥のプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムとも、書面で話し合った。
彼は文学や芸術に関心が深く、このようなデザインなどのセンスにも、優れていたからである。
フリーデリーケは、すでにベルリン滞在の
最後の年から、夫のエルネスト・オーガストと共に、気前の良い寄付を行なっていた。多くのハノーファーの市民も、王妃の援助を、求めていた。
そして彼女の、ハノーファー国民への援助は、まだ現在も残る、ハノーファー近郊にある町パッテンゼンの史料で、見る事ができる。その史料には、フリーデリーケのその援助について、こんな風に書かれている。「彼女の寛大な心と広げられた手。」
このフリーデリーケの、国民への援助の
一例というのは、このようなものだった。
パッテンゼンに住む、フリーデリーケの教師であり、牧師でもあったエベッケへの援助だった。彼の妻が病気になり、お金が必要になった。妻の病気が回復するまで、
毎年彼に100ターラーが支給された。
このように、フリーデリーケは、王妃としてハノーファー国民への、慈善を行なった。そして1838年には、2万4千人の
ハノーファー住民の住居を現代的に、改築する事に協力している。
この三度目の結婚で、フリーデリーケは、本当の幸福な結婚生活を、手に入れたのであった。 1841年の6月29日に、フリーデリーケは、63歳で死去した。