1807年の11月から、フリーデリーケ一家は、最終的にフリーデリーケの父の、メクレンブルク=シュトレーリッツ公爵カールの住む、ノイシュトレーリッツ宮殿に落ち着く事になった。

フリーデリーケと夫のソルムスは、カールに深く感謝した。

フリーデリーケには、プロイセン国家から、

一家五人の生活のために、年金が支払われる事になった。

カールは、一家のために宮殿を改築してくれた。フリーデリーケ達には、緑と赤の地図表に、 ダマスクの壁紙、高価な陶磁器と古いテーブル時計がある、広々とした部屋が与えられる事になった。

また、150人弱が使える大食堂を、一家が使用できる事になった。

また、部屋からは宮殿の庭園が見渡せた。

こうして、一家の新しい生活が始まった。

ただ、フリーデリーケの気がかりとして、突如夫のソルムスがナポレオンの事を「戦争の天才」などと言って、称賛し始めた事

である。ソルムスは、このようにナポレオンを認める事で、自分達が亡命しなければならなくなった境遇を、何とか受け入れようとしたのかもしれない。

フリーデリーケは、夫の態度の変化が気になったものの、二年後の1809年の3月10日から、ソルムスがブレスラウの第二槍騎兵隊の司令官に任命されたのである。

とりあえず、家族にとって明るい見通しだった。1809年の4月に、ソルムスが正式に連隊に入隊した。

 

 

 

ナポレオンのベルリン占領の後、ケーニヒスベルクに逃れていたプロイセン国王一家と廷臣達は、それから二年後の1809年の12月15日、ようやくナポレオンから

ベルリン帰還を許され、ベルリンに帰還した。フリーデリーケ達一家も、この時に一緒に帰還した。国王一家の帰還は、国民に歓迎された。しかし、依然としてプロイセンは領土の半分を失った上に、更に多額の賠償金の支払いが残ったままであり、国内には十五万人のフランス軍が駐留し続ける、占領状態に置かれており、プロイセンの置かれた状況は、厳しかった。

 

 

 

 

1810年の6月26日に、ルイーゼは久しぶりに父親のカールに会いに、ノイシュトレーリッツ宮殿を訪れた。

二日後に、宮殿に到着した。

久しぶりに、父カール、ルイーゼとフリーデリーケ姉妹、弟達のゲオルクとカール、祖母のゲオルク公爵夫人、そしてカロリーネ・フォン・ベルクと、親しい人達の楽しいおしゃべりが行なわれた。

その後、彼らは夏の離宮として使われていた、ホーエンツィーリッツ宮殿へと移動した。しかし、そこで突然ルイーゼに呼吸困難の症状が表れ始めた。

ルイーゼは、以前から病気がちになっていたのである。直ちにルイーゼは、ベッドに寝かされ、日中と夜、フリーデリーケが付き添った。その内に、カロリーネ・フォン・ベルクが交代した。

ルイーゼの異変の報せを受けとった国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と、息子達のフリードリヒ・ヴィルヘルムとヴィルヘルムは、19日の早朝に、ホーエンツィーリッツ宮殿に駆けつけた。

1810年の7月19日、ルイーゼは死去した。まだ34歳という若さだった。

王妃ルイーゼの死を、フリーデリーケ達

家族を始め、多くのプロイセン国民達が嘆き悲しんだ。

7月27日、ルイーゼの棺はベルリンに運ばれた、そしてその三日後の7月30日に、黒い色で覆われた馬に運ばれた棺は、ベルリン大聖堂に安置された。

その間、王妃ルイーゼの弔いのため、ベルリン中の教会の鐘が鳴り響いていた。

そしてこの数ヵ月後、シャルロッテンブルク

宮殿内に、王妃ルイーゼの霊廟が建設された。

 

 

フリーデリーケは、この愛する姉ルイーゼの

死という、深い悲しみについて、かつてケーニヒスベルクにいた時に、姉と共に交流があった、友人のシェフナーに手紙を書いている。「愛する良き友よ!!

私の心は、深く傷ついています、私の気持ちは今、とてつもなく動揺しています、私の幸せな幼年時代と私の子供時代は、死んでしまったのが見えます!!」

ルイーゼは、子供の頃から姉妹達の中でも、

フリーデリーケと大変に仲が良い姉であり、

フリーデリーケ達一家が、プロイセンに亡命

してきてからも、何かとサポートしてくれた

存在であった。

1808年頃から、ルイーゼは自分の死期が

近づきつつあるのを、予感していた。

そのため、家族への手紙の中でも、

そのような内容を書く事が多くなり、

彼らを心配させた。

ナポレオンとの戦争、そして多くの妊娠、

そして敗戦によって、現在プロイセンが蒙っている損害などに、ルイーゼの心身は非常に衰弱していた。

その内に、ルイーゼは信仰に救いを求めるようになっていく。

あのナポレオンでさえ、神の道具として選ばれたのだ、全ては神の摂理に従っているのだと、達観するようになっていく。

 

 

王妃ルイーゼの死去後、ナポレオンへのプロイセンの憎しみは強まり、1813年から「解放戦争」へと向けた動きが、開始される。フリーデリーケは、1813年の3月に、姉のルイーゼと共通の友人だった、カロリーネ・フォン・ベルクに宛てて、こう書いている。1813年の3月20日、プロイセンはロシアと同盟して、フランスに宣戦布告した。また、この両国の動きに、イギリス、オーストリア、スウェーデン、また「ライン同盟」に加わっていた、バイエルンなどの国々も離脱し、同盟に加わった。

こうして、フランスと連合軍の間で、1813年の10月6日から、「ライプツィヒの戦い」が開始された。

「 この決定的な戦いに、耐え抜かねばなりません、我々の存在、我々の独立、我々の満ち足りた生活のために。」

三日間に渡る激戦の末、ついに連合軍は

ナポレオンに勝利した。

1814年の3月31日には、連合軍によって、パリが陥落した。

そして1814年の5月30日に、フランスと同盟諸国側で、「パリ条約」が結ばれた。フリーデリーケは、この講和条約の成立を、喜んだ。「ハレルヤ!!パリで我々連合軍とフランスとの間で、条約が結ばれる事になりました・・・・・・」