ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ一世)
ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ一世)
ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
ケーニヒスマルク伯爵フィリップ・クリストフ
ケーニヒスマルク伯爵フィリップ・クリストフ
プラーテン伯爵夫人クララ・エリーザベト画像
プラーテン伯爵夫人クララ・エリーザベト
ゲオルク・アウグスト(ジョージ二世)
ゲオルク・アウグスト(ジョージ二世)
ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー
ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー

ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの子ゲオルク・ルートヴィヒとその兄ゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテア、つまりいとこ同士の結婚話が、一六八二年に、彼らの間で浮上していた。

その目的は、彼ら兄弟の両家の領地の相続に関する問題が、両家の結婚で解決すると踏んでの、双方の子を結婚させる事であった。

一六六五年にゲオルク・ヴィルヘルムは、リューネブルク=ツェレ公国という魅力的な領地を引き継ぎ、リューネブルク=ツェレ公爵になった。続いて長兄のヨーハン・フリードリヒの死により、ハノーファーに移り住んだエルンスト・アウグストは、オズナブリュックの領主司教の領地を与えられていた。

しかし、最初からこの結婚には、不吉な経緯があった。

 

 

 

 

実は、プファルツ選帝侯、そして後のボヘミア王フリードリヒ五世とイギリス王女エリザベス・ステュアートの娘で、現在弟のエルンスト・アウグストの妻の、選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツは、初めは兄のゲオルク・ヴィルヘルムの婚約者であり、本来なら彼らが結婚するはずだった。

しかし、ゲオルク・ヴィルヘルムは突然一方的に、ゾフィーとの婚約を破棄してしまった。 そしてそれから数年後の一六四八年に、ゲオルク・ヴィルヘルムは、フランスのトゥアセ公爵と結婚したヘッセン=カッセル家の、エミーリエ公爵夫人付きのフランス宮廷の女官として、一六六四年の冬にヘッセン=カッセルに里帰りした、エミーリエに従ってドイツにやって来た、あるフランス人の女官に夢中になり、やがて結婚を考えるようになる。

 

 

 

その女性の名前は、エレアノール・ドルブレーゼ。 彼女は、フランスのポアトゥー地方の都市ラ・ロシェル近くに住む、ユグノーの娘として生まれた。

そしてこうして一方的に婚約を破棄された、ゾフィーの方は、当然大変なショックと屈辱を、受けた。しかし、弟のエルンスト・アウグストの方が、 代わりに彼女と結婚してもいいとの事で、彼らが結婚する事となった。

しかし、最初のこの破談は、ゾフィーの中で、わだかまりとなって残った。

一方、一六七六年の四月に、ゲオルク・ヴイルヘルムとエレアノールの結婚が、神聖ローマ皇帝レオポルト一世から正式に認められた。この時既に彼らの間には、数人の子供達が生まれていた。

つまり、ゾフィー・ドロテアを含め、この間にすでに彼らの間に生まれていた子は、法律的には私生児という事になる。

 

 

 

この事から、ゾフィーはこのゾフィー・ドロテアの事を「フランス人の私生児」として、嫌っていた。

一六八二年の十二月に、彼女の息子のゲオルク・ルートヴィヒとゾフィー・ドロテアの結婚式が行なわれた。

だが名門ヴェルフェン家の一員として誇りを持っていたゾフィーにとっては「フランス人の私生児」と自分の息子とのこの結婚式は、屈辱との戦いであり、 この結婚については「苦い錠剤」とまで言っている。

ゾフィーは身分の低い女官のエレアノールが大公夫人となり、自分と親戚になる事を、大変に嫌がった。 また、その娘のゾフィー・ドロテアの事も、息子と結婚してからも依然として「フランス人の私生児」として嫌っていた。ゾフィーが、プファルツ選帝侯の父とイングランド王女エリザベス・ステュアートを母に持つ、自分の血統に誇りをもっていたためであった。 しかし、その何よりも大きな理由は、自分のかつての婚約者と結婚した、エレアノールに対する嫉妬からであった。

 

 

 

このように初めから不吉な予感を孕んでいたこの結婚は、双方の父親同士の領地相続に絡んだ、典型的な政略結婚であった。

1683年には、息子ゲオルク・アウグストが、(後のイギリス国王ジョージ二世。) そして1687年には、母親のゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクと同じ名を付けられた娘の、ゾフィー・ドロテアが生まれた。

しかし彼女の夫のゲオルク・ルートヴィヒは無口で閉鎖的な性格で、当初から妻に冷ややかだった。これについては、彼の従兄妹で、後のフランス国王ルイ十四世の弟オルレアン公の妻になる、オルレアン公妃リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツも、証言している。そして彼は、好色だった父親の徹を踏んで、すでに早めの性的な経験を済ませており、十六歳の時には、隠し子まで生ませていた。そして彼ら両親は、ほとんど二人の子供達に、関心を払わなかった。

 

 

 

母親と同じ名前を付けられた、娘の方のゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーは、しかし、その美貌は母親から受け継がなかった。更に、疱瘡にかかり、顔にあばたが残ってしまった。

ゲオルク・ルートヴィヒは、ほとんど妻を顧みず、愛人達と過ごす時を、むしろ楽しんだ。 第一に優雅な女官メルジーネ・フォン・デァ・シューレンブルク。

そしてシャルロッテ・キールマンゼッゲ。

ゲオルク・ルートヴィヒは、なぜかメルジーネやシャルロッテなど、むしろ不器量な女性達を、愛人に選ぶ傾向があった。

夫は閉鎖的で妻は活発と、夫婦の性格も異なっていて、合わなかった。

ゾフィー・ドロテアは、配偶者の頻繁な不在のほとんどに、理解を示さなかった。

そして自分を顧みない夫を、激しく非難した。 これに対しゲオルク・ルートヴィヒは怒り、ますます寄りつかなくなった。

 

 

 

このように、複数の愛人がいた夫に対して当時、彼女には、一人の愛人がいるだけだった。 ハノーファー軍で隊長の任務に就いていた、ケーニヒスマルク伯爵フィリップ・クリストフ。 彼は、古くからのブランデンブルク貴族であった、ケーニヒスマルク伯爵家出身で、ドイツとスウェーデンの陸軍元帥ハンス・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルクの孫だった。

彼女は、彼と無数の親密な手紙を、やり取りした。 そして当時三歳だった娘の存在は、ほとんどゾフィー・ドロテアの心の中には、なかった。彼女の兄ゲオルク・アウグスト同様に。そして彼ら子供達は通常は、父方の祖母である選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツの世話を受けていた。

 

 

 

そしてこの事は同時に、プロイセン国王フリードリヒ一世を、心配させた。

こうしてゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーは、兄のゲオルク・アウグストと共に、両親、そして祖母と母との不和という不幸な家庭環境の中で、成長する事になった。 それから、おそらく後にイギリス国王ジョージ一世として即位する、息子のゲオルク・ルートヴィヒがイギリスではあまり人気がなく、また息子の妻のゾフィー・ドロテアに対する冷酷な、ほぼ後半生全てに渡る幽閉という仕打ち。

 

 

このように、このイギリスでは不人気なイギリス国王であるジョージ一世の母親ということで、プロイセン王女ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーを事実上養育した、祖母のハノーファー選帝侯妃ゾフィー・フォン・デァ・プファルツは、イギリスでは評判が悪いようだ。(そして更に、ケーニヒスマルク伯爵との悲恋と冷酷な夫により非業の最後を遂げた悲劇の美女として、このブラウンシュヴァイク=リューネヴルク選帝侯女の、ゾフィー・ドロテアの方に注目や人気が集まりやすいことなど、おそらく、彼女のイギリスでの不人気には、こういったことも関係していると思われる。

 

 

 

 

またかたや、こちらのゾフィーの方は、美しかったボヘミア王妃エリザベスを母に持つ割には、この母親や他の美貌の姉妹達のエリーザベトやルイーゼ・ホランディーネと比べて、特別美人だったという話も聞かない。)。

しかし、彼女は語学に秀で数ヶ国語を巧みに操り、大変に高い知性に恵まれた才媛であり、更にまた当時のこういう階級の女性としては稀なことに、数学や法学や歴史についても学んでおり、哲学者ライプニッツとも親しく交流をしている。

更にこのライプニッツからはその手紙の中で「妃殿下と比べられては、傑出した才知を有する王女たちでさえ、真昼の星のようにしか見えません」という、最高級とも言える賛辞まで送られている。

美貌の姉達も彼女同様、なかなかの才女達だったようだが、中でもこの四女のゾフィーの優秀さは、特に傑出していたようである。

そしてその人柄についても、イギリスで思われているような、人間味のない女性でもなく、広い視野を持ち、度量が広く、ユーモアにも溢れ、常識と厳しさと温かさも兼ね備えた、スケールの大きい人物であった。

 

 

また両親の不和から自分の許に預けられた姪のオルレアン公妃リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツを、責任と深い愛情を持って育て、この姪と生涯続く親密な関係を築いている。そしてこのゾフィーの知性は、長男のゲオルク・ルートヴィヒより、長女のプロイセン王国初代王妃ゾフィー・シャルロッテの方に、より多く受け継がれたようである。

彼女もライプニッツにその知性を高く称賛された、知性に恵まれた、そして知的好奇心の旺盛な女性だったようである。

 

 

 

追記(とはいえ、最近偶然知りましたが、近年「Sophia of Hanover: From Winter Princess to Heiress of Great Britain, 1630-1714」という、おそらく英語圏では初めてではないかと思う、彼女に関するまとまった伝記が出版されていたようで、イギリスの方でも少しずつ、彼女の再評価の兆しが、出てきているようなのでしょうか?)

 

 

 

 

 

 

 

このように、母親のブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯女ゾフィー・ドロテアの方は、明らかに彼女の二人の子供達について、ほとんど気にかけていなかった。

そしてその代わりに、美しいケーニヒスマルクを見る目だけが、あった。

当時、非常に重苦しい心を抱えていた彼女と、その愛人との禁じられた情熱が、二人の子供達から彼女を完全に切り離した。

しかし、それも結局は、推測の域のままである。また、当時ボヘミアのプファルツ選帝侯、後のボヘミア王フリードリヒ五世の娘で、婚約者だったゾフィー・フォン・デァ・プァルツがいたにも関わらず、一方的に彼女との婚約を破棄し、その数年後には、フランスのトゥアセ公爵と結婚し、里帰りしたトゥアセ公爵夫人エミーリエに従ってドイツに来ていた、女官のエレアノールと結婚した父ゲオルク・ヴィルヘルムとその妻で母のエレアノール。このようにかつて無分別な、身分違いの恋愛結婚をした、両親の血を引いて、ゾフィー・ドロテアは、元々分別に欠ける所のある性格だったのかもしれない。

 

 

 

あまり結婚生活が幸せではなくても、義母で同名のゾフィーや、このゾフィー・ドロテアにとっては、孫に当たる、フリードリヒ大王の妻エリーザベト・クリスティーネのように、芸術や文学に関心を持ち、それらに気晴らしや慰めを見出す女性達もいたが、彼女の場合は、そういう気には、ならなかったらしい。 1665年に生まれたケーニヒスマルク伯フィリップ・クリストフは、ゾフィーにとっては、見知らぬ人ではなかった。

ケーニヒスマルクとの彼らの関係は、 ゲオルク・ヴィルヘルムら家族達との交友関係の一つだった。 この時、ゲオルク・ヴィルヘルムは、ケーニヒスマルクのための後援者を、気取っていた。

そしてゾフィー・ドロテアは、その少女時代に、すでにこの青年に会っていた。

しかし、ケーニヒスマルクとは、ツェレで一時的に顔を合わせていた程度の関係で、まだお互いに特別な感情は、抱いていなかった。

 

 

 

またケーニヒスマルクはその後、イングランドでの教育を受け続けるだけだった。

騎兵と貴族としての。彼はこの間に、英語とフランス語ならびに乗馬の知識を仕上げた。フェンシングやダンスを学んだ。

そしてケーニヒスマルクは、自分自身のために、その洗練を十二分に流用した。

ドイツへ彼が帰還した後、宮廷での女性達の間で。ケーニヒスマルクは当時神聖口ーマ帝国皇帝の司令で、トルコと戦っていた。

だが彼の所属していた連隊は、一六八八年に解散された。

そして彼は、失業した。それからケーニヒスマルクは、放蕩の生活を送るようになった。

また、その時、彼はハノーファーでの日々を、カーニバルなどでの、祝祭で費やした。しかし、彼の関心は、ゾフィー・ドロテアの方へは、まだ傾いてはいなかった。

むしろ、財産目当てで女伯爵シャルロッテ・ドロテアに近付き婚約した。

しかし、彼女と借金トラブルを起こし、結婚せず逃走。 その結果ヴェニスに落ちついた。 当面は彼の債権者から逃げるために適切な。ドイツに1689年5月に行った。

そしてハノーファーに来て、エルンスト・アウグストに、仕えるようになった。

彼を、ようやく自由と祝祭が持っていた。

それでも、彼は高くつくライフスタイルに気を配って、戦死した兄の爵位と財産を相続してから、大変に裕福となっていた彼は、実に二十九人の使用人と五九頭もの馬を抱えていた。 そしてこの時、彼は再びゾフィー・ドロテアに会った。

 

 

しかし、ハノーファーに到着した時、ケーニヒスマルクは、最初にモン・プレジール宮殿で、彼の雇い主のエルンスト・アウグストの長年の愛人プラーテン伯爵夫人クララ・エリーザベトと会っていた。

しかも、彼よりも十七歳年上のこのプラーテン伯爵夫人の愛人になった可能性も、あるらしい。また、彼女の方も、この魅力的な遊び人の若いケーニヒスマルクに、実際の関係の有無はともかく、かなり心を惹かれたようである。

 

 

 

 

だがゾフィー・ドロテアは、この時はまだ夫のゲオルク・ルートヴィヒとの離婚を申請することを考えてはいなかった。

だが、明らかにそれからゾフィー・ドロテアを、決して遠ざけはしなかった。

この怖い者知らずのケーニヒスマルク伯爵のお世辞を、受け入れること。

無口な夫とは全く違う彼の。

そして彼とは、数回顔を会わせる機会があった後。宮廷の祝祭で会って、一緒にそれらを楽しんだ。両方の深い関係は、徐々に発展した。ケーニヒスマルクは、一六九〇年の四月に、 戦いからハノーファーに帰還した後、何ヵ月も、定期的に彼女に恋文を送りた始めた。それらが始まるならば。

書面でそれらの考えと感情を交換して、一六九〇年七月から広範囲な文通を受け入れた。

人々は簡単にこの文通に基づいて追求することができた。 禁じられた恋が、 二人の間で育ったので。一六九ニ年三月から、手紙はその事を、全く明らかに示している。

その内に彼らが、性的な関係を持つようになった事を。 義母のゾフィーだけは、それらのカーニバルの日々で、まだ彼らについて、疑い深く観察していなかった。

ケーニヒスマルクが、すでに宮廷の名人芸の域に達していた、色事のテクニックで、彼女の息子の妻を誘惑した方法。

 

 

 

しかし、宮廷でまた、当然、ゾフィー・ドロテアの夫、そして彼女の義理の父エルンスト・アウグストの前に、秘密のままではなかった。しかし、ゾフィー・ドロテアは信じた。けして知られてはいないと。

夫とその家族に。

ゾフィー・ドロテアの女官エレオノーレ・クネーゼベック、更にはケーニヒスマルクの妹、アマーリエ・ヴィルヘミーネとマリア・オーロラ。 当時彼女達が、彼らの手紙を、仲介していた(そして、隠れて後の)。

しかし、他の人々によって、それらの手紙の内容が読まれる事になっていった。

義父のエルンスト・アウグスト。

更に夫のゲオルク・ルートヴィヒともちろん義母のゾフィーにも。そしてゲオルク・ルートヴィヒの愛人の、プラーテン伯爵夫人。

そして二人の関係を知った後も、彼ら全員は、当面は明らかに静かに振る舞っていた。そのため、ゾフィー・ドロテア達は油断し、これは、彼女を愚かにした。

そして、善意の警告。特にエレアノールから。彼女の母親のツェレ選帝侯妃。

しかし、この母親のエレアノールからの忠告は、彼らの娘ゾフィー・ドロテアの全く聞こえない耳の上で、応じられた。

 

 

 

そして、ケーニヒスマルクの、このハノーファー選帝侯妃ゾフィー・ドロテアとの不倫という、無頓着な罪以外の他に、重大だったのは、この事による、彼の雇い主エルンスト・アウグスへの、大きな侮辱だった。

1694年七月に、ケーニヒスマルクはドレスデンへ旅立った。そこでベニス滞在の時に、友人となっていて、正式なザクセン選帝侯になっていた、フリードリヒ・アウグストに会うためである。友人であり、かつて大金の融資もしている、 彼に頼んで、自分をザクセン軍の連隊の最高司令官にしてもらうためにである。 これまで金にあかせて、放蕩生活に耽っていたケーニヒスマルクは、スウェーデン国王の怒りを買い、伯位の処遇を停止をされ、不十分な現在のハノーファー軍の隊長職の収入だけでは、財政的に苦しかったからだった。そしてゾフィー・ドロテアとザクセンへの、駆け落ちを考えていた。

 

 

 

しかし、軽率な彼は、ゾフィー・ドロテアとの密通を、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストに話してしまい、たちまち彼らの事は、ドイツ中の一大スキャンダルになってしまった。 結局ケーニヒスマルクは、目的を果たせないまま、ハノーファーに帰還した。

しかし、依然としてゾフィー・ドロテアとのザクセンへの駆け落ち計画は実行に移すつもりであり、再び彼女との密会を重ね、ライネ宮殿で最後の夜を過ごしていた。

しかし、彼らの逃亡計画がまさに実行に移される直前だった、1694年7月1日の夜中。

七月一日の夜中に、ライネ宮殿に入っていく姿を最後に、忽然としてケーニヒスマルクの姿が、消え失せる。宮殿に暗殺者達が侵入し、彼を殺害したと考えられる。

そしておそらく死体は、浮かび上がらないように縛られ重石を付けられて、川に沈められた。 そして実際に、主犯と目される、ニッコロ・デ・モンタルバーノというイタリア人司祭や、上級近侍ウィルケン・クレンケ、宮廷騎兵(ケーニヒスマルクの友人フィリップ・アダム・フォン・アイツ、近侍のハンス・クリストフ・stubenvolらの男達の名前も挙げられている。

 

 

 

しかし、彼ら四人はその後、ゾフィー・ドロテアの夫で依頼主の、ゲオルク・ルートヴィヒから、満足な報酬をもらえなかったらしい。 ケーニヒスマルクの秘書の一人の、ヒルデブラント。そしてやがてケーニヒスマルクの上官の元師伯爵ポデヴィルスは、こう報告した。彼の部下が行方不明だと。

あくまでポデヴィルスは、こう説明した。

そして彼は本当に、何も知らされてはいなかった。 またカール・グスタフ・lewenhauptも、その一人に数えられる。

ケーニヒスマルクの義理の弟。

彼は、ハノーファーに急いだ。義兄の捜索のために。しかし、彼はそこに入れてもらえなかった。ケーニヒスマルクの妹のオーロラも、まったくハノーファーの都市に、一歩も足を踏み入れる事を、許可されなかった。

 

 

 

そして他国の外交官達と各国民達は、それらを怪しむようになった。

国王ルイ十四世は、彼の義理の妹のオルレアン公妃リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツに、この事件の真相についての、詳細を尋ねた。しかし、これに対してリーゼロッテは、おそらく彼女の身内のゲオルク・ルートヴィヒの関与している恐怖から、その真相について知らないふりをした。

 小屋にあったケーニヒスマルク関連の文書は、明らかに押収されたり、またはハノーファー政府によって処分された。

彼の部下だけではなく、親戚、外交官などの、多くの人々がそれについて推測し始めたとしてケーニヒスマルク伯の失踪は、国家的な事件となった。捜索は一週間行われた。

その後、フランス国王はハノーファーに大使を送った。ザクセン選帝侯は、ザクセンの特別大使をハノーファーに派遣して、詳細について尋ねた。選帝侯は、ドレスデンからの大使の報告を受けた。

結局人々はこの情報に満足しなかった。

そして、突然、問題は国家問題に変わった。エルンスト・アウグストとゲオルク・ウィルヘルム公爵の対応に不満を感じて、ザクセン選帝侯はこの事を皇帝に伝えた。

レオポルト一世を防がないならば。

ハノーファー側の対応に不信感を抱いたレオポルト一世は、ハノーファーから、連合軍隊の彼らの部隊を、撤退させた。

またプロイセン国王フリードリヒ一世も、この対応に不信感を表明した。

そして暗殺が囁かれた、ケーニヒスマルクの謎の失踪から数日後、ゾフィー・ドロテアは、姦婦として逮捕された。

 

 

 

1694年。ハノーファーとツェレの間で、活発な交渉が始られた。依然として行方不明のままの、ケーニヒスマルクについての、話ではなく。 彼の謎の失踪の真相については、彼らの間でもみ消された。

むしろ、今後のゾフィー・ドロテアの処遇について、議論された。

1964年7月27日に、彼女はアールデン城に到着した。実は既に二人の逃亡計画は、ゲオルク・ルートヴィヒとプラーテン伯爵夫人一派に、察知されていたのだった。

ゲオルク・ルートヴィヒは、こうして事前に二人の逃亡を阻止したのである。

そして裁判の席で、ゾフィー・ドロテアは夫との離婚を要求したが、ケーニヒスマルクとの関係は、プラトニックなものだったと主張した。しかし、人々は彼女のこの主張を信じなかった。 動かぬ証拠として、これまで二人がやり取りした、 数多くの手紙があった。

とにかく、離婚の訴え自体は認められたが、正式な手続きが終わるまでという事で、七月十七日に、ゾフィー・ドロテアはツェレから、アールデン城に移された。

 

 

 

そして離婚が成立したが、選帝侯妃の称号は剥奪、これ以降全ての公式文書からの彼女の名前は抹消、再婚は認めない、そして今後二人の子供達に会う事は、一切許されないという条件付きだった。

そしてハノーファー家は、彼女とのあらゆる接触を打ち切った。彼女は好ましくない人物として、二度とハノーファーで口にされる事は、なかった。

子供達は、引き続き祖母のゾフィーにより、ハノーファーの宮廷で養育される事になった。時々ゾフィー・ドロテアを訪れてくるのは、母親のエレアノールくらいであった。

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯女の称号も奪われたため、これ以降彼女は「アールデンの公女」と呼ばれるようになった。この顛末についてリーゼロッテは、こう批評した。 「ゾフィー・ドロテアは、哀れな性質でした。軽薄な性格。これは、フランス人の母親から、受け継いだものでしょう。」そして結局彼女は解放されず、三十二年の長い間、一七二六年に死去するまで、終生アールデン城に幽閉された。

そして彼女が死ぬ前に、ゾフィー・ドロテアの、このような夫の無情な仕打ちを恨む手紙が、ゲオルク・ルートヴィヒに届けられ、それを読んだ後彼は急死したという。