死去した。国王の遺体は、ポツダムの
マルモア宮殿の礼拝堂に埋葬された。
フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の、
長年の愛人だったリヒテナウ伯爵夫人
ヴィルヘルミーネ・エンケは宮廷から追放され、国王の寵姫としてのこれまでの財産は、
没収される事になった。
1797年の11月16日に、
フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が、
新プロイセン国王として即位した。
ルイーゼは新王妃となった。
新国王夫妻は、戴冠旅行として1798年
の5月24日から6月29日まで、
プロイセン領土のポンメルン、
東プロイセン、メーメルの各地を回った。
当時偶然そこに居合わせた若いポーランド人は、こう言っている。
「王妃ルイーゼは、王妃としての務めを完璧に果たしていた、人々に向かって慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた、そして彼女はそこかしこで数えきれない程の花束を受け取っていた。
それに対して国王の方は、むしろむっつりとして、どこかぎこちない様子だった。」
この証言にも、2人の性格の違いが現われている。しかし、比較的この国王夫妻は
国民との距離が近く、国民達から親しまれていた。 国王夫妻は夫婦仲が良く、家族で旅行などブルジョワ的な生活を送った。
また王妃としての礼儀作法は、
ルイーゼにとっては大いなる負担だったが、
かえってルイーゼのそんな所が、
国民達にとって大きな人気を呼ぶ原因となっていた。
ドイツ・ロマン派の作家アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルは、以下のような詩を贈り、その中でルイーゼを「心の王妃」と呼んでいる。
「ルイーゼの微笑みは、悲しみさえも冗談にしてしまう、そしてその瞳の瞬きの前には、
悲しみはどこかへ逃げさって行く。
心の王妃がここに存在する限り、
優雅な王家の女神よ
その髪には月桂樹と銀梅花が巻きつけられている」
ノヴァーリスも、このような心からの賛辞を贈っている。
「王妃は、人々のお手本として限りなく多くの影響を与えている。そしてそれは、その幸福な結婚生活の中から、頻繁に生み出されている、このため、世の中では家庭的な風潮が、流行っている。
教養ある女性であり細やかな母親である王妃
あるいは居間で娘を抱いている女性。
国王一家は、宮廷の雰囲気を一変させてしまった、神聖なる王家よ、かつて王族の中で、
ここまで心によって結ばれた結婚が存在したであろうか?」
ノヴァーリスは、未完に終わったものの、
1798年に「信仰と愛または王と王妃」
の中で、国王夫妻を称賛しており、
彼らに理想のプロイセン王家の姿、
そして文化的慣習的に模範とするに相応しい宮廷生活の様子を見たのであった。
十九世紀のヨーロッパは、全体的に不道徳な風潮になっており、そのような中で、プロイセンとベルリンの人々は、堅苦し過ぎると嘲笑されがちであった。また、プロイセンの女性でも、パリなどに行った女性達はそういった風潮に染まってしまう事があった。
しかし、プロイセン国王夫妻は、市民的で円満な家庭生活を送っており、この事が国内で大きな反響を呼んだ。
ノヴァーリスは、この「プロイセン王国年代記」の中の「信仰と愛あるいは国王と王妃」という、四十三の断章の中で、王権に対する意見を示している。同時代人には、不可思議で陶酔的で予言的なパッセージとして、知られていた。
「国王夫妻は、真の王家の人々としての素質を持っている」
ノヴァーリスは、フリードリヒ・ヴィルヘルムがすでに王太子の時代から、王太子夫妻の調和的な生活と政治規模の融合という意見を、確立させていた。彼は国の頂点に立つ国王夫妻の道徳と調和と、国民達の道徳と調和が相互に国の土台を形成するべきという意見を抱いていた。
更にノヴァーリスは、この論述の中の最後で、
王妃ルイーゼを、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」に登場する理想的女性像ナターリエに例えている。
ルイーゼは、政治に関する教育を受けていた。
そして、政治や外交が苦手な夫に対して
すでに王太子妃の頃から、手紙の交換によって
助言を求められるようになっていた。
ルイーゼは、1797年の、フランスの
不法な併合の結果の「カンポ・フォルミオ条約」に関しても、父に宛てた手紙の中で
こう自分の意見を述べている。
ルイーゼは、政治に関する教育を受けていた。
その内に政治や外交が苦手な夫に、手紙の交換を通して、助言を求められるようになっていく。
一七九七年の、十月十七日に締結された、ナポレオンによる不法な併合の結果である
「カンポ・フォルミオ条約」に関しても、父に宛てた手紙の中で。こう意見を述べている。
「フランス人の怪物がマインツを、そしてヴォルムスとシュパイアー、ジャーメスヘイム、ゴブレンツなど多くの都市を、そして新たにヴェーゼルにまでその領土を広げています・・・・・・このような政治的な事柄に対して、無為な見物人の立場でいる事は、何とも不安な事です、おそらくこのままフランス人は、その手をハノーファーにまで伸ばしてくる事でしょう、私はとても無関心ではいる事ができません、この不安と絶望は、どうしたらいいのでしょうか?」
この時ルイーゼは、再び娘のシャルロッテを妊娠していた。
この娘は後の1825年にロシア皇帝に即位する、ロシア皇帝アレクサンドル一世の弟の、ロシア皇太子ニコライ(ニコライ一世)の奥方アレクサンドル=フョードロヴナになっている。
新たな妊娠もわかり、順調かと思われたルイーゼの周辺に、黒い影が差し始める。
その大きな原因は、彼女の兄弟姉妹達だった。
弟のゲオルクが市民の娘に夢中になってしまい、彼女と結婚したいと言い出したのである。
ルイーゼはこれに頭を痛め、
必死でゲオルクに結婚を思いとどまるよう、
説得した。
次なる悩みは、ハイデルベルクハウゼンの長姉シャルロッテだった。
彼女の生まれたばかりの子供がすぐ亡くなってしまい、シャルロッテは大変に悲しんでいた。
そして次姉のテレーゼである。
彼女は夫の愛人の事で悩んでいた。
ルイーゼは、この姉の事も慰めなければならなかった。
そしてルイーゼをもっとも悩ませたのが、
妹のフリーデリーケだった。
フリーデリーケの熱烈な崇拝者の事が、
宮廷で噂になっていた。
当時不実な夫に悩んでいた彼女の周りには、
数多くの崇拝者がいた。
1796年に夫のカール・ルートヴィヒと
死別した後、フリーデリーケは1798年に
ルイ・フェルディナント王子と親しい、
アンスバハの騎兵大隊少佐で、
当時ベルリンの護衛をしていたソルムス=ブラウンフェルス公フリードリヒ・ヴィルヘルムと
出会った。そして、2人は急速に親しくなっていった。
当時フリーデリーケには、死去した夫との間に、4歳になる息子のフリッツ・ルイがいた。
1798年の終り、当然予想された結果である、フリーデリーケの妊娠が発覚し、
ルイーゼは仰天した。
この妊娠はルイーゼ等、一部の関係者達の間で
極秘にされた。
そしてスキャンダルを恐れた
ルイーゼ達の意向により、
直ちにフリーデリーケとソルムスはその年の
12月10日に結婚し、ベルリンから離れた。
ただし、フリーデリーケの2歳になる娘フリーデリーケ・ヴィヘルミーネはソルムスの領地に一緒に連れて行く事を許された。
しかし、当時4歳になっていたフリッツ・ルイは、ベルリンに留まる事になった。
だが結局フリーデリーケは、
1814年にこのソルムスとも離婚し、
1797年にバートピュルモントで
再婚相手として引き合わされた、
ジョージ三世の息子ケンブリッジ公爵アドルフの
弟で1813年に出会ったカンバーランド公爵エルンスト・アウグストと、
1815年に再婚した。
後に夫のエルンスト・アウグストが
ハノーファー国王になり、
フリーデリーケはハノーファー王妃となった。
このような一連の心痛も去り、
ルイーゼは1798年 の夏にシャルロッテン
ブルク宮殿で出産したシャルロッテも含め、
再び家族の平穏な暮らしを取り戻した。
シェーンハウゼン宮殿からここへ来る途中で、フリーデリーケは「まるでここは砂漠の果てにある、幸福なエリュシオンのようね。」