1769年の11月17日に、メクレンブルク=シュトレーリッツ公爵カールの長女として誕生する。
大勢の弟妹達には、「ロロ」という愛称で呼ばれていた。シャルロッテは、歌が上手でまた美しい声にも恵まれ、姉妹達の中で最も音楽的才能に恵まれていた。
1785年の9月3日に、ザクセン=ハイデルベルクハウゼン公爵フリードリヒと結婚。
フリードリヒは、この年から帝国王室騎兵曹長に、その後は第41歩兵連隊の後任の司令官に昇進した。
シャルロッテには、マグダレナ・フォン・ウォルゾーゲンという教育係の女性が付けられた。この女性は、女官長の地位にあり、シャルロッテにとってこの新しい故郷で信頼できる存在となった。
1787年から1794年の間、シャルロッテの父カールが、度々ハイデルベルクハウゼンの宮殿に滞在した。
ハイデルベルクハウゼンは、チューリンゲンの森の南部に位置している。
宮殿は、1685年から95年の間に、ヴェルサイユ宮殿を模して建設された。
三階建ての建物で、周辺はザクセン=ハイデルベルハウゼンの都市に囲まれていた。
宮殿は華麗で、宮殿の庭園は5平方メートルまで底面が広がっていた。
庭園の南東には、劇場があり、後にシャルロッテはよくそこに通うようになった。
近くには狩猟用の離宮もあった。
結婚一年後の1786年には、長男フリードリヒが誕生した。
しかし、この子供はわずか生後十七日後に、死去してしまった。シャルロッテは、生後わずかでの子供の死を、深く悲しんだ。
彼女はこの悲しみを、弟ゲオルクへの手紙の中でも書いている。
しばらくは子供を亡くした悲しみに沈んでいたシャルロッテだが、その内に、国内の政治・社会活動に関心を持つようになっていく。十九世紀のハイデルベルクハウゼンは、
出版と教育の都市として知られるようになる。早速シャルロッテは、教育と教会評議会の一員だった、カール・ルートヴィヒ・ノンネ、教師のカール・ホーンバイム、画家及びエッチング版画家だったカール・バートン・達に、自分の教育・文化改革について相談をした。かつてノンネは、スイスでヨーハン・ハインリヒ・ペスタロッチの教育理論と方法を学んでいた。
このペスタロッチの教育法は、後にハイデルベルクハウゼンに導入される事になった。
1812年には、ギムナジウムが作られた。
ハイデルベルクハウゼンのノンネの教授セミナーは、他の国でも有名になった。
シャルロッテは、ハイデルベルクハウゼンの全国民が、社会参加できるようにしていきたいと考えていた。
しかし、当時の人々の収入は少なく、年金や教育費用・徒弟制度・医療など改革しなければいけない事は、いくつもあった。
シャルロッテは努力し、共済年金の設立や手工業企業の設立支援など、問題を改善していった。シャルロッテの娘の一人のテレーゼは、後にバイエルン国王ルートヴィヒ一世王妃になり、社会福祉事業に励んでいるが、これはこのような事に熱心だった、母シャルロッテの影響かもしれない。
シャルロッテ夫妻の子供は、初め12人いたが、その内4人のフリードリヒ・アウグステ・フリーデリーケ・マクシミリアンは夭折し、シャルロッテ・ヨーゼフ・テレーゼ・ルイーゼ・フランツ・ゲオルク・フリードリヒ・エドゥアルトの8人が無事に成人した。
1792年、フランス革命軍が、ライン川を越え、ドイツ方面にまで侵攻し、シュパイアー、ヴォルムス、そしてシャルロッテの家族達の住む、ダルムシュタットの方まで侵攻してきた。このため、10月にルイーゼ達一家は、シャルロッテの住むハイデルベルクハウゼンまで避難してきた。
シャルロッテは、彼らを温かく迎え、一家は久々の再会を喜び合った。彼女の妹達のルイーゼやフリーデリーケは、このハイデルベルクハウゼンで結婚適齢期の16歳と15歳を迎え、それぞれ、ベルリンの王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、弟のカール・ルートヴィヒ王子と結婚した。
ザクセン=ヴァイマル公国(当時はまだこの国名)を訪れる機会があったシャルロッテは、劇場でゲーテやシラーの作品が上演されるのを見た。アンナ・アマーリエ大公妃の保護の下、当時のヴァイマルには、多くの作家や芸術家達が集い、ヴァイマル宮廷は「ムーゼの宮廷」と呼ばれ、文化の香り高い場所となっていた。シャルロッテは、これに大いに刺激を受け、彼女自身がハイデルベルクハウゼン宮廷に、このヴァイマル宮廷を手本にし、同様の文化の盛んな「ムーゼの宮廷」を作る事になる。
ヴァイマルから帰国したシャルロッテは、 宮廷の礼儀作法は緩め、宮廷に音楽家、そして画家や作家達を呼び集める。
その中には、作家のジャン・パウルや、フリードリヒ・リュッケルトの姿もあった。
このように、シャルロッテはザクセン=ハイデルベルク公爵夫人として、国内の社会福祉・文化の隆盛に尽力した。
しかし、ドイツ各地は、ナポレオン戦争に巻き込まれていった。
プロイセン軍がフランス軍に大敗した後、テレーゼの妹達である、王妃ルイーゼとアンスバハをフランス軍侵攻により追われたフリーデリーケは、ケーニヒスベルクへと逃亡していた。そしてテレーゼ自身も、やがてレーゲンスブルクから逃れ、反ナポレオンの拠点のあるパリで、ナポレオンへの抵抗活動を続けていた。このように、ルイーゼ達姉妹は、ナポレオン戦争の渦中に巻き込まれていた。
1810年に、シャルロッテの許に、悲報が届いた。34歳で、愛する妹ルイーゼが亡くなったのである。
そして、更にその六年後の1816年の11月6日には、父のカールが亡くなった。
立て続けに、愛する肉親を失い、シャルロッテと弟のゲオルクは手紙の中で、彼らの死を悲しんだ。