フリーデリーケ・ルイーゼ・カロリーネ・ゾフィー・シャルロッテ・アレクサンドリーナは、1778年の3月2日、ハノーファーでメクレンブルク=シュトレーリッツ公爵カール・ルートヴィヒの四女として生まれた。

 

フリーデリーケは、両親と兄のフリードリヒや、姉のシャルロッテ、テレーゼ、ルイーゼ、弟のゲオルクなど多くの兄弟姉妹達と

幸せに暮らしていた。

しかし、1782年の5月22日に、母のフリーデリーケ・カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン・ダルムシュタットが、お産が原因で三十歳で死去してしまった。フリーデリーケは、四歳だった。

残された家族達は、悲しみに沈んだ。

多くの子供を抱え、困った父のカールは、

二年後に妻フリーデリーケの妹で

、子供達には叔母になるシャルロッテ・フォン・ヘッセン・ダルムシュタットと結婚した。シャルロッテが子供達にとっては実の叔母でもあるためか、子供達と新しい母親との仲は良く、一家に再び幸せが戻ってきた。

フリーデリーケには三人の姉がいたが、

特に二歳違いの姉ルイーゼと仲が良かった。

二人ともブロンドの巻き毛に青い瞳を持った、快活な美少女だった。

 

 

1790年、「ゲオルク公爵夫人」と呼ばれていた、フリーデリーケ達の祖母は、十月に、フランクフルトで行なわれる、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト二世の戴冠式を見るために、ルイーゼとフリーデリーケ達二人の

孫娘を連れて旅行に出発した。

宿泊場所として、レーマーブルク近くにあったゲーテの母「アーヤ夫人」の家に泊らせてもらう事になった。

アーヤ夫人は、陽気でもてなし上手の女性で、フリーデリーケ達は、楽しい一夜を過ごした。更にこの翌年の1791年には、フリーデリーケは再び、祖母のゲオルク公爵夫人や姉のルイーゼと共にオランダの各地を旅行した。そして1792年の1月15日に、ルイーゼと共に、いわば成人式のようなもに

当たる堅信礼を受けた。

しかし、その内に、隣国のフランスから戦火が忍び寄って来る。

同年の四月から、フランス国王夫妻処刑を受け、オーストリアとプロイセンはフランスに対して「ピルニッツ宣言」を表明し、革命に反対の姿勢を示した。

しかし、革命は成功し、フランス革命軍は

オーストリア・プロイセン連合軍との戦争に

勝利し、ブルボン王家は追放され、フランスは共和制を宣言した。

そしてオーストリア・プロイセン連合軍に勝利した勢いに乗ったフランス軍は、ライン川の方へと侵攻してきた。

シュパイアー、ヴォルムス、ヘッセンが次々と戦火に見舞われていった。

そしてフリーデリーケ達の住む、ダルムシュタットの方にも、フランス軍が迫ってきた。

 

 

 

 

十月四日、ついにゲオルク公爵夫人は、

孫のシャルロッテが嫁いでいるハイデルベルクハウゼンヘ避難する事を決意した。

一家は、シャルロッテに温かく歓迎された。

1793年の3月10日、ルイーゼとフリーデリーケは、ハイデルベルクハウゼンで十七歳と十五歳を迎えた。

二人はすっかり、妙齢の美しい乙女に成長していた。父親のカールも、そんな娘達を見て、そろそろ縁談をと考え始める。

そして、当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の息子達の、フリードリヒ・ヴィルヘルム王太子と、フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール王子と、それぞれ姉妹が結婚する事になった。

しかし、祖母のゲオルク公爵夫人の発案で、正式に婚約する前に、プロイセン王子達とルイーゼ達姉妹を実際に対面させ、それから正式に婚約するか決めようという事になった。

こうして、姉妹はハイデルベルクハウゼンから、フランクフルトへ向けて出発する事に

なった。

 

 

 

フランクフルトのホテルで、フリーデリーケは姉と共に、二人のプロイセン王子達と出会った。兄弟は、すぐにこの魅力的な姉妹に、

惹きつけられた。

兄のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、姉妹の美しさを「二人の天使」や「白鳥」などと言って称賛した。そして、姉妹の方も、それぞれ兄弟に好感を抱き、正式に婚約が決定する事になった。1793年の12月24日と、二日後の26日に、ベルリン宮殿の大広間で、二組の結婚式が行われた。

結婚式に参列した人々は、口々に姉妹の美しさを称賛した。彫刻家ゴットフリート・シャドーにより、姉妹の彫像が製作された。

しばらくは、ルイーゼやフリーデリーケは、

それぞれの夫達と幸せな結婚生活を送っていた。しかし、その内に姉妹の結婚生活の明暗は、分かれていく事になる。

 

 

 

 

姉のルイーゼの方は、誠実な王太子と幸福な

結婚生活を送っていたが、妹のフリーデリーケの方は、夫の賭博や女遊びに悩まされるようになっていく。彼は、兄とは違い、放蕩者だったのである。夫に顧みられない淋しさから、フリーデリーケは、宮廷中の女性達の人気を集めていた、ルイ・フェルディナント王子と恋仲になった。

彼はフリードリヒ大王の甥で、美男子で凛々しく、武勇にも優れ、多彩な才能にも恵まれていた。中でも特に、彼の音楽の才能はすば抜けていた。元々、フリーデリーケとルイ・フェルディナントは、以前から姉のルイーゼと共に親しい関係だった。

しかし、ルイ・フェルディナントは、情熱的だったが、彼の恋愛は長続きしない傾向があり、フリーデリーケへの想いも、しだいに冷めていってしまう。

また、彼がマクデブルクの駐屯地に戻る時期がやって来た事もあり、彼の駐屯地帰還と共に、この恋は終わりを告げた。

1796年の12月25日に、フリーデリーケの夫の、フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール王子が、病気で急死してしまった。突如十八歳で、未亡人になってしまったフリーデリーケは、夫の死を悲しんだ。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の勧めで、その後フリーデリーケは、1797年の6月に、バートピュルモントで、結婚を前提に、ジョージ三世の七男でいとこに当たるケンブリッジ公爵アドルフ・フレデリックと会ったが、結婚成立には至らなかった。

 

 

 

その内に、フリーデリーケは、アンスバハの騎兵大尉大隊少佐の、27歳のソルムス=ブラウンフェルス公フリードリヒ・ヴィルヘルムと恋愛関係になる。

ソルムスは1797年の9月に、ポツダムで王太子一家と対面した。

彼は、1787年からアンスバハの騎兵連隊の騎士長になっており、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が国王として即位した時に、国王の護衛兵に就任していた。

ルイーゼは、1797年の10月1日、

弟のゲオルクに、ソルムスの事を好ましい若い男性だと、言っている。

また、フリーデリーケも後に、ソルムスとの

関係を認めるようになってから、父のカールに対して、ソルムスは実直な人だと書いている。フリーデリーケとソルムスは、1792年の、フリーデリーケ14歳、ソルムス22歳の時に会った事があった。

 

 

しかし、その内に彼女の妊娠が発覚する。

まず、初めにフリーデリーケの妊娠に気づいたのは、姉の王妃ルイーゼだった。

すでにその頃にはフリーデリーケは、妊娠七ヶ月だった。また、その内にルイーゼの女官長のゾフィー・フォン・フォス、事情通の国王の側近コシクリッツなども、フリーデリーケがソルムスの子供を妊娠している事に気がついた。また、この事を知った国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、ショックを受けた。フリーデリーケがソルムスの子供を妊娠している事は、これら少数の関係者の間で隠される事になった。

ルイーゼは、この妹の妊娠に頭を悩ませる事になった。そして、妹にとってどうする事が

一番良いのか考えた。

フリーデリーケの方は、妊娠に対する不安はあったものの、依然としてソルムスとの恋に情熱を燃やしており、1799年の1月3日に、父のカールに対して手紙の中で、父を悲しませてしまうのはわかっているが、自分達は情熱的に、そして真剣に愛し合っており、二人だけで結婚の誓いも挙げた、どうか理解して欲しいと訴えていた。

ルイーゼは、フリーデリーケとソルムスの

結婚の意志が堅い事を知り、最終的に、父のカールに、二人の関係についてとりなす事にした。

 

 

フリーデリーケが結婚もせずに出産し、宮廷でスキャンダルになる前に父親の承諾を得て、何とか二人を結婚させなくてはと考えたのであった。

ルイーゼは、現在フリーデリーケはソルムスの子供を妊娠しており、すでに出産間近である事を説明した。そして、二人は真剣に愛しあっているのでどうか二人の結婚を許してやって欲しいという内容を、父のカールに手紙で伝えた。カールにとっては、想像を絶する事態であった。

それでも、カールは1799年の1月10日に、ソルムスに宛てて、次のような内容の手紙を書いた。「私の父親としての傷ついた心は、血を流しています、しかし、私の誘惑された子供のためにそれを許そうと思います。

許す事を約束します、そして私の父親としての愛から、私の娘をあなたの良き妻として、幸せにしてやってください。私の娘を祝福された祭壇に、連れて行ってやってください。

あなた達の、愛する良き義理の父より」

 

 

 

しかし、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が、フリーデリーケとソルムスの結婚は身分に相応しくないと許可をしてくれないなど、なかなか結婚計画は、順調に進まなかった。フリーデリーケも、なかなかソルムスとの結婚計画が進まず、またこうしている間に

どんどん出産の日が近づいている事などもあり、悲観的な気分になっていく。

しかし、1799年の1月の、カーニバルの祝祭の日に、何とか少数で密かに二人の結婚式が行なわれる事になった。

「王子ルートヴィヒ・フォン・プロイセンの

未亡人になった公女、メクレンブルク=シュトレーリッツ公女として生まれる。

そして新たにソルムス=ブラウンフェルス公妃になる。」

1799年の2月15日の記述である。

妊娠八ヶ月のフリーデリーケは、冬の時期をアンスバハまで、500キロメートルの道のりを旅行する事になった。

 

前夫との間に生まれた子供達の内、二歳になる娘のフリーデリーケ・ヴィルヘルミーネは一緒にソルムスの領地に連れて行く事を許されたが、四歳になっていた息子フリッツ・ルイはベルリンに残していく事になった。

 

 

 

フリーデリーケは、1799年の1月に、アンスバハに到着した。

宮殿は、ルネサンス建築だった。

フリーデリーケと家族の部屋は、客間としても利用可能な広さだった。

内部は、ロココ様式になっていた。

室内の化粧漆喰塗りの装飾が施された壁は、緑と青だった。そしてどこも、金色の花網模様で飾られていた。

寝室には、壁の織物には柔らかなダマスクが

使われ、白い化粧漆喰の、巻きひげをした猿、鳥、仮面とドラゴンなどの装飾もあった。そして正面の床の間には、鋳鉄ストーブがあり、寒い年にはそれが使われた。

また戸棚の側には、オーク材のパネルが備え付けてあった。

 

 

 

宮殿の部屋には、快適な設備が整っていた。

フリーデリーケは、自分の部屋について

弟への手紙の中で説明している。

「私の寝室には、小さな戸棚が備え付けてあります。私の寝室には、二つのドアがあり、

窓側にはゆりかごとベッドが置いてあります。」

 

 

よくフリーデリーケと家族は、アンスバハとその周辺で過ごした。

フリーデリーケが弟のゲオルクに書いた

38通の手紙の中にも、その事が書かれている。その半分は、東トリースドルフについてだった。一家は、1799年の夏に、夏の旅行に出かけている。10キロメートル先の場所だった。二時間くらいする距離の、トリースドルフの森に囲まれたこの場所は、辺境伯の狩猟場として使われていた。

一家が向かった宮殿は、通称「白い宮殿」と

呼ばれていた。ここには、散策庭園があり、

近くには鷹狩り用の館があった。

この建物は、1730年から32年の間に建てられ、赤煉瓦造りの建物は「赤宮殿」と呼ばれていた。鷹の館は、狩猟の時に使われていた。この赤煉瓦造りの館で、フリーデリーケと家族は、1799年から1805年まで、多くの時間を過ごした。

部屋は全体的に農村スタイルの造りになっていた。控えの間の壁側には、鷹の彫像、そして犬と馬、そして大食堂には、地方の夏の宮殿に相応しい、ケレスの胸像、ディアナ、フローラとポモナ、これら多くの神々の彫像があった。ケレスは古代ローマで、大地の女神として崇拝されていた。

そしてケレスは大地と穀物を守る神である。

ディアナは処女と狩猟を守る女神である、

フローラは、花々と植物を司り、そしてポモナは果実の女神であった。

 

 

フリーデリーケは、朝の10時から娘のフリーデリーケ・ヴィルヘルミーネと、読書をする。彼女は、この娘と過ごす時間について

「この世の天国です」と書いている。

そして正午近くには、販売人や実業家達の手紙の応対をする。そして夕方の6時から7時まで、再び娘と時間を過ごす。

フリーデリーケは、この家庭的な幸福について、ゲオルクに報告している。

また、日々のアンスバハへの訪問者についても書いている。

「亡命者のタクシス侯爵(姉のシャルロッテの義父)が、お供の人々と百人近くで、三時間程ここを訪れました。また、ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯爵が訪れました。

女性と子供、そして34頭の馬と共に。

今日は、シュックマン会長と一緒に夕食をとりました。」

また、フリーデリーケは、騎士小説やゲーテ、シラーとジャン・パウルなどの作品を読む事もあった。

 

 

 

 

1799年の夏には、長姉シャルロッテの提案で、彼女の住むハイデルベルクハウゼンで、家族が集合する事になった。

フリデリーケはその時の様子について、こう書いている。

「今日、久しぶりにハイデルベルクハウゼンで三人の姉達と集まりました。

たくさんの涙が溢れた、忘れられない日になると思います。」

ちなみに、この時居合わせた、ジャン・パウルは、この時の姉妹の光景から、

自作の小説「巨人」の中の、序文の「まさゆめ」の中で、「玉座におわす四人の、麗しく気高い姉妹方に」との言葉を添え、このメクレンブルクの四姉妹を、ギリシャ神話の四女神になぞらえ、この作品を姉妹達に献呈する発想が閃いたのだった。この中で、ルイーゼはアフロディーテに、シャルロッテはアグライアに、テレーゼはエウフロシュネに、フリーデリーケはタレイアに擬せられている。

 

 

この姉妹の再会の後、フリーデリーケが

テレーゼのいるレーゲンスブルクを訪れた事もあった。この時、フリーデリーケは、ディッシンゲンにあるトゥルン・ウント・タクシス家の、トゥルゲンホーフェン宮殿に滞在した。また、このフリーデリーケの訪問に対して、テレーゼがアンスバハとトリースドルフを訪問した。

1799年の10月18日に、カロリーネが、生後八ヶ月で、死去してしまった。

フリーデリーケは、娘の死の悲しみを、こう書いている。

「私のカロリーネは、私の腕の中で亡くなってしまいました、それは私に多くの痛みを与えます。」

803年には、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼが、

二ヶ月の長期旅行の際に、アンスバハを

訪問した。

1801年の12月30日には、ヴィルヘルムが誕生した。

そして、1804年の7月25日には、アウグステが誕生した。

アウグステが誕生した後、フリーデリーケは

弟に宛ててこう書いている。

「私の愛する男性、イクセルヒェンとヴィルヘルムヒェン、父親、母親と二人の子供達。

私は本当にこの幸福を楽しんでいます、

私は母親です。」

このように、今度は愛する男性と結婚した

フリーデリーケは、家族達と嬉しい再会を

したりしながら、アンスバハで夫のソルムスと幸福に暮らしていた。

しかし、ナポレオンにより、フリーデリーケのアンスバハでの生活が、脅かされていく事になる。

 

 

フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
ルイーゼとフリーデリーケ彫像
ルイーゼとフリーデリーケ彫像
フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール・フォン・プロイセン
フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール・フォン・プロイセン
ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン
ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン