ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネ
ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネ
フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
ロシア皇太子妃ナターリヤ・アレクセーヴナ(ヴィルヘルミーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット)
ロシア皇太子妃ナターリヤ・アレクセーヴナ(ヴィルヘルミーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット)
ヴィルヘルミーネ・フォン・エンケ
ヴィルヘルミーネ・フォン・エンケ
インゲルハイム伯爵夫人ユーリエ・フォン・フォス
インゲルハイム伯爵夫人ユーリエ・フォン・フォス

フリーデリーケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの母カロリーネ。

彼女は「偉大なる伯爵夫人」として知られていた。カロリーネの知性や才能については、あの女性に辛辣なプロイセン国王フリードリヒも、高く評価していた

彼女の知性や優れた会話の才能、そしてその皮肉なユーモア。

 

 

カロリーネは、一七二一年、ビルケンフェルト辺境伯クリスティアンの娘として生まれた。そして一七四一年にヘッセン=ダルムシュタットのエルブプリンツのルートヴィヒと結婚した。しかし彼は妻の彼女のように、文学や芸術などの文化や知的なことには、あまり関心がない人物だった。

知的で教養ある女性だったカロリーネにとっては、不十分なパートナーだった。

何よりも彼が熱中していたのは軍事演習、特に彼自身が所属していた、プロイセン軍の歩兵連隊に関することだった。

当然ながら、夫のこうした傾向について、カロリーネは苦々しく思っていた。

 

 

 

一七五一年の十月十日に、母親と同じ名前の長女カロリーネに続く、二人目の娘が誕生した。フリーデリーケ・ルイーゼ。

ベルリンでの一時的な滞在で、カロリーネはフリードリヒ大王とその家族と出会った。

そして、すぐに、国王フリードリヒとこの若い女性は、大きな知的共感を抱き合うようになった。またカロリーネ自身も、当時の著名な文学者のヴィーラント、クロップシュトック。そしてフランスの啓蒙思想家ヴォルテール、また更に当時の他の重要な数々の文学作品などの書物も読んでいた。

またヴィーラントやゲーテとは、彼女自身も交流があった。彼女はまた、独学でホメロスの著作までも読んでおり、広範囲な教養を備えていた。

 

 

一方、彼女の娘であるフリーデリーケ・ルイーゼの幼少時代については、ほとんどわかってはいない。とにかく彼女はとても静かな子供だった。

教養が深く、また才知ある母親のカロリーネにより、姉妹達と共に、彼女は幅広い教育を受けた。既に賢くかつ抜け目のない母親カロリーネは、この頃から娘達の将来の輝かしい結婚相手を見つけることも、視野に入れていた。一七五七年に、家族は彼らのヘッセンの家に戻った。カロリーネの夫のルートヴィヒは、再び彼の歩兵連隊狂いを楽しんでいた。妻のカロリーネが、娘達の輝かしい将来の結婚のために、野心と希望を抱いて、定期的にプロイセンの王族と通信している間。

一七六八年には、ついに夫のルートヴィヒが、ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯の爵位を継承した。カロリーネは、「偉大なる辺境伯夫人」としてその名声が、広く人々に知れ渡っていくようになっていく。

 

 

 

 

そしてこれから重要なのは、彼女の五人の娘達の結婚相手探しである。まず長女。

一七四六年に生まれたカロリーネ。

既に、ヘッセン=ホーンブルクのエルブプリンツのフリードリヒが相手として検討されていた。そして次は二女のフリーデリーケ・ルイーゼの夫を、探さなければならなかった。 

「夢の王太子妃」。フリードリヒ大王の名付け子(彼の甥で後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルムとフリーデリーケ・ルイーゼを結婚させるために)。彼の亡くなった弟アウグスト・ヴィルヘルムの長男。

そしてヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネの実際には、才女の母親にはあまり似ていない、特にこれといった才能もない娘のこのフリーデリーケ・ルイーゼは、プロイセン王太子妃にならなければならなかった、そして、将来のプロイセンの王妃。

しかし、一見晴れがましい縁談と呼ぶべきこの話であったが、実はフリーデリーケ・ルイーゼの将来の夫となる王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムには、既に国王フリードリヒにとっては姪のエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケという、最初の妻が存在していたのである。

そして彼女は王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムとフリーデリーケ・ルイーゼとの間に、こうして結婚話が持ち上がったわずか数ヵ月前に、既に離婚されていた。

そして更にそれでも、まだ彼の将来の二人目の妻のフリーデリーケ・ルイーゼの存在以外に、フリードリヒ・ヴィルヘルムの周辺には、ある一人の若い女性がいた。

 

 

 

 

 

美しいヴィルヘルミーネ・エンケ。楽師の娘。美しい女性を賞賛する彼の父のアウグスト・ヴィルヘルムの足跡を辿り、フリードリヒ・ヴィルヘルムは十八歳にして、既にベルリン劇場のそれぞれ違う女優達と、いくつかの情事があった。

この父親そっくりの放蕩者の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムのことは、彼を後継者にした叔父の国王フリードリヒの頭痛の種になっていた。

国王で叔父のフリードリヒは、日頃からこの甥で自分の後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルムに、何かと苦言を呈してはいたものの、一向に王太子の素行が修まることはなく、殆どこの彼の訓戒も効果がなかったようだ。

しかしフリードリヒの後継者は、まず何よりも第一線の兵士でなければならなかった。

このように、自分の後継者に指名はしたものの、国王フリードリヒは、父親のアウグスト・ヴィルヘルムに似て女好きで、専ら放蕩にばかり耽っている、この甥に以前から強い不信感と嫌悪を抱いていた。

ついには彼のことを「人間の屑」とまで呼んでいる。またこうも言って、強い憂慮を示している。「もし彼が国務に励まなければ、三十年後には誰もプロイセンやブランデンブルクのことを口にしなくなるだろう」とも言った。またフランスのミラボー伯も、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムについて「才能も気力もなく、小市民的な見栄を誇りだと思っている」と酷評している。

 

 

だがその内にこんな彼も、王太子として結婚しなければならなかった。

王家の叔父には、既に最適と思われる結婚相手のあてがあった。美しいエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ。

彼の妹シャルロッテの娘。現在のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵夫人。この彼女の娘のこの少女は、プロイセン国王フリードリヒが直々に会って審査した結果、とても完全な結婚相手だった。

教養があって美しくて魅力的、そしてとても気のきいた、そしてまた、多分甘やかされた甥をも十分満足させることができるであろうと判断された娘。

彼らの結婚式は、一七六四年七月十四日に、シャルロッテンブルク宮殿で祝われた。

 

 

しかし王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムには、以前から特別な女性が存在していた。

既に女性らしく成熟したヴィルヘルミーネ・エンケ。楽師の娘である愛人。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、一七六六年からの一年間、彼女をパリに行かせてやっていた。一七六七年五月に、王太子妃エリーザベトは、フリーデリーケという娘を出産した。

しかし、この娘の誕生でさえ、フリードリヒ・ヴィルヘルムのその理由には、到底ならなかった。美しいヴィルヘルミーネを手放すこと。またパリからの彼女の帰還の後、彼は毎日彼女を訪ねた。

やがて度重なる不貞と妻で王太子妃である自分への軽視に耐えかね、やがて王太子妃エリーザベトも、他の男性に慰めを求めるようになっていく。やはり、既に自分と結婚前からいた、愛人ヴィルヘルミーネ・エンケの存在も、彼女の不快感の大きな原因であったのだろう。

 

 

 

やがてこの彼女に続いて、フリードリヒ・ヴィルヘルムの二人目の妻となる、フリーデリケ・ルイーゼも、全く同じ苦しみを味わうことになる。その内に王太子妃エリーザベトは、イタリア人音楽家のピエトロという男性と知り合い、恋に落ちた。

そしてついには彼の子供を妊娠してしまうに至った。彼女の油断から、もちろんこの彼との関係は、秘密のままではありえなかった。彼女は恋人のイタリア人音楽家ピエトロとのイタリアへの逃亡計画までを立てていた。

しかし、これも当然、事前に宮廷内のプロイセン国王フリードリヒのスパイにより、筒抜けだった。彼は一七六九年の四月に、王太子夫妻の離婚を決定した。

エリーザベトはベルリンと彼女の小さな娘の許を去らなければならなくなり、キュストリンへ追放された。

そして彼女の愛人の音楽家のピエトロは、マクデブルクで処刑された。

そしてこの年の王太子夫妻の離婚の三ヶ月後に、国王フリードリヒは、尊敬し評価する、ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネの二女である、フリーデリーケ・ルイーゼとの結婚を、急遽決定したのである。

しかし、後にエリーザベトはシュテッティンに住むことを許された。彼女が一八四〇年に死去した所。

 

 

 

 

 

そして王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、再び結婚しなければならなかった。

フリードリヒの王朝が安全に存在し続けるために。その後、フリーデリケ・ルイーゼが、ヘッセンのダルムシュタットから選ばれた。例え彼女が特に美しくもなく、機知に富んでもいなくても、王朝存続のために、叔父のフリードリヒと甥のフリードリヒ・ヴィルヘルムは妥協して、このフリーデリケ・ルイーゼを、新たな結婚相手として選んだのである。フリーデリケ・ルイーゼは十七歳だった。

フリードリヒ・ウィルヘルムは、叔父の国王フリードリヒに宛てて、私はこれ以上のより良い選択もすることができないということを理解している、そして私は幸運ではないが、彼女とは友好的な関係を築けたらと思うと、あまり魅力的ではないフリーデリーケ・ルイーゼと結婚することになったことについての、あきらめと妥協の気持ちを表している。

 

 

 

王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムとフリーデリーケ・ルイーゼの結婚式は、一七六九年七月十四日に、再びシャルロッテンブルク宮殿で挙げられた。初めはお互いに彼らはよく会っていた。軍隊の駐屯で離れていなければならない時に、王太子がフリーデリーケ・ルイーゼに宛てて書いた手紙の内容自体は、妻に対する愛情の込もった感じの内容であった。一七七〇年八月三日に、初の息子は産まれた。再びフリードリヒ・ヴィルヘルム。

後の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世。

そして一七七二年のヴィルヘルミーネが続いた。しかし、この子供はわずか数週間目に死去した。一七七三年のルートヴィヒ。

彼はこの後公女フリーデリーケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツと結婚した。後のルイーゼ王妃の妹。

一七七四年には、再びヴィルヘルミーネという名前を付けられる娘が誕生した。

一七八〇年のアウグスト。一七八一年のハインリヒと最後に一七八三年の、最後の息子。ヴィルヘルム。

 

 

 

そしてこの度重なる妊娠で、フリーデリーケ・ルイーゼの健康は、度々危険に晒された。更に幼児達の教育は、両親の手には任されなかった。フリードリヒ大王が単独で決定したガイドライン。

とにかくフリーデリーケ・ルイーゼは、子供達への愛情は持っていた。

だがフリードリヒ・ヴィルヘルムの方は、妻にも子供達にも無関心だった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、少なくともほとんどの時間を、ヴィルヘルミーネと過ごす時間に費やした。愛される彼女の美。

ヴィルヘルミーネは、既に早い内から国王の愛人であったが、一七九六年にリヒテナウ伯爵夫人に列せられるまで、体裁上の理由から、その以前から王室財務管理官リッツの妻とされていた。

 さながら「プロイセンのポンパドゥール侯爵夫人」と呼びたくなるような、典型的な国王の寵姫ヴィルヘルミーネではあったが、彼女は決して自らはポンパドゥール侯爵夫人などのように、政治に容喙しようとはせず、自分が持つ国王への影響力を、私利私欲や政治目的のために利用しようとはしなかった。

 

 

 

そして貴族の女性ではないとはいえ、高い教養があったヴィルヘルミーネは、小さな「良き市民の集い」と称する、この後にベルリンで大変な隆盛を見せる多種多様なサロンの、いわば前身とも言える、小規模な人々の集いを主催している。しかし、この集いの常連客達は七人の紳士とその妻で、週一度の集まりには他のゲストを同伴する権利があった。

これは、このヴィルヘルミーネのこのサークルがある程度の解放性を持っていたことを示している。ベルリンのユグノーであった枢密顧問官のセザールとその妻エリーザベト、オランダのタバコ業者コーエン、そしてこの彼とその妻ジャネッテは、これも当時のベルリンでの有名なサロン主催者ヘンリエッテ・ヘルツやフランスの女性作家ジャンリス伯爵夫人と親しくしていた人々であった。

そしてこのヴィルヘルミーネが主催する「良き市民の集い」のメンバーではなかったが、度々招待されて出席していた客達の顔ぶれの中には、外交官、俳優、作家達もいた。

 

 

 

マルモンテルの作品などのフランス文学以外に、当時はギリシャへの関心が高まっていたから、ホメロスのドイツ語訳も読まれた。

更には国王お抱えの宮廷詩人フィリストリも顔を見せたし、詩人のカール・ヴィルヘルム・ラムラーと俳優フェルディナント・フレックが時々朗読を行い、両人は名人振りを発揮したという。またリヒテナウ伯爵夫人ヴィルヘルミーネが時々開いた優雅なレセプションや宮内官のためのパーティーは、洗練されていて、常に趣味が良かった。

彼女の音楽に対する理解力を称賛していた作曲家ディタースドルフも、ヴィルヘルミーネが催した夜会に魅了された。

彼女は楽長ライヒャルトの友人であり、プロイセン王女で後のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケのこれも当時有名であったサロンの常連客でもある、クールラント公妃ドロテアとも親しく交際した。

芸術支援者としての伯爵夫人ヴィルヘルミーネには、多大な功績があり、その一端として、プファウエンインゼル宮の造営に深く関わっていたことが挙げられる。

 

 

また、当時無名に近かった若い彫刻家ゴットフリート・シャドーに依頼して、早世した自分の息子であり、国王にも盲愛されたデア・マルク伯爵のために墓標を製作させてもいる。そして後にシャドーはベルリンきっての著名な彫刻家となり、彼の代表的な傑作の一つであり、現在のベルリンの「プリンセス集合像」の中の一つでもある、後にプロイセン国王の依頼を受け、メクレンブルクから嫁いできた王太子妃ルイーゼとその妹フリーデリーケ姉妹二人の彫像制作や一八一〇年に、多くの人々に大変惜しまれて亡くなった、プロイセン王妃ルイーゼの霊廟製作など、数々の代表的な仕事の依頼を受けるようになっていく。

 

 

 

一七九五年から九六年にかけての、伯爵夫人ヴィルヘルミーネのイタリア旅行では、画家アンゲーリカ・カウフマン、考古学者で美術史家のアーロイス・ヒルトと親しくなり、ヒルトをベルリンに呼び寄せている。

フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の依頼を受けて、イタリアで数々の美術品を買い付け、大きな作品のレプリカを注文したが、その一部は国王の死後になってようやくベルリンに到着した。豊かな教養に人々との会話の中で存分に発揮された、その才気煥発で洗練されたよどみない話し方など、このヴィルヘルミーネ・エンケには、あきらかに優れたサロン主催者としての才能があったことが証明されている。ただ、やはり、これだけはさすがに彼女が平民の娘であったせいか、手紙の中の正書法は全くの自己流であったという。

このような美しさと教養を備えた魅力的な女性であり、更に彼女のその無私の献身から、フリードリヒ・ヴィルヘルムのヴィルヘルミーネへの寵愛と信頼は、更に深まっていったに違いない。

 

 

 

 

そしてフリーデリーケ・ルイーゼは、不幸にも、このように強力なライバルを、相手にしなければいけなくなったのである。

王太子妃は、ただこの辛く惨めな状況に、特になす術もなかった。

特に彼女には少しの特定の、精神的なことに対する興味もなかったため、たちまち、結婚生活への不満と悩みでその日常生活は一杯になった。そしてまた、彼女はダルムシュタットの彼女の母に、手紙で恒常的なものについて、その不満を訴えた。

不実な夫の王太子についての。

だが母のカロリーネは、これに対してこの時の娘に対する、少しの慰めの言葉も、持ってはいなかった。

何よりも彼女が恐れたのは、この娘の王太子への不満により、せっかくプロイセン国王フリードリヒが仲介して成立させてくれた、この栄誉ある結婚が、前王太子妃エリーザベトの時のように、離婚へと至ってしまうことであった。この大きな野心あるカロリーネが最も重視したのは、娘のフリーデリーケ・ルイーゼの気持ちよりも、自分達の家の名誉であった。

 

 

結局そのため、夫への不満と悩みを手紙の中で盛んに訴えるこの娘に対して、聡明なヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネがせいぜいしてやれる助言と言えば、世の大勢の母親達が娘たちによく言うような、夫の王太子に対して、妻としての精一杯の愛と優しさを持って接しなさいという、賢明ではあるかもしれないが、ごく無難で一般的な内容のものであった。

一七七四年の、母であるヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネの死は、王太子妃フリーデリーケ・ルイーゼの人生において、大きな空洞を残した。

自分が頻繁に手紙の中で切々と訴える、夫への不満や結婚生活の苦悩に、せっかくのフリードリヒの仲介による、プロイセン王太子と娘との結婚を台無しにしたくない、カロリーネ自身の思惑もあり、ごく一般的な妻としてのあるべき姿の助言しかしてはもらえなかったものの、フリーデリーケ・ルイーゼにとっては、これまで頻繁にその手紙の中で、自分の悩みを吐き出して聞いてもらっていた、この母の死は、かなりのショックを与えた。

 

 

 

 

なおこのヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネの二女フリーデリーケ・ルイーゼ以降の、下の三人の娘達は、みな揃って魅力的であり、かつてフリードリヒ二世自身が、当時のロシア皇太子ピョートル(後のピョートル三世)の花嫁として、アンハルト=ツェルプスト公女ゾフィー、(後のエカテリーナ二世)を推薦した縁により、今度は彼が女帝となっていたエカテリーナの方から、息子の皇太子パーヴェルの良い花嫁を、ドイツから探し出して欲しいと頼まれていた。

そこで白羽の矢が立てられたのが、またしてもこのヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネの、フリーデリーケ・ルイーゼ以降の三人の娘達の、三女アマーリエ、四女ヴィルヘルミーネ、五女ルイーゼであった。カロリーネは、自分の娘達についての、国王フリードリヒからの再びの打診に、さぞ誇らしく思ったことだろう。

そしてまず今回も事前に国王フリードリヒが、直接彼女達を審査したが、皆いずれも魅力的で自分では決めかねるということなので、結局母親のカロリーネと共に三人揃ってロシアに送り、将来の義母や夫となる、エカテリーナやパーヴェル自身に審査してもらうこととなった。

 

 

こうして花嫁候補の娘達に従ってサンクトペテルブルグにやって来た、才能豊かなヘッセン=ダルムシュタット辺境伯夫人カロリーネは、エカテリーナとたちまち意気投合し、会話が弾んで何時間も話し込んだという。

この三人の花嫁候補達の中で、結局皇太子パーヴェルが、一番美しくて魅力があるとして気に入ったのは、四女のヴィルヘルミーネ(後にロシア正教に改宗し、ロシア名ナターリヤ・アレクセーヴナに改名。)であった。

ついにカロリーネの四女のヴィルヘルミーネが、ロシア皇太子妃としてめでたく選ばれたものの、彼女の結婚間近に問題が発生した。

 プロテスタントであった彼女の父ルートヴィヒが、断固として娘のロシア正教への改宗を拒否したのである。かつてエカテリーナの父親クリスティアン・アウグストが、娘の結婚時に、同様の反対を示したのと全く同じ問題が、また発生してしまったのである。

またこの嫁の改宗については、エカテリーナも頑として譲らず、また妻のカロリーネの主張により、しかたなく彼も折れ、不満ながらも娘の改宗に最終的に同意した。

しかし彼が娘のヴィルヘルミーネの結婚に出席することはなかった。

 

 

 

結婚間近にこうした一悶着がありつつも、何とかロシア皇太子妃となった、カロリーネの四女のヴィルヘルミーネだが、偏屈で気難しい性格の夫が好きになれなかった彼女は、

更にいつまでも義母のエカテリーナが、なかなか夫に実権を譲ろうとしてくれないことに不満を抱き、皇后なりたさに、盛んに夫のパーヴェルをせっついたり、あげく彼の親友でもあった廷臣のアンドレイ・キリール・ラズモフスキー伯爵と不倫に陥り、彼の子を死産、そしてその直後に二十一歳で死去してしまった。(皇太子パーヴェルの方はこの前妻の死去後、プロイセン国王フリードリヒの妹の、ブラウンシュヴァイク=アンスバハ辺境伯夫人ゾフィーの娘フリーデリーケを母に持つ、ヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテア・アウグステ・ルイーゼ(マリヤ・フョードロヴナ)と再婚し、この二度目の妻との関係は今度は大変に円満なものとなり、ロシア皇帝アレクサンドル一世、その弟の皇帝ニコライ一世などの、多くの子供達に恵まれた。)

 

 

 

そして三女のアマーリエは、バーデンのエルブプリンツのカール・ルートヴィヒと結婚した。アマーリエは当時の王侯貴族の常として、バイエルン王妃となり、その後にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世王妃エリーザベト・ルドヴィカやオーストリア大公フランツの妃ゾフィー大公妃達の母親となる、長女のバーデン公女カロリーネと同じく、本心では成り上がり皇帝であるナポレオンのことを嫌悪していた。

だがそれでも、彼女は長男のカールとナポレオンの皇后ジョゼフィーヌの親戚のステファニー・ド・ボアルネとの結婚を不承不承認め、「ライン同盟」、つまりナポレオン側に加わった、南ドイツの諸侯の一員として、しばらくは彼側に立ち、自国の領土拡大に成功している、なかなかやり手の女性であった。ちなみにこれも彼女の娘の一人のルイーゼ・マリー・アウグステは、エカテリーナ二世の孫のロシア皇帝アレクサンドル一世の皇后エリザヴェータ・アレクセーヴナとなっている。そしてザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アウグストと結婚した五女のルイーゼは、やはり母親と同じく文学や芸術に関心が高く、深い教養を持った女性だった。当時、ザクセン=ヴァイマル大公国の宮廷詩人で大臣でもあったゲーテも、このザクセン=ヴァイマル大公妃の崇拝者となっている。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・シラーなど。

 

 

 

 

 

一七八六年に国王フリードリヒ二世が死去し、ついにフリードリヒ・ヴィルヘルムは国王、フリーデリーケ・ルイーゼは王妃となり、彼女は自分がついにプロイセン王妃になれたことを喜んだ。

ところが、王妃となっても、何一つ彼女の憂鬱で冴えない日常は、変わることがなかったのである。相変わらずフリードリヒ・ヴィルヘルムの放蕩は修まらず、彼は一七八三年に、魅力的なユーリエ・フォン・フォスに対して、ヴィルヘルミーネ・エンケに対してよりも、一時、新たにより激しい情熱を燃やした。彼女は前王妃エリーザベト・クリスティーネの女官であり、そしてかつてのフリードリヒ・ヴィルヘルムの父アウグスト・ヴィルヘルムの恋人であり、一時は結婚までも考えていた、王妃ルイーゼの女官長ゾフィー・フォン・フォス(旧姓ゾフィー・フォン・パンヴィッツ)の姪でもあった。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、このユーリエに大変な寵愛の証である「名誉の女官」という称号を与えた。

そして更にその後彼女のことを「インゲンハイム伯爵夫人」にまで叙している。

 

 

そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムと美しいユーリエは、一七八七年に貴賎結婚をした。しかし彼女とのこの結婚は、二年しか続かなかった。この二十歳の若い女性は、肺結核にかかり、一七八九年の三月に、息子の出生の直後に死んだ。そして、官能的なこのプロイセン国王は、彼女のこの早死により、再び新しい女官のお気に入りを探さなければならなかった。しかし、フリーデリーケ・ルイーゼは、ずいぶん以前から、歳月と共にこのよそよそしい、ほぼ他人のような存在である夫にも慣れて、自分自身と子供達との生活を送っていた。またこの頃から、明らかに、数々の妊娠が原因だと思われる、彼女の最初の健康問題は現れていた。

 

 

そして、彼女は夏の間、ブランデンブルク近くにある保養地の、バートフライエンヴァルデで過ごすことが好きだった。

この場所には、その保養所を示す「バート」という呼称の通り、鉱泉が西接していた。その鉄分を含む鉱泉は、リウマチ性のトラブルの改善のために効能があることが知られていた。ここでは王妃フリーデリーケー・ルイーゼは、町の代表者を始めとする人々に歓迎され、必要とされた。または音楽の演奏。

やがてフリーデリーケ・ルイーゼは、この鉱泉のあるこの町のパトロンとなり、この町の文化的・経済的発展に貢献することになっていく。一七九二年以降から、王妃フリーデリーケ・ルイーゼは、ここにロマンチックなルストガルテンや薬局、ブドウ園などを作らせるようになった。そして一七九六年には、この場所に、建築家ダーヴィト・ギーリーにより、夏の離宮の建設もさせている。

そしてここで王妃はお茶会、コンサート、園遊会を催し、オペラや演劇などの上演もさせた。こうしてフリーデリーケ・ルイーゼは、この町を思う存分に、自分好みの快適な場所に変えていくことができ、煩わしく不快なことの多い宮廷から離れ、こうしてリラックスできる空間を持つことができるようになった。

 

 

 

 

おそらく国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世には、曾祖母のプロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテから、その音楽の才能が受け継がれていた。バイオリンとチェロを演奏して、王太子としてすでに独立した宮廷楽団を結成させていた。同時代の観察者。本部長キルヒナー。その彼による報告。

「二曲の室内楽コンサートが毎週開催された。そこで彼は非常に見事にチェロを彼自身で演奏した。今週の夕方はカーニバルがあった。そして現在の王妃フリーデリーケによる集い。月曜日。イタリアのオペラ。火曜日。ルドゥーテによるオペラ劇場。水曜日。終わりの日。木曜日。フリードリヒ大王の未亡人の前王妃エリーザベト・クリスティーネと一緒の集い。土曜日。大臣の一人と一緒の会合。」

長年の倹約の間、その豪奢なことを好む国王の輝きは、その時から、再びようやくベルリンと絡み合うことになった。

そして、特に美しい女性達には、機会が十分にあった。高価で華やかな衣装を示すこと。

前国王フリードリヒが最後まで心配していた、甥の国王としての莫大な散財振りが明らかになっていった。

前国王フリードリヒ二世とは違い、贅沢で派手好きの国王フリードリヒ・ヴィルヘルムが国王になって以来、自然と宮廷の女性達も、王妃を初めとして、皆高々と髪を結い上げる、大掛かりな手の込んだ髪型やこれまでよりも、ずっと華やかな服装をするようになっていった。

 

 

 

 

そして国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の治世の十一年間の間、プロイセンの文化的水準は、目に見えて向上していった。特にこの時期に、ドイツの芸術と文学は、大きな発展を遂げた。国王フリードリヒ二世が建てさせた、フランス喜劇場。それは、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世により、一七八六年に王立国民劇場と呼称を変えられた。

そして新たに専らドイツのオペラや、ジングシュピールが上演されるようになった。

楽しいか感傷的な劇作品によって、イフラントまたはコッツェブーの古典劇が上演開始された。アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・イフラントは、一七九六年に王立国民劇場の総裁さえ引き受けた。類似したドイツの芸術の発展は、オペラでも観察されることになっている。それまでプロイセンで長い間優位を占めていたイタリアの影響は抑制されて、その代わりにドイツの作曲家達の作品が上演されるようになっていった。

特にモーツァルトやベートーヴェンの作品が好まれた。

 

 

 

一七八九年五月十九日、ベルリン滞在中のモーツァルトが、この劇場で上演されていた「後宮からの誘拐」を見に行った。

またフリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、一七八六年にはハイドンに六曲の弦楽四重奏曲(プロイセン四重奏曲、作品50)を書かせており、ベ-ト-ヴェンも、国王に一七九六年に二曲のチェロソナタ(第1番と第2番)を献呈している。そして一七八九年の四月に、プロイセンのポツダムやベルリンの方に演奏旅行でやって来ていたモーツァルトは、王妃フリ-デリケ・ルイーゼの要望により、五月二十六日にベルリンで演奏会を行なった。

この演奏会でモーツァルトは、フリ-ドリヒ・ヴィルヘルム二世から、六曲の弦楽四重奏曲と、前妻のエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケ・フォン・ブラウンシュヴァィク=ヴォルフェンビュッテルとの王女フリ-デリーケ・シャルロッテのために、六曲の簡単なピアノ・ソナタの注文を受けている。モ-ツァルトは、この依頼を受けた後、六月四日にオーストリアに帰国。

 

 

 

モーツァルトはウィ-ンに戻ってから、プロイセン国王と王女に依頼された作曲に取り掛かったものの、一向に進行せず、合計二年をかけ、結局三曲の弦楽四重奏曲である、「弦楽四重奏曲第21番ニ長調K.575『プロイセン王第1番』」に「弦楽四重奏曲第22番変ロ長調K.589『プロイセン王第2番』・「 弦楽四重奏曲 第23番 ヘ長調 K.590『プロイセン王 第3番』」と、結果的にあまり簡単ではなくなってしまった、一曲のピアノソナタ「ピアノ・ソナタ18番ニ長調 K.576」だけの完成に終わった。

この内、弦楽四重奏曲K575「プロイセン王第一番」と「ピアノ・ソナタ二長調(K576)」は、一七八九年の六月に作曲し、ピアノソナタの方は、この年の七月に王女フリーデリーケ・シャルロッテに献呈。

「弦楽四重奏曲 第22番変ロ長調K589「プロイセン王 第2番」と、「弦楽四重奏曲 第23番ヘ長調K590「プロイセン王 第3番」は、一七九〇年の五月に完成した。しかし、実は一七八九年の時の、このプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世との謁見は、順調に行かず、招待されながら、モーツァルトは三日の間、謁見してもらえなかったという。

 

 

 

このモーツァルトのプロイセン方面への旅行は、当時経済状態が悪化していたモーツァルトが宮廷に仕事を見つけようと計画したものだったのである。

このように切実な事情を抱えていたため、モーツァルトは何とか国王に謁見してもらおうと、当時プロイセンの宮廷楽団楽長だった、フランス人のチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポール(プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世のチェロの教師でもあった。)に謁見を取り持ってもらおうと、彼の作品を基に、「デュポールのメヌエットによる九つの変奏曲 ニ長調 K573」を作曲した。しかし、デュポールは高慢な所がある人物だったらしく、モーツァルトとけんかになった事があるようだ。

だが最終的には和解したようである。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルムの方は、モーツァルトを宮廷楽団楽長に雇いたいとまで申し出た。しかし、結局この話は成立しなかった。

 

 

 

そしてプロイセン軍の将軍や他の将校と士官候補生達も、国王自らはチェロを演奏するオーケストラに、しばしば参加させられた。

一七八六年に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ベルリンにブレスラウの建築家カール・ゴットハルト・ラングハウスに新しい劇場の建造を依頼した。

また一八〇二年のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の記念碑、そして、それはすぐにベルリンの目印となる、ブランデンブルク門になった。

一七八八年から-一七九一年に建造。

そしてそこに一七九四年に、若き彫刻家のヨーハン・ゴットフリート・シャドーにより、新たに四頭立ての戦車クアドリガを駆る、ローマ神話の勝利の女神のウィクトーリアが加えられた。

 

 

 

 

 

王妃フリーデリーケ・ルイーゼは四十歳になっていた。長女の王女ヴィルヘルミーネが、一七七一年十月にエルブプリンツのヴィルヘルム・フォン・オラニエンと結婚した。

ネーデルラントの後の国王。

更に二年後には、後継者の長男フリードリ・ヴィルヘルムと優雅なルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ、そしてその弟ルートヴィヒ(ルイ)とルイーゼの妹フリーデリーケとの、二つの結婚式が行なわれた。しかし、フリーデリーケ・ルイーゼのこの義理の娘達は、あまり宮廷のマナーを守ろうとはしなかった。

そして王妃は義娘達のこういった傾向を苦々しく思い、彼女達は浮ついている、楽しいことばかりに耽る、良くない教育を受けたと批判した。しかし、この王妃の彼女達への注意は、あまり効果がなかった。

とはいえ、基本的には王妃は宮廷での生活よりも、自分がパトロンとなっている保養地のバートフライエンヴァルデで、多くの時間を過ごすことの方を好み、国王の妻として寄せられる、大勢の人々からの挨拶などを喜んで歓待した。

 

 

 

フリーデリーケ・ルイーゼは、通常毎週ポツダムのマルモア宮殿で彼女の病気の夫を訪ねた。王妃はずっと以前から、既に夫の愛人達に対する自分の嫉妬の感情を、無視するようになっていた。とはいえ、やはり長年の間、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムから妻として王妃としてないがしろにされ続け、専らヴィルヘルミーネ・エンケに注がれた大変な寵愛、そして彼女自身の存在には、屈辱と憤懣と恨みを抑えきれなかったようだ。

一七九七年十一月十六日の国王の死後、彼女の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム三世に、リヒテナウ伯爵夫人ヴィルヘルミーネ・エンケの宮廷からの追放と資産の没収を行なわせた。この一七九七年の夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムの死は、フリーデリーケ・ルイーゼに、少しの大きな隙間も与えず、またその生活を引き裂きもしなかった。

彼女の生活には何の変わりもなく、いつもの日々が続いた。

一八〇五年二月二十五日に、フリーデリーケ・ルイーゼは病気で倒れた。

彼女は数週前苦しんだ後に、死去した。

王妃フリードリーケ・ルイーゼは、ベルリン大聖堂に埋葬された。