エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン
エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン
ニンフェンブルク宮殿
ニンフェンブルク宮殿
フリードリヒ・ヴィルヘルム四世
フリードリヒ・ヴィルヘルム四世
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女アウグスタ
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女アウグスタ

エリーザベトは、1801年11月13日、バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフ一世と後妻のカロリーネ・フォン・バーデンの長女として生まれた。双子の妹のアマーリエと一緒の誕生だった。

 彼女達の後には、マリーとゾフィーの

双子、そしてルドヴィカの、三人の妹達が

生まれた。

 すでにバイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフには、先妻のアウグステ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットとの間に生まれた、長男ルートヴィヒ・カール・アウグスト、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚する次女のアウグステ、そして三女のシャルロッテ、次男のカール・テオドール・マクシミリアン・アウグストの、四人の子供達がいた。

 

 

 

 

 

エリーザベトは、家族の間では「エリーゼ」と呼ばれていた。なお、彼女の三番目の妹のゾフィーは、オーストリア大公フランツに嫁ぎ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大公妃となる。

そして四番目の妹のルドヴィカは、バイエルン公爵マクシミリアンに嫁ぎ、オーストリア皇妃エリーザベトの母となる。

更にこのルドヴィカの娘エリーザベトの代母となるのが、この同名の叔母エリーザベトだった。

 

 

 

当時のバイエルンは、ナポレオンの対ドイツ姿勢に関しては、いわゆる日和見政治を行なっていた。

ナポレオンの覇権を目にし、バイエルン公国は「ライン同盟」に加わり、ナポレオンの保護の下でバイエルンの領土拡大を図ったのである。実際に、バイエルン公国は、この「ライン同盟」に加わった事で、公国から王国に昇格する事ができた。

そして、ナポレオンが侵攻した、

かつてプロイセンの領土であったアンスバハも、バイエルンの領土となっていた。

このバイエルンの政治行動には、したたかなバイエルン王妃カロリーネの計算が働いていた。マクシミリアン・ヨーゼフの先妻の娘でエリーザベトの異母姉のアウグステは、1806年に、ナポレオンの義理の息子ウジェーヌ・ド・ボアルネに嫁がされていた。そしてバイエルンは、プロイセン主導で勃発した、「解放戦争」ではライン同盟を離脱し、プロイセンに加わった。

このように、バイエルンは激動の当時のドイツ情勢の中を、巧みに遊泳し、バイエルン王国の地位を確立していった。

なお、マクシミリアン・ヨーゼフの娘婿であったウジェーヌは、ナポレオン没落後は、ロイヒテンベルク公にされ、そこの領地を与えられた。

 

 

 

 

 

エリーザベトの父のマクシミリアン・ヨーゼフは、「最も市民的な国王」と呼ばれ、その親しみやすい性格や、市民階級的な暮らしぶりから、またバイエルンの国民には「良きマックス」という愛称で親しまれていた。バイエルン国王一家は、夏の間を子供達と、夏の離宮としてニンフェンブルク宮殿とテーゲルンゼー宮殿で過ごす事が習慣になっていた。 「ニンフェンブルク」とはニンフという名前の通り、「妖精の城」という意味である。国王夫妻の家族関係は円満で、エリーザベトは何の悩みもない、幸福な少女時代を過ごした。エリーザベトは、信仰心篤いカトリックとして成長する。

カトリックである事が、彼女のアイディンティティーの一部となっていた。

自分達自身も博識だったマクシミリアン・ヨーゼフと妻のカロリーネは、娘に広範囲の分野を含む教育をさせる事にした。

 

 

 

1809年に、エリーザベトの教育係として、プロテスタントの言語学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ティールシュが選ばれ、少女に文学、地理学や歴史、古典の著書、そしてフランス語会話を教えた。当時のバイエルン宮廷の宮廷語はフランス語だったからである。また、ティールシュは、フリードリヒ・ハインリヒ・ジャコビと、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・シェーリングと同じく、北ドイツのプロテスタントの科学者に所属しており、1807年にマクシミリアン・ヨーゼフがバイエルン科学アカデミーの改革をした時、ジャコビや、シェーリング同様に、迎え入れられた。

 

 

 

当時のドイツの政治情勢は、ナポレオン体制が崩壊し、混乱状態にあった。

エリーザベトが年頃になると、マクシミリアン・ヨーゼフは、北ドイツと南ドイツの同盟の結成を構想し、そのためになるエリーザベトの結婚計画を考え始めるようになった。当時、プロイセン王太子のフリードリヒ・ヴィルヘルムと弟のヴィルヘルムの花嫁探しが、ドイツ諸国の中で行なわれていた。バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフは、これに狙いをつけた。

当時プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世には、フリードリヒ・ヴィルヘルムとヴィルヘルムの、結婚適齢期の息子達二人がいた。

しかし、次男のヴィルヘルムの方は、

かつて親戚の、ラジヴィウ侯爵アントン・ラジヴィウとプロイセン王女ルイーゼ・フリーデリーケの娘で、魅力的なエリーザ・ラジヴィウとの恋愛事件を起こしていたのである。ヴィルヘルムは、エリーザとの結婚を強く望んだが、父のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、ラジヴィウ家がプロイセン王家との婚姻に相応しい家柄ではない事や、エリーザが カトリックである事から二人の結婚に反対し、もしエリーザとの結婚を断念しないならば、王太子の身分を剥奪するとまで言い渡した。

ヴィルヘルムは、痛恨の思いで、エリーザとの結婚を断念した。

弟のヴィルヘルムの方が父フリードリヒ・ヴィルヘルムに似た、プロイセン的気質であったのに比べ、どちらかというとこちらは母のルイーゼ王妃に似た気質であり、弟のヴィルヘルム以上にロマンチストだった、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、このような弟の悲しい恋の顛末から、王族同士の結婚に幻滅を感じ、これから会うバイエルン王女への関心は低かった。

 

 

 

1819年の夏に、国王一家はエリーザベトとアマーリエを連れて、バーデン・バーデンに滞在し、そこで二十四歳のプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと会った。プロイセン王太子と引き合わされ、18歳の若い乙女は、混乱状態に等しかった。この日のエリーザベトは、白い衣装に、ほぼ同じ色の帽子をかぶっていた。

一方、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、明らかにテーブルの前のエリーザベトに、好感を抱いていた。

彼は7月15日に父の国王に宛てて、この美しい王女との出会いについてこう書いている。

「私はエリーゼ王女の美しい瞳を見た時、驚きました」

更に彼はルイ・フェルディナント王子の姉

ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・ラジヴィウに宛てても、「彼女の美しい歯とダークブルーの青い瞳。その唇からは美しい歯が覗いていた」と書いている。

プロイセンの王子は、美しい王女に熱烈な恋をしていたのだった。しかし、エリーザベトの宗派が問題になった。

プロイセンはプロテスタント、バイエルンはカトリックだった。

だが、信仰心の篤かったエリーザベトは、簡単にプロテスタントに改宗する訳にもいかなかった。エリーザベトは、フリードリヒ・ヴィルヘルムとの結婚ができるようになる事を、信じて待つしかなかった。

両王家間で、この問題に対する議論は、紛糾し、4年もの時間が、流れていった。

 

 

 

 

プロイセン国王が、エリーザベトのプロテスタント改宗を、提案してきた。

結局、両王家間で妥協が成立し、

エリーザべト達バイエルン側は、結婚後、できるだけ早く、彼女がプロテスタントに改宗するという条件に、同意した。

結婚式は、初めはバイエルン王国の首都ミュンヘンで、そして続いてプロイセン王国の首都ベルリンで、行なわれる事になった。まず1823年の11月16日、ミュンヘンで花婿不在のまま、代理人を立て、カトリック式の結婚式が、行なわれた。

この結婚式の2日後に、花婿に宛てて、

エリーザべトはこう手紙を書いている。

私が新たに始めなければならない事と、

私が終わりにしなければいけない事があります。親愛なる友よ。

あなたのこれまでの、すべての美しくて

親愛な贈り物のために、感謝しています。

私は昨日、改宗を決意しました。」

エリーザべトにとって、カトリックの

信仰を捨て、プロテスタントに改宗しなければいけない事は、辛い事だったが、

長年思い続けたフリードリヒ・ヴィルヘルムとついに結婚できるという喜びは、

やはり大きかった。

当然、ついに長年の思いを実らせる事が

できた王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムも、喜んだ。 しかし、正式にエリーザべトがプロテスタントに改宗するのは、それから七年後の、1830年の事だった。

 

 

 

11月20日、エリーザべトは故郷の

バイエルンから、プロイセンへと旅行をした。七日後、ポツダムに到着したエリーザべトは、プロイセン国王一家全員から、大歓迎を受けた。この時、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、自分の義理の娘について、新たに詳しく知る事になった。

この時彼は、エリーザべトは美しく魅力的

だと、ほめている。

そしてこのプロイセン国王一家との対面から2日後に、ベルリン宮殿の礼拝堂で、今度はプロテスタント式で、 王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと、バイエルン王女エリーザべトの結婚式が、行なわれた。

当時すでにフリードリヒ・ヴィルヘルム

三世王妃ルイーゼが若くして死去してい

たため、まだ王太子妃だったエリーザべトが、事実上の、ベルリン宮廷第一の女性

としての役割を、果たさなければならなかった。

 

 

1825年の10月12日に、父のマクシミリアン・ヨーゼフが69歳で死去した。エリーザベトは、未亡人となった母王妃のカロリーネと共に、父の死を悲しんだ。

 そして1829年の夏には、長年の間エリーザを思い続け、長年の間独身を通し続けていた、エリーザベトの義弟ヴィルヘルム王子が、父国王の命令で、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の、アウグスタと結婚した。彼女は政治的野心を持った女性で、プロイセンで新たに自由主義を広める事や、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の、文化的水準の高い宮廷で育ち、文化的な事にも、深い関心を寄せていた。そしてその思想や、戦争を大変に嫌っていた事から、ドイツ帝国初代皇后になる彼女は、首相ビスマルクと激しく対立する事になる。彼女は自由主義、そしてエリーザべトは、どちらかというと保守主義だったため、義理の姉妹になる彼女達は、あまり打ち解けた関係には、ならなかった。

しかし、彼女達はその後、共に国内の教育

施設の充実や、慈善事業に励むようになっていく事は、共通していた。

 

 

 

アウグスタは、数十年後に、アンリ・デュナンの「赤十字協会」設立に、強い関心を

示し、実際かなり多額の寄付もしていた。

そして1866年に、後のドイツ赤十字の

前身となる、兵士達の看護のための、「愛国婦人協会」を設立し、フローレンス・ナイチンゲールにも会い、1868年には、

「アウグスタ病院」も設立している。

各学校や「ランゲンベックハウス」や「アウグスタ財団」なども設立している。

 

 

 

 

 

王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、

常に率先して、集まった人々と社会的な

話題について、活発に話し合った。

しかし、彼自身から話題が切り出される事は、ほとんどなかった。

彼は、自分が有能な話し手でない事は、

良く知っていたからである。

エリーザベトは、そんな時、いつも夫の傍らに、静かに座っていた。

夫の話が、よく聞こえるように。

そして、夫が話すのを聞いている時の彼女の表情には、明らかに彼の話への関心と、夫への称賛の色が、表わされていた。

このように、エリーザベトと夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムとの関係は、円満であり、また、学問的・芸術的な関心も、共有する事ができ、エリーザべトと夫との関係は、問題なかった。

 しかし、彼女が内気な性格だという事もあり、しばしば彼女は自己表現に困難を感じていた。このように、エリーザベト自身が常に感じていた、自己表現の困難と、いまだ子供に恵まれない悩みもあり、彼女のどことなく憂鬱そうな雰囲気は、新しい故郷プロイセンでの、彼女の人気に、良い影響を与えなかった。
その頃プロイセンでは、前プロイセン王妃

ルイーゼの、その早過ぎる死が非常に惜しまれており、プロイセン国内に、彼女の存在は、いまだに強い印象を与えていた。

まだプロイセンの人々は、前王妃と現王太子妃であり、将来のプロイセン王妃となる

エリーザベトを比較するのを、好んだ。
ルイーゼは、長年に渡るフランスとの戦いで、元々それ程丈夫とはいえなかった

健康を、更に悪化させる事になった。
しかし、それでも常に、彼女は人々と絆で

強く結ばれており、国民達と会う時も、

友好的な態度で接していた。

どんなに頭痛と歯痛に、よく悩まされて

いても。そして、友好的な態度を保ち続けていた。しかし、エリーザベトは、ルイーゼではなかった。
 

 

 

 

 

 

明らかに、彼女は疑う余地なく、美しかった。おそらく、ルイーゼ王妃と比較したと

しても。このようにエリーザべトも美しく、魅力も備えてはいたが、かつてルイーゼが放っていた魅力には、遠く及ばなかった。明らかにルイーゼと比べると、エリーザべトには魅力が不足しており、そして、ルイーゼが持っていた、独特のカリスマ性に欠けていた。

そして、彼女が内気な性格だったのも、マイナスの評価に繋がった。

エリーザベトの女官の、カロリーネ・フォン・ロホーは、彼女の性質全ては素晴らしいが、ベルリンの人々には、あまり親しまれていないと言っている。

 

 

 

このように、なかなか国民に好かれない事

に悩んだエリーザべトは、やがて子供や青少年達のための慈善事業に、自分の居場所・目的を見つけ出していく。

1824年に、エリーザべトにより、ポツダムに「エリーザべト財団」が設立される。これは将来女性使用人を目指す少女達のための職業訓練と、彼女達を大都市での危険から保護する事を目的として、設立された。また、この財団を経済的基盤として、大規模な私立学校の創設も行なった。また、1833年からは、貧しい人々と孤児の少年・少女達のために、主要都市の全てに、保育施設を開設した。

 

 

 

 

 

 

エリーザべトは、1830年の5月4日に、プロテスタントに改宗した。

しかし、彼女のこの改宗を、ベルリンの人々は、ほとんど信じていなかった。

現在でも依然として彼女は、

密かにカトリックの信仰を持ち続け、

それどころか、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムをも、カトリックに改宗させようとしているという噂まで、囁かれた。

また、当時のドイツ西部は、カトリックが

多く、そのドイツ西部のラインラントでは、カトリックだったエリーザべトのこの改宗は、よくない事として受け取られた。

 プロイセンの首相、ホーンローエ=インゲルフィンゲン公は、エリーザべトに

ついて、こう言っている。

「彼女はいまだにカトリックの信仰を持ち

続けていると、人々に思われている。

彼女は、近寄り難い女性だと、思われている。おそらく彼女の生活の唯一の目的は、彼女の夫と、そして慈善事業を通して、貧しい人々の生活を、改善する事にある。

彼女は控えめな性格である。

そして、誠実で素朴だ。また、彼女は喜劇が好きではなく、いつもその臆病な鹿のような、大きな美しい瞳で、黙って劇を観ていた。」

 

 

 

依然として、居心地の悪さをベルリンで

じていたエリーザべトは、当然の事ながら、故郷バイエルンにいる、母や兄達とまた会いたいと思っていた。

この頃すでに十歳以上年の離れた異母姉達は、結婚しており、また妹達も全員、

結婚していた。双子の妹のアマーリエは、

1822年に、ヨーハン・フォン・ザクセンと結婚していた。(1854年から1873年まで、ザクセン国王即位。)

そして三番目の妹のゾフィーは、1824年に、オーストリア大公フランツ・カール・ヨーハンと結婚していた。

そして、それ以降ウィーンに住んでいた。四番目の妹ルドヴィカは、1828年にバイエルン公爵マクシミリアンと結婚していた。そして二番目の妹マリーは、1833年に、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ザクセンと結婚した。

(1836年から1854年まで、ザクセン国王即位。)

夏に、エリーザべトは家族達と会うために、テーゲルンゼーまで旅行をした。

また、ドレスデンでアマーリエとも、会っている。エリーザべトは、夫のプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと共に、国の代表として、ラインラントやヴェストファーレン地方などを公式訪問しなければならない務めがあったが、時々病気のためバート・イシュルやバート・エムスなどの鉱泉地で療養し、夫と一緒に訪問できない時があった。

 

 

 

 

1840年の6月7日、エリーザベト38歳の時、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が死去し、新たに希望と信念を 持った、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルム 四世が即位し、彼女はプロイセン王妃となった。フリードリーヒ・ヴィルヘルムは、 知的かつ夢想的な所があった。

知的で想像力豊かな新しい国王は、

早速硬直化した、父親の連隊を、廃止する事にした。 そして、新しい人事を、行なった。 また、愛国詩人で作家であり、1820年のブルシェンシャフト運動に参加したとして、「デマゴーグ狩り」にあい、当時ボン大学の歴史教授の職を追われていたエルンスト・モーリッツ・アルントを、復職させる。 アルントは、グライフスワルト大学やイエナ大学のフィヒテの下で神学を修め、後にグライフスワルト大学歴史学教授となった。

「時代の精神」4巻の民族主義とナポレオン批判が原因で、一時はスウェーデンへ、更にシュタインと共にロシアへ亡命 していた。その間彼は当時ナポレオンのドイツ支配により、存亡の危機に立たされていた、自国プロイセンなど、ドイツの諸邦国の現状を憂い、多くの愛国詩、論説によって、ドイツ国民意識の高揚に 努め、ナポレオンのドイツ支配に反対して、闘っていた。解放戦争後は、ボン大学の歴史学教授となったが、1820年のブルシェンシャフト運動に関与したとして、免職されていた。 また「体操の父」と呼ばれるようになった、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンを、 警察の監視から解放した。

このように、フリードリヒ・ヴィルヘルム

四世は、自由主義者達の名誉を回復した。

その後、この二人は「フランクフルト国民議会」の議員にまでなっている。

当時のドイツでは、ドイツの学生運動「ブルシェンシャフト」がきっかけとなり、1819年の9月20日に、メッテルニヒ主催により、ボヘミアの鉱泉地カールスバートで開かれた、ドイツ連邦議会での採決に より、「カールスバート決議」が行なわれていた。ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを 決議し事実上、これによってブルシェンシャフトは壊滅した。

このように、メッテルニヒによって、「ウィーン体制」が、着々と推し進められていった。すでに、数年前から、このような 保守化を進めていたメッテルニヒの影響を、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、強く受けるようになり、これにより、 フンボルトやハルデンベルクの憲法構想や ヨーゼフ・ゲレスらのライン州の憲法制定 請願運動は、頓挫した。

現実に、当時プロイセンではプロイセン憲法準備のために、特にハルデンベルクやフンボルトなども所属する、ある種の委員会が作られてはいた。更に各地方では当地に

おける憲法問題や憲法制定への願いについての公聴会も開かれた。しかし、これらの努力は全て時間が長くかかり過ぎて何の成果も得られないままであった。

そしてすでに国王自身が1819年以降、

メッテルニヒの意のままになっていた事も

あり、反立憲主義者や助言者達が、国王への影響力を強めていた。

この実現しなかったプロイセンの憲法制定と国民代表議会の導入は、1815年に、

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世自身が約束し、政府内でも改革派により構想が

練られていたものだった。

しかし、メッテルニヒはこれについて、プロイセン国王に近づき、全国議会ではなく州単位で、しかも古い身分制議会の道を採るよう、説得をした。

 

 

 

 

 

 

 

そしてメッテルニヒのこの動きが功を奏し、 1821年には、全国議会の創設の無期延期が宣言され、1823年には、貴族、都市 市民、農民から構成される、身分制的な州議会が成立した。

メッテルニヒ外交の、成功であった。

メッテルニヒは、プロイセンに、ナポレオン帝国崩壊後のヨーロッパ秩序維持のパートナーとして、全面的な協力を、求めたのである。 また、当然このようなプロイセンの保守化と平行して、ハルデンベルク、フンボルトや ボイエン、シュタインやグナイゼナウなど、かつての改革官僚達は、後退を余儀なくされる事になった。

実際に、この一連の動きに より、1819年の10月には、彼ら改革派官僚・大臣の多くが追放され、自由主義的政策の政治家で、かつて国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼの信頼も厚く、プロイセン復興に、多大な役割を果たした、当時プロイセン王国の首相だったハルデンベルクでさえ、引退を余儀なくされた程だった。1815年以降王政復古の時代と共にプロイセンでは、かつての愛国的プロイセン改革派は、立憲運動などにより、

すでにメッテルニヒの影響下にあった国王

と対立する存在となり、君主制に反対する

ジャコバン派とみなされるようになっていた。そして、1816年に、

この「ジャコバン派」の嫌疑をかけられた グナイゼナウは、自ら退職を願い出ていた。  

 

 

 

 

 

 

1815年頃のベルリンの、比較的自由な 政治的雰囲気が、このような形に変貌して いき、グナイゼナウなどの改革派の追放へと繋がり、プロイセン改革が進まなくなり、 一部縮小の憂き目にあった事は、改革派に 近かった、当時のベルリンサロン社交界の 多くの参加者達をも、諦めの境地に至らせた。

多くのプロイセン改革派が出入りしていた、エリーザべト・シュテーゲマンの サロンでも、プロイセン国内のこのような 政治の展開に、不満の声が洩らされていた。特に、エリーザべトの夫でこの家の主人で ある、枢密顧問官であり、ハルデンベルクから高く評価され、1819年の1月2日に発刊された、「一般向けプロイセン新聞」の編集長に彼から当時指名されていた、フリードリヒ・アウグスト・シュテーゲマンは、不満であった。

このような保守化の流れが一気に進んだ事で、当然彼のような改革主義者は、難しい立場に立たされる事になったからである。カールスバート決議以来、検閲規制は強化されていた。

プロイセンでは警察庁長官カンプが全権を

握り、自由主義を標榜する疑わしい面々や

潜在的な「革命家達」に対処した。

そしてこのシュテーゲマンが編集長を

務める事になった国家新聞でさえ、

厳しい監視下に置かれ、この新聞がマスコミによる「デマゴーグ狩り」の道具にされた事への彼の抗議も、無駄であった。

ハルデンベルクとの率直な話し合いの席でも、シュテーゲマンは、カールスバート決議を認めるべきではなかったと非難した。

これに対し、ハルデンベルクは諦め顔で

ただ自分は束縛されているとほのめかした

だけだった。彼は、シュテーゲマンが

新聞編集長の職を辞するだろうと思って

いた。シュテーゲマンは「自由主義者」

とみなされているから、検閲委員会メンバーに任命されていなかったからである。

しかし、さしあたり、シュテーゲマンの後任がいなかったため、彼は1820年まで、不愉快な制約の元で編集長の地位に就いていた。このように、エリーザベト・シュテーゲマンのサロンでは、自由主義を標榜する夫の友人や仲間達が来て、検閲規制と拡大する政治的不自由さを嘆いた。

このように、立憲制への努力が抑制されるという、王政復古時代の保守的な空気は、

ベルリンにおける政治的関心を衰えさせ、

新国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の

即位する年まで、再び各サロンでも興味深い政治的会話がされる事が、なくなっていった。このような当時の政治的背景があったため、優柔不断で指導力に欠ける傾向が

あり、メッテルニヒに従属するようになってしまった、前プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世とは違い、進歩的な人物とみられていた、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が、「デマゴーク狩り」にあっていた人々を、解放している事などから見ても、父国王が公約した憲法制定を、今度こそ実現し、プロイセンを立憲国家にしてくれるだろうと、国内の自由主義者達は、大いに期待を持って、新国王の出現を歓迎したのである。

しかし、結局彼らの期待は、またも裏切られる事になるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼はカールスバートの決議におけるような反動ではなかったが、実際には政治的ロマン主義の身分制国家思想を遵守し、王権神授説を信じていた。

このため、彼は「王座についたロマン主義者」と呼ばれた。そして父と同じ方法で、王国を統治しようとし、彼の政治的遺言に、強く依存していた。

プロイセンは、成文憲法を持つべきべきではなく、伝統に倣って君主の義務を果たし、神の前での責任を引き受ける事が、国家の安寧を保証すると言うのである。

しかし、彼はもう父のようなやり方で国を統治する事は、不可能だという事に気付いていた。実際の行動としては、やがてプロイセン国内の、立憲的な流れに譲歩していかざるを、得なくなっていく。

しかし、あらゆる陣営からの政治的幻滅を

感じさせる事になる、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世は、文化的な面では大きな役割を果たした。

文化に理解が深かった彼は、大いに芸術や

学問を奨励し、また首都の建設にもあたり、著名な学者達をベルリンに招聘した。

三十年前の1810年前後と同じく、特にこの時明らかになったのは、ドイツの都市が文化国家ドイツの頂点に立ちうる、という事だった。

出版業者のユーリウス・ローテンベルクは、 この事に関連して、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世について、こう語っている。「この君主は後年の翳った光のもとで見られ、我ら民族の統一のために何をしたか、忘れられがちだ。

王はベルリンを、ドイツの政治的首都にする以前に、まず精神的首都となしたのである。」

 

 

 

 

 

 

個人的・世代的な要因もあるとはいえ、

このように各文化政策に熱心な国王の下、

再びベルリンの各サロンも、

活況を呈した。フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の治世下の1840年―1850年代には、16ものサロンが、同時期に存在して いた。また、このようなサロンの誕生だけではなく、この周辺領域からは、当時の宮内 大臣の娘で、ベルリン駐在オランダ公使ハインリヒ・フォン・ペルポンヒャーの妻のアデライーデ・ペルポンヒャー伯爵夫人の純然たる宮廷サロンや、学者達が集まった、エジプト学者リヒャルト・レプシウスの妻で、後の有名なサロン主催者の一人ザビーネ・レプシウスの義母にあたる、 エリーザベト・レプシウスの邸などがあった。1840年代以降のベルリンの

サロンにおいては、諸学問と造形美術が隆盛を見せていた。

ビーダーマイヤー時代初期にはすでに、美術は音楽同様に、初期のサロンにおける

大きな役割を果たすようになっていた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の即位後、 画家や版画家そして彫刻家が更に進出し、文学サロンと同様、美術サロンも盛んに成立する。例えば、ヘンリエッテ・パールツォ、ヘートヴィヒ・フォン・オルファース、またバルドゥア姉妹の第二のサロンなどがそれに当たる。

 

 

 

このような各サロンを拠点にして、芸術家、文学者、学者、教養市民及び宮廷貴族達が、以前より更に活発に交流を始めた。当時のサロンは再び文化生活の重要な一部をなすようになり、王族や宮廷貴族と密接に関わっていた。

国王は当時の有名なサロン主催者の、

ベッティーネ・フォン・アルニムとは文通をしていた。やがて1843年発刊の、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世に宛てた、いわば彼女なりの「君主論」とでも言うべき、「この書物を王様のみもとに」は、サロンや私的サークルの場で、賛否両論の大きな議論を巻き起こす事になる。

エリーザべト・シュテーゲマンの娘で、これも当時の有名なサロン主催者の一人で

あった、外交官夫人ヘートヴィヒ・オルファースとは、プロイセン国王夫婦ぐるみで、親しく交流していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は両親と共にケーニヒスベルクに

亡命中だった幼い頃から、前プロイセン国王夫妻のフリードリヒ・ヴィルヘルム三世とルイーゼ王妃の子供達、また、ラジヴィウ侯爵家の子供達とも、親しく遊んだ仲だった。また、プロイセン国王後のドイツ皇帝ヴィルヘルム一世と後のプロイセン王妃でドイツ帝国皇后になる、アウグスタの娘で後のバーデン大公妃になるルイーゼと、

ヘートヴィヒ・オルファースの姪クレアヒェン・フォン・グリースハイムは、一緒にコブレンツで育てられたくらいである。

このヘートヴィヒのサロンは、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の要望で、ベルリンにおける芸術家と学者が集まる、半ば公式的な中心となった。

 

 

 

ヘートヴィヒ・フォン・オルファースのサロンは、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の治世下で最盛期を迎えた。

当時は特に多くの芸術家達が、ベルリンに長期滞在していたのである。

1840年―1860年の間、オルファース家のサロンは、まちがいなく芸術、学者、文学者や王侯貴族が集まる、

最も重要な場所となっていた。

オルファース家の「木曜会」に、しばしば現われた芸術家には、かつて前プロイセン王妃ルイーゼとフリーデリーケ姉妹の傑作を製作している、彫刻家のゴットフリート・シャドー及びクリスティアン・ラウフ、画家ヴィルヘルム・ヘンゼル、ヴィルヘルム・ヴァッハ、ペーター・フォン・コルネリウス、ヴィルヘルム・シャドー。フランツ・クリューガーやアドルフ・メンツェルなどがいた。

またこの時代の後期ロマン主義や後期擬古典主義の画家や彫刻家の他の、ヘートヴィヒ・オルファースのサロンに出入りしていた文化高官の一人アレクサンダー・フォン・フンボルトは、当時のこのサロンの常連客の中でも、中心的な最重要人物であり、国王に最も近い顧問役の一人でもあった。他にも、文化大臣アルテンシュタイン及びアイヒホルン、外交官で歴史家でもあったアルフレート・フォン・ロイモントなどがいた。また、学者達では歴史学者レオポルト・フォン・ランケ、ギリシャ学者エルンスト・クルティウス、そして妻のザビーネ・レプシウス夫人自身も、著名なサロン主催者であった、エジプト学者リヒャルト・レプシウスなどがいた。

 

 

 

 

また王妃エリーザベトも、夫と共に、砲兵隊長パールツォ夫人で、宮廷画家ヴィルヘルム・ヴァッハの妹であった、当時の有名なサロン主催者かつ人気女性作家であった、ヘンリエッテ・パールツォの小説「ゴドヴィ城」や「サン・ロシュ」などを愛読していた。彼女の愛読者には、他にも国王の姉でロシア皇帝ニコライ一世の妻になり、ロシア皇后となっていた、プロイセン王女シャルロッテ、フランス国王ルイ・フィリップの長男のオルレアン公フェルディナンと結婚していた、オルレアン公妃ヘレーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン、アレクサンダー・フォン・フンボルト、ロンドン・プロイセン大使のハインリヒ・フォン・ビューローなどの著名人達の読者が、多数名を連ねていた。

そしてこのヘンリエッテ・パールツォの

サロンの方も、ヘートヴィヒ・オルファースのサロンと同じく、名士の客を集めていた。 ヴィルヘルム・ヘンゼルや、クリスティアン・ラウフなどの画家や彫刻家達の他にも、カール・グツコー、ハインリヒ・ラウベ、ファニ・レーヴァルトやアレクサンダー・フォン・ウンゲルン=シュテルンベルク、更に、ルートヴィヒ・ティーク、エリーザ・ アーレフェルト伯爵夫人らの作家達、また有名女優のシャルロッテ・フォン・ハーンなどが訪れていた。

 

 

 

エリーザべトは、王妃になってから、益々国の代表としての仕事が増え、以前よりも更に熱心に、病院や孤児院などを訪問するようになった。

エリーザべトの、夫への政治的な事に対するアドバイス自体は、ごく単純なものだった。 しかし、彼女なりの方法で、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムを支えた。

エリーザべトは、夫の心を落ち着かせる方法を、知っていた。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、彼が幼い頃に両親も心配していたように、騒々しくて不安定で、激しやすい、かんしゃく持ちの所があった。

そんな時、エリーザべトは彼の気持ちを、

落ち着かせようとした。

1841年の11月、フリードリヒ・ヴィルヘルムとエリーザべトは、ミュンヘンへと 旅行をした。エリーザべトの母カロリーネの、65歳の誕生日だった。

ナポレオンの覇権の前に、ヨーロッパ中が

混乱していた中、その中でナポレオン一族との婚姻政策などにより、巧みにバイエルンの立場を強化し、精力的で気丈だった

バイエルン王妃カロリーネは、長い事心の病を患うようになっていた。

しかし、この二人のミュンヘン訪問から

間もなく、カロリーネは11月13日に、

死去してしまった。

この突然の母の死に、エリーザべトは深い悲しみを、表わした。

 

 

 

プロテスタントだったカロリーネは、ミュンヘンのテアティーナー教会への埋葬を、拒否されてしまう事になった。

バイエルン王妃カロリーネの遺体は、ひとまず、簡素な教会に留め置かれたまま

だった。そして、たった一本の蝋燭も、

燃やされていなかった。

死者の棺は、いまだに祝福を受けられないままだった。以前の時代は、このような信仰に 対して、稀な寛容さを表わされていたが、再び原理主義的な宗派の、デモンストレーションが行なわれる時代になってしまった。 エリーザベトは、またこのような、カトリックとプロテスタントの、信仰の違いによる問題に、悩まされる事に

なった。このような形で、一向に正式な母の葬儀と埋葬が行なわれない事を、彼女は個人的な侮辱のようにすら、感じていた。

このような悶着があり、カロリーネの埋葬を巡り、しばらくの間論争が続いたが、

何とかカロリーネは、バイエルンのテアティーナー教会に、無事に埋葬された。

1842年9月に、厳粛なケルン大聖堂の

起工式が、行なわれた。

これは、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が、特に、力を注いでいた建設事業だった。 カトリックのケルン教会とプロイセンの国の間での、和解が新たに必要だった。しかし、大勢が参列していた教皇ミサの間に、エリーザべトはきまりが悪い、失敗をしてしまった。

プロテスタントに改宗してからも、この時子供時代から、すっかり身に付いていたカトリックとしての作法が、本能的に出てしまったのである。

そして、不用意な振る舞いと参列者達から、 思われてしまった。

このように、エリーザべトはプロテスタントに改宗してからも、なかなかプロテスタントに、なりきる事ができなかったようである。