ゾフィー・ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン
ゾフィー・ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン

ゾフィー・ルイーゼは、1685年5月16日、メクレンブルク=シュヴェリーン=グラボウ大公フリードリヒ一世と、クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ホーンブルクとの子である四人兄妹の内の、 一人娘として生まれた。彼女は宗教に関しては、厳格な、ルーテル派の教育を受けた。

1688年、父のフリードリヒは彼女が 3歳の時に亡くなった。

ゾフィー・ルイーゼの子供時代は、喜びの少ないものであった。

彼女は内向的で信仰心厚い公女として成長した。

 

 

彼女は1708年の11月28日に、プロイセン国王フリードリヒ一世と結婚。

この時ゾフィー・ルイーゼは23歳、フリードリヒ一世は51歳だった。

前妻のゾフィー・シャルロッテは、1705年に死去していた。

当時の国王には彼女との間に、18歳になる王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムがいたが、息子一人だけでは心許ないと考え、更に息子を増やすべく、新しい王妃を迎える事にしたのであった。

素朴で利口そうな感じがし、そして若くて美しいという事で、ゾフィー・ルイーゼが選ばれる事になった。

国王にとってはエリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・ヘッセン=カッセル、ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファーとの結婚に続く、三度目の結婚だった。

 

 

フリードリヒ一世は、彼女をその美しさから「メクレンブルクのヴィーナス」と呼んだ。しかし、結局の所、国王は新しい妃には興味がなく、ゾフィー・ルイーゼには出産能力しか求めていなかったのである。

ベルリン宮廷の人々の目には、新しい王妃の様子が緊張で強張り、またどこかその動作がぎこちなく映った。

だが、新しい王妃への印象は、概ね好意的だった。ゾフィー・ルイーゼには、人を魅了する、素朴さが備わっていたのである。

しかし、その内にゾフィー・ルイーゼは、宮廷で嘲笑されるようになった。

特に女官達が彼女のマナーがなっていないとして、彼女の事をあざけ笑った。

そのような中でも、少しは宮廷内にゾフィー・ルイーゼの理解者もおり、それが彼女のわずかな慰めとなった。

特に、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと王太子妃ゾフィー・ドロテアは、彼女に好意的な態度を隠そうとしなかった。

この事を、国王の長年の愛人であり、新王妃の出現を快く思っていなかった、ワルテンベルク伯爵ヨーハン・カジミール・コルベの妻カタリーナは面白くない事と思った。

 

 

だが、ゾフィー・ルイーゼは宮廷の社交に溶け込む事ができず、そうした集まりの中で、ついに黙り込むようになってしまった。

もはや、彼女が宮廷内で自分の立場を改善するには、一刻も早く国王の子供を妊娠する事だった。12月の、ハノーファーの内々の集まりでも、既に国王が王妃を医者に診断させた事が知れ渡っていた。宮廷の人々はゾフィー・ルイーゼが妊娠しないのは、彼女のせいだとして、王妃を一斉に非難した。

国王の方も、自分の性交の能力には、何の問題もないと思っていた。

しかし、実はそれは彼の思い違いだったのである。 ゾフィー・ルイーゼは、今回の件で、人々の隠れた悪意を痛感した。

そして特に当時国王の寵臣として、ダンケルマンに代わり、絶大な権力を振るっていたワルテンベルク伯爵ヨーハン・カジミール・コルベやその妻カタリーナがこうした人々の中心的な存在だった可能性が考えられる。

 

 

1708年12月29日、彼女は同じように不幸な結婚という事で、共感を抱き合っていた義理の娘ゾフィー・ドロテアに宛てて、こう書いている。

「私が思う、国王の不安についてです、私の素晴らしい、愛し評価している娘へ、 私は確信している事があります、それは私のこの結婚はけして快適なものにはならないであろうという事です、 おそらく人々は私より、故人の前王妃の方が、より良い存在だったと考えているのでしょう。」

実際に、彼女は依然として妊娠しない事に対しての国王達の非難に耐え続けていた。

冷ややかで同情心のない宮廷の人々に囲まれ、若い王妃の宮廷生活は、しだいに破壊されていった。そんな辛い日々の中で、彼女の慰めになったのは、シュヴェリーンから彼女に同行してきた、女官のフロイライン・グラヴィニッツの存在だった。 

ゾフィー・ルイーゼは、彼女と共に聖書の中の一節を唱える事で、心の慰めとわずかに元気を与えられた。

しかし、このグラヴィニッツは偏狭で狂信的な、ルーテル派の信者だった。

 

 

ゾフィー・ルイーゼがプロイセンに来てから、こういった敬虔主義者達が、彼女に影響を及ぼすようになっていった。

そして過度に禁欲的な信仰姿勢に傾倒するようになっていき、生活を楽しくする音楽、ダンス、喜劇なども永遠の天国の至福への到達を妨げるものとして、忌避するようになっていく。このようなゾフィー・ルイーゼの信仰姿勢が原因で、やがて享楽的な国王フリードリヒ一世との間で、口論が絶えなくなっていく。 1711年の記録によると、8時から15時の間、突如王妃ゾフィー・ルイーゼの命令により、人々の散歩、楽しい遊び、また浮かれ騒ぐ事などを禁止する命令が出された。 彼女の狂信的傾向は、日毎に度合いを増していった。 1711年の5月27日に、ゾフィー・ドロテアはこのような事を書いている。 「王妃は国王に愛されているとは思えません・・・・・・いつか、国王は私にこう仰いました。「私にとっては故人の前王妃の死が、依然として悲しみをもたらし続けている。」と。 また、彼女はその後の11月27日にも、王妃の言動の全てが、狂信的な感じだと書いている。

ゾフィー・ルイーゼは、より一層、周囲から孤立していった。

 

 

国王フリードリヒは、彼女の女官で狂信的なグラヴィニッツが王妃に悪い影響を及ぼしているとして、ついにこの年の内に彼女を宮廷から追放し、メクレンブルク=シュヴェリーンへと帰させた。

しかし、これが逆効果となった。

宮廷内で唯一心を許せる存在であった、グラヴィニッツと引き離されてしまったゾフィー・ルイーゼは、自分をたまらなく不幸だと感じ、深い憂鬱感に陥っていく。

その内に彼女は、突然荒れ狂ったり、絶望的な様子で泣き出したり、ヒステリックに笑い出したりするようになった。

王妃は心の病にかかっていたのである。

ある時、夜に宮廷で奥方達が寛いでいた時、彼女達は突然パニック状態になった。

長くて白いナイトガウン姿のまま、宮廷中を彷徨う王妃の姿を目撃したのである。

フリードリヒも、妻の尋常ならざる行動に、恐れ慄くようになっていった。

その内に、ゾフィー・ルイーゼは、ホーエンツォレルン王家に伝わる、 伝説の幽霊「白い貴婦人」のように見なされるようになっていった。精神病患者となり、状態が悪化するばかりの妻ゾフィー・ルイーゼを、ついに国王は自分が亡くなる数週間前の、1713年の2月に、メクレンブルク=シュヴェリーンに帰した。 この月の25日に、国王フリードリヒ一世は死去した。  

一方、不幸な王妃ゾフィー・ルイーゼは、22年後の1735年 の7月11日、心の病が治らないまま、50歳で死去した。

なお、ベルリン宮廷で勢力を持っていたワルテンベルクだが、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が即位すると、直ちに宮廷から彼ら一派は駆逐された。