オリガ・ニコラエヴナ・ロマノワは、
ロシア皇帝ニコライ一世の娘で、
ヴュルテンベルク国王カール一世王妃。
オリガは1822年の9月11日に、
ロシア皇帝ニコライ一世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴエナ(プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の娘で
プロイセン王女のシャルロッテ)の次女として、アニスコフ宮殿で生まれた。
オリガは、孫達の仲でも特に、
祖母のマリヤ・フョードロヴエナに可愛がられた。祖母は、この孫の独創性に気がついていたのである。
オリガは家族や周囲の人々と仲が良く、
家族の調停役もよく果たしていた。
オリガには兄のアレクサンドル、
弟のコンスタンティン、ニコライ、ミハエルがいた。
姉妹達には姉のマリヤと妹のアレクサンドラがいた。
オリガは「オリー」、アレクサンドラは「アディニ」と呼ばれていた。
女性の家庭教師によると、オリガは七歳で
英語・フランス語・ロシア語の読み書きが
上手にできたという。
オリガは政治・歴史・宗教の授業が特に
好きだった。
また、物理学・化学の実験、自然科学などにも強い興味を抱いていた。
オリガは、父方の叔母でザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国のカール・フリードリヒ大公に嫁いだ、マリヤ・パヴロヴナや、
その娘で叔父のプロイセン国王ヴィルヘルム一世と結婚した、従姉妹のアウグスタ、
そしてオルデンブルク大公のゲオルク、
後にヴュルテンベルクのフリードリヒに
嫁いだ、エカテリーナ・パヴロヴナや、
メクレンブルク=シュヴェリーン公爵
フリードリヒ・ルートヴィヒと結婚した、
もう一人の叔母のエレーナ・パヴロヴナなどとも、数回会っている。
このように、オリガの周辺には、
ドイツ諸国に嫁いだ、ロマノフ家の親戚の
女性達が多かった。
また、ロシア帝国に嫁いできた、
祖母のマリヤ・フョードロヴエナや、
母のアレクサンドラ・フョードロヴエナも、それぞれ、ヴュルテンベルク公女や、
プロイセン王女だった。
このように、ロマノフ家とドイツ諸国の縁組は多かったのである。中でも、特にプロイセン王家とロマノフ王家の関わりは深かった。
1835年、オリガ十三歳の時に、
五歳年上のオーストリア大公のシュテファン・フランツ・ヴィクトールと婚約。
彼は、知的で信頼できる青年と言われていた。
この婚約は、ニコライ一世とメッテルニヒ
主導で行われた。オリガ達は、お互いの
印象は悪くなかったものの、
しかし、政治的な理由から、十年間も婚約
期間が続いた結果、結局縁談はまとまらなかった。事実上、この1845年に婚約は解消された。
1839年の七月二日に、冬宮の礼拝堂で
姉のマリヤが、バイエルンのロイヒテンベルク公爵マクシミリアン・ド・ボアルネと結婚した。冬宮には豪華な花嫁道具が用意されていた。
山のような陶磁器、テーブルリネン、クリスタルまたは銀、家具と多くの家財道具、銀と金の化粧机、生地、毛皮、レース、そして結婚衣裳には多くの宝石が添えられていた。
特別な宝石箱には、サファイヤとエメラルド、トルコ石にルビー、あるいは金の装身具が入っていた。
二人の馴れ初めは、1837年からマクシミリアン・ド・ボアルネが、何回かサンクトペテルブルクを訪れた時であった。
マリヤとマクシミリアンは、恋愛関係に
なり、結婚を望んだ。
しかし、二人の結婚に、ニコライ一世は
反対を示した。
マクシミリアンが、かつて兄アレクサンドル一世と戦った、ボナパルト一族の人間であった事である。
(彼の父はナポレオンの前妻のジョゼフィーヌ皇后の息子の、ウジェーヌ・ド・ボアルネだった。)
また、彼の家系がいわば成り上がりであり、貴賤結婚に当たる事、
しかし、最終的にはニコライ一世は、
この長女の結婚を許した。
1338年の十二月に、二人の婚約が祝われた。
しかし、ロシア宮廷では、マクシミリアンは人々の意地悪と侮蔑に晒されていた。
オリガは、将来の義兄の彼に、好意的に接した。
結婚後、マリヤ夫妻は、サンクトペテルブルクに住む事になった。
1840年の7月6日に、アレクサンドラ皇后の父でオリガ達の祖父である、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が死去した。ロシア皇帝一家は、五日後の十一日に喪に服した。
その後、一家はニコライ一世の姉でオリガ達の叔母の、マリヤ・パヴロヴナ大公妃の
住む、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
大公国を訪れた。
マリヤは大歓迎をしてくれ、
文化の香り高いヴァイマルに、皇帝一家は
感心した。
マリヤ・パヴロヴナは、アンナ・アマーリエ大公妃が始めた「ムーゼの宮廷」という、
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの文化的な宮廷を引き継ぎ、ゲーテ、シラー、
ヘルダー、ヴィーラントなどの著名な作家や芸術家、学者達を招聘し、学問や芸術の振興に力を入れた。
また彼女は、福祉事業にも熱心であり、
貯蓄銀行協会も設立している。
またマリヤ・パヴロヴナは、作曲家のフランツ・リストや、クララ・ヴィーク(後のシューマンの妻クララ・シューマン)
を招き、ロシア皇后アレクサンドラのために、コンサートまで開催してくれた。
オリガはこの叔母から影響を受け、また叔母の事を尊敬していた。
皇帝一家は、皇后の曾祖母のゲオルク公爵夫人が住んでいた、ダルムシュタットも訪れている。
1844年の1月には、ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムと妹のアレクサンドラが結婚した。オリガは、結婚について妹の方に先を越されてしまう事になった。しかし、このアレクサンドラの結婚生活は、ほんのわずかな時間だった。
1844年の7月29日に、悲しい報せが皇帝一家の許に届いた。ヘッセン=カッセル=ルンペンハイムに嫁いでいたアレクサンドラが、わずか十九歳で生まれた息子と共に、帰らぬ人になってしまったのである。
わずか、半年の結婚生活だった。
この春、久しぶりにペテルブルクに戻っていた妊娠中のアレクサンドラは、すでに病気にかかっていたのだった。
家族は、果てしない喪失感と悲しみに襲われた。オリガは、すでにドアが閉められた、
かつてのアレクサンドラの小さな部屋の前を思わずいつまでも歩き回った。
1846年に、家族でシチリアのパレルモを訪れていたオリガは、そこでヴュルテンベルク王太子のカールと出会った。
カールは思慮深く、また会話の楽しい好青年の様子だった。旅先での出会いという、
ロマンチックな状況もあり、オリガはたちまちカールに惹かれていった。カールは、
侯爵夫人のセッサ侯爵夫人の家に滞在中だった。二人は意気投合していた。
前記のように、何年もシュテファン・フランツ・ヴィクトールと婚約期間が続いた後、
結局縁談がまとまらなかった事もあり、
すでにオリガは二十四歳になっており、
これは当時の王族女性としてはかなり遅めの結婚になり、オリガの中には焦りのようなものもあったのかもしれない。
パレルモから帰還すると、カールはすぐにオリガの父のニコライ一世に宛てて、
オリガとの結婚の許可を求める手紙を書いた。ニコライ一世は、オリガとカールの結婚を許可する。
1846年の1月18日に、カールとの婚約が成立する。
この五日後の、一月23日に、オリガはカールとの婚約成立の、喜びの手紙を書いている。