ヴィルヘルミーネ。バイロイト辺境伯夫人。 一七〇九年に誕生。
その教養や才能の他にも、フリードリヒ大王の最愛の姉としても、名高い人物である。
彼女は後年に「バイロイト辺境伯夫人回想録」というものを書き残している。
これは当時のプロイセン王家の人々や宮廷についての貴重な証言も多く、史料的価値がなかなか高いものであるが、反面、彼女による歪曲などの形跡も、しばしば指摘されている内容でもある。
そして実は、意外に十代の頃のヴィルヘルミーネについての詳細は、彼女の回想録の中でも劇的に姿がほぼ消えている。
しかし彼女や弟のフリードリヒが、幸せな子供時代ではなかったであろうことは、確かである。 両親の不和。厳格で横暴で暴力的な父親。いわば、彼ら姉弟は火薬庫に住んでいるようなものであった。
いつでも、起こりうる、父親の国王の爆発。そして罪を負わされる子供達。
このように、幼い頃からプロイセン王家の長男や長女として、辛い父親の仕打ちに耐えることを余儀なくされていたためか、数多い弟妹達の中でも、彼らは生涯に渡って、一番深い姉弟の絆を築くこととなった。
ヴィルヘルミーネは、母親と共にいつもフリードリヒの心情に、深い理解を示した。
またフリードリヒのフランス文学愛好も、この姉の影響があったという。
一七三一年十一月二十日に、ヴィルヘルミーネはブランデンブルク=バイロイトのエルブプリンツであるフリードリヒと結婚した。更にブランデンブルク-プロイセンの同盟を強めることが目的の結婚だった。
その内に建築や音楽や美術などに高い関心を抱いていたヴィルヘルミーネは精力的に、それに取り組んだ。バイロイトを文化的な宮廷生活のセンターにすること。
独創的な庭園「エレミタージュ」、ヴィルヘルミーネ美術館、豪華なオペラ劇場の建設、首都オーバーフランケンの文化の振興、それまでの取るに足らないドイツの田舎の住居だった、バイロイトはバイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネにより、魅力的な「ムーゼの宮廷」へと変貌した。
そして彼女は少なくともその結婚当初には、とても愛情豊かな関係を彼女の若い夫のフリードリヒと築いていた。
一七三二年には、長女のエリーザベト・フリーデリーケ・ゾフィーが誕生した。
夫の辺境伯フリードリヒの情事は数多かったものの、それでもヴィルヘルミーネが脅威を感じたことは、それまでなかった。
しかしそれから、ついに現れた危険なライバル、女官だったヴィルヘルミーネ・フォン・デァ・マルヴィツの出現が、彼女に大きい悲しみをもたらすようになるが。
弟のフリードリヒとは一時期、その関係に大きな危機が訪れたこともあったが、一生を通してほぼ親密な関係を保つことができた。
この姉弟はお互いに、知的にも精神的にも、深い交流ができる相手だったのだろう。
ヴィルヘルミーネの死の二日前の、もうすぐ彼女が死にそうだという時に、弟のフリードリヒはそのことを、身も世もなく嘆き悲しんでいる。ヴィルヘルミーネは、一七五八年に死去した。
フリーデリーケ・ルイーゼ。
アンスバハ辺境伯夫人。一七一四年誕生。
一七一四年に生まれた、この二女のフリーデリーケは、とても魅力的な女の子だった。
彼女は王妃ゾフィー・ドロテアの娘達の中でも、最も美しかった。
彼女は十五歳の時、父親の命令により、彼女より二歳年上のブランデンブルク=アンスバハ辺境伯カール・ヴィルヘルム・フリードリヒと結婚した。 彼女の兄フリードリヒ二世は、彼女の資産を増やし、引き替えにアンスバハから兵士の連隊を受け取った。
それで夫がプロイセンに対してアンスバハの小さな辺境伯領地に損害賠償を求めた。
このように、最初からトラブル含みの結婚であった。カール・ヴィルヘルム。
彼は通常、「野生の辺境伯」という呼び名で知られている。これは彼のその大変な狩猟狂いから来たものである。
それ自体を捧げられて、彼は美しいフリーデリーケとまだ彼のニつの一般的な情熱を結婚して手に入れる。鷹狩りと女性達との楽しみ。
これは、それ自体も変えた。
一七三三年に息子カール・アウグストが誕生したが、四年後に死去してしまった。
強い落ち込みの下で、フリーデリーケは苦しんだ。一七三六年の彼女の二度目の妊娠で、息子カール・アレクサンダーが誕生した。
シャルロッテが彼女の姉について書いている。「私には、アンスバハからの報せがあります。姉が非常に悲しくて憂鬱だったために。私は恐れます。彼女が妊娠しているので。このように深過ぎる悲しみが、けして彼女自身のためにはならないために。」
彼女の最初に生まれた長男のカール・アウグストの死亡の後、精神的な錯乱にあるまで、フリーデリーケの憂鬱はこの一七三七年に増えた。一七八四年には、彼女の芸術的なウンターシュヴァンニンゲン宮殿を建てさせた。 残ったフリーデリーケの息子アレクサンダー。彼は一七九一年にエリザベス・グラーベンと結婚して、その結果辺境伯を辞任した。
シャルロッテ。ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル大公妃。
一七一六年に誕生。「デューレ・ロッテ」。彼女は家族からこう呼ばれていた。
とても幸せで素朴なこの子供は、常によく理解されていて、見事に明らかにした。
娘が父フリードリヒ・ヴィルヘルムの方に接近するのを嫌がる、母ゾフィー・ドロテアの脅威と圧力にも関わらず、兄のフリードリヒや姉のヴィルヘルミーネとは違い、父との愛情豊かな関係を築くことに成功した。
やがて十五歳の彼女は、兄の王太子フリードリヒの妻の王太子妃エリーザベト・クリスティーネの兄の、当時エルブプリンツだったカール・フォン・ブラウンシュヴァイク=べーヴェルンと彼女を結婚した。
こうしてシャルロッテは、この家の長女である、王太子妃エリーザベト・クリスティーネとは、これで二重に義理の姉妹となった。
それは兄フリードリヒ達の結婚式の後に、行なわれた。
シャルロッテは二年置きに子供を次々と出産し、ついに十三人もの子供の母となった。
カール・ヴィルヘルム・フェルディナント、ゾフィー・カロリーネ、アンナ・アマーリア、フリードリヒ・アウグスト、アルブレヒト・ハインリヒ、ヴィルヘルム・アドルフ、エリーザベト・クリスティーネ、アウグステ・ドロテア。 そしてゲオルク・フランツ、クリスティアン・ルートヴィヒ、ルイーゼ、フリーデリーケ・ヴィルヘルミーネの四人は、早世した。
1736年に、カールは彼の父フェルディナント・アルブレヒトの死後、正式にブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公爵となり、そして家族はブラウンシュヴァイクへと引っ越した。 ここでは、シャルロッテはそれを十分に楽しんだ。既に子供の頃からとても愛していた音楽。この都市で彼女は夫とオペラや演劇などを楽しむ文化的な生活を送った。
そして彼女のドイツ文学への愛好。
また特にこのシャルロッテの二女のアンナ・アマーリアは、ザクセン・ヴァイマル大公エルンスト・アウグストと結婚し、芸術や文学の薫り高い有名な「ムーゼの宮廷」を主催した、大変な才女だった。
ゲーテとの交流も、有名である。
また美しい四女のエリーザベト・クリスティーネ・ウルリーケは、彼女の弟の王子アウグスト・ヴィルヘルムの息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム二世、つまりいとこ同士で結婚し、彼女はプロイセン王太子妃となったが、国王の放蕩や彼女自身の浮気と妊娠などもあり、結局早くに離婚した。
シャルロッテは、一八〇一年に、八十五歳の高齢で、ブラウンシュヴァイクで死去した。
ゾフィー。ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯夫人。一七一九年に誕生。
彼女の父の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、決定した。ゾフィーとブランデンブルグ=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムとの結婚を。大選帝侯の孫。
したがって、この辺境伯領地だけを確立しました。このゾフィーの夫は彼女より十九歳も年長で、姉のフリーデリーケの夫と同じく、彼も大の狩猟好きだった。
しかしすぐに、それはわからなかった。
彼女が、「野生の辺境伯」と結婚したアンスバハの姉のフリーデリーケ・ルイーゼと同じように、彼女の夫のフリードリヒ・ヴィルヘルムの情熱が、自分自身を狩猟と愛人に制限したのでも。更にその上、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯夫妻の五人の子供達の内、二人の息子のゲオルク・フィリップとゲオルク・フリードリヒ・ヴィルヘルムは、相次いで早世してしまった。
子供達の中では、娘達の長女のフリーデリーケ・ドロテア・ゾフィアに、二女のルイーゼと三女のフィリッピーネだけが成人した。
こうして然るべき相続人を、アンスバハの辺境伯領地は失ってしまうことになった。
ゾフィーの長女アンナ・ルイーゼは、ゾフィーの弟で彼女にとっては叔父の、フェルディナントと結婚した。フリードリヒ大王の末弟。 そして、一七八八年の、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の治世に、ブランデンブルグ-プロイセンに、再びシュヴェートは返還された。しかし、ゾフィーは一七六五年に、四十五歳で死去した。
ウルリーケ、スウェーデン王妃。一七二〇年に誕生。 彼女は積極的に軍隊に関心を示した子供だったため、父親のフリードリヒ・ヴィルヘルムを喜ばせた。
一時、兄の国王フリードリヒは彼女を自分と彼女の妹で未婚のまま、廷臣との子供を身ごもるという、不始末をしでかしたアマーリエと共に、クヴェトリンブルク女子修道院に送ることも考えていた。
しかし、更にこのもう一人の妹の扱いについて様々に検討した結果、スウェーデン王太子のアドルフ・フレドリクと結婚させることに決定した。娘の一人が将来のスウェーデン王妃となることに、母親のゾフィー・ドロテアは栄誉と思い喜んだ。
例えその結婚相手が、イギリス王子でなかったとしても。
ウルリーケ達の結婚式は一七四四年七月十七日に、ベルリン宮殿で行なわれた。
おそらく、政略結婚ということで、ウルリーケも、特に結婚相手のアドルフ・フレドリクに対して、期待は抱いてはいなかったと思われるが、そして彼と初めて会った時に、思いがけず、彼を好ましい男性だと感じ、彼女は心地良い驚きを感じた。
それで少なくとも、ウルリーケの結婚自体は、幸福なものとなった。
結婚二年後に、初めての息子グスタフが誕生した。一七七一年にスウェーデン国王グスタフ三世として即位する長男。
そして更なる二年の後、次男のカールが後に続いた。 後のカール十三世、一七五〇年には三男フレドリク・アドルフ、一七五三年には長女ゾフィー・アルベルティーネが誕生した。 一七四七年、国王フリードリヒはロシアからの脅威が発生した場合に備え、スウェーデンとの同盟を締結していた。
ウルリーケは彼女の夫のスウェーデン国王アドルフ・フレドリク即位により、一七五一年にスウェーデン王妃になった。
二人の結婚記念として、結婚時に国王フレドリク一世から贈られた、ドロットニングホルム宮殿で、機智に富んだ彼女は、芸術を愛する兄のフリードリヒに倣い、彼女も華麗な宮廷を開き、それはフランスに次ぐ華やかなものであったという。
またウルリーケは、ドロットニングホルム宮殿に、劇場も造らせている。
しかしウルリーケは、彼女の母ゾフィー・ドロテアのような、強い家系についての誇りと無意識の階級意識も抱いており、そうしたこともあってか、夫の国王アドルフ・フレドリクとの夫婦関係自体は申し分ないものの、政治の実権は長い間、スウェーデン議会のキャップ党に握られているのが不満であり、何とか国王の実権を取り戻そうと試みた。
キャップ党というのは、ブルジョア的で自由主義政策、親イギリス的であった。
そして当時のスウェーデン議会の二大政党として、この党と党派争いを繰り広げていた、ハット党というのは、貴族的で重商主義政策、親フランス的方針を基本政策としていた。 一七五五年にスウェーデン国王夫婦が一部の減らされた国王としての特権を回復しようとした時、結果としてほとんど彼の王座を失うこととなってしまった。
しかしその後、彼らの長男、王太子グスタフ、その後スウェーデン国王のグスタフ三世の働きによって、キャップ党支配によるスウェーデン議会を打倒することのに成功した。ウルリーケは一七八四年に死去した。
彼女の兄フリードリヒの死去の二年前。
アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン。一七二二年に誕生。
彼は喜んで女たらしとして現れた。
芸術的才能も持ったアウグスト・ヴィルヘルムは、 一七四一年には、プロイセン軍の騎兵の少将に任命され、彼は、第一次及び第二次シュレージエン戦争のいくつかの戦いに参加した。 一七四二年の一月六日、アウグスト・ヴィルヘルムは、王妃エリーザベト・クリスティーネの妹である、ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公女ルイーゼ・アマーリエと結婚した。
一七四四年、アウグスト・ヴィルヘルムは、子供のいない兄の国王フリードリヒから、正式に自分の後継者としての指名と称号を受け取った。こうした彼の王家の兄との最初の頃の良好な関係は、ゾフィー・マリー・フォン・パンヴィッツという十七歳の女官と結婚するために現在の妻と離婚したいという、アウグスト・ヴィルヘルムの希望で、一七四六年に既に悪化し始めた。
結局、兄の国王フリードリヒに、アウグスト・ヴィルヘルムは妻との離婚とゾフィーとの結婚を許されなかった。
ゾフィーの方はその後、ヨーハン・エルンスト・フォン・フォス伯爵と結婚し、王妃ルイーゼの女官長にまでなっている。
後に真面目で礼儀作法を大切にする女官長となった彼女にも、かつてはこんな情熱的な恋の思い出があったのであった。
しかし、その後、彼女の姪のユーリエ・フォン・フォスとアウグスト・ヴィルヘルムの息子の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世との間で、再び同じような恋愛ドラマが繰り広げられることとなる。 「七年戦争」の勃発前に、アウグスト・ヴィルヘルムは、イギリスへの兄フリードリヒの接近に反対した。
一方で、彼は最終的にコリーン(プラハの東)の戦いの後に退却、プロイセン軍に自分自身の一部の命令を受けたように、アウグスト・ヴィルヘルムは、常に独立した指揮権を要求し、歩兵の一般に昇格。
コリーンの敗北の規模を誇張し、強くフリードリヒの戦術を批判した。
だがアウグスト・ヴィルヘルムは、軍事的に失敗し、ほぼ絶望的な状況を、国王フリードリヒにもたらした。
一七五七年六月のコリーン(プラハの東)の敗北で、プロイセン国王フリードリヒはこう書いた。 「彼らは、知らない。彼らが、何を望んでいるのか。」
憤ったフリードリヒは更にこう書いた。 「彼らは、ハーレムを征服する!」
弟のアウグスト・ヴィルヘルムと女官ゾフィー・マリー・フォン・パンヴィッツとのことについての、痛烈な皮肉だった。
この彼の兄の激怒は、アウグスト・ヴィルヘルムの立場に、大変な影響を及ぼした。
それにも関わらず、アウグスト・ヴィルヘルムは、コリーンの戦いにおける、自分の軍事的な過ちを、けして進んで認めようとはしなかった。 こうして自尊心を大きく傷つけられた彼は、オラニエンブルクに引退した。
そして苦悩したまま、一七五八年に三十六歳で死去した。それから十六年後に、彼の息子はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世になった。
アマーリエ、クヴェトリンブルク女子修道院長。一七二三年に誕生。
ゾフィー・ドロテアは、今まで十七年の間に、十一人の子供を出産した。
そして一七二三年の十一月九日に、王女アマーリエを出産した。
しかし三十六歳になっての今更という感じの妻の妊娠に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムは怪しみ、またしても、その彼の理不尽な妻の不貞への疑惑が、彼の心の中に湧き上がって来たのである。 恐ろしい疑いが、彼を苦しめた。 国王はこの末娘の誕生後、不機嫌な様子で王女を出産した後の王妃に、なかなか会いたがらなかったという。
アマリーエはそうだった。後のトレンクとの恋愛スキャンダルでも特徴的なものとして見られる、非常に頑固な女の子、そしてその頑固さが、顕著に反映された生涯を送ることになった。
アマーリエはチェンバロやピアノを見事に弾きこなす、音楽的な才能と高い知性を持っていた。更に彼女は音楽理論に関する著作の執筆までも、行なっている。
しかし、アマーリエは彼女の母方の曾祖母である、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーのような辛辣さも持っていた。
そしてアマーリエには若い頃には、近衛兵で帝国男爵のフリードリヒとの情事があったと思われる。 彼らは一七四四年のベルリンでの、アマーリエの姉のウルリーケの結婚式の時に、出会っている。
この妹の恋愛スキャンダルに激怒した兄のフリードリヒは、一七四五年にトレンクを逮捕し、グラーツ要塞に監禁し、妊娠していた妹のアマーリエは、クヴェトリンブルク女子修道院で秘密裏に出産させた。
プロイセン王女であるアマーリエが、ただ純粋にこのトレンクのことを愛している、これは何よりも王家の名誉と誇りを重んじる国王フリードリヒにとっては、信じがたい侮辱だった!果たしてこの脱出に、アマーリエの助けがあったのかは不明だが、トレンクはこのグラーツ要塞の監禁から脱出することに成功した。
その後彼はフランスに亡命し、そこで暮らすようになったが、一七九四年のフランス革命時に、スパイの疑いをかけられ、ギロチンで処刑された。 アマーリエの方は、そのまま、おそらく神に生涯を捧げるというより、そのままトレンクへの愛に生涯を捧げ、一七五六年からクヴェトリンブルク女子修道院長として、この修道院で修道女としての生活を送った。姉のウルリーケと結婚したスウェーデン王太子アドルフ・フレドリクとの結婚の話が最初にあったのは、この妹のアマーリエの方だったが、明らかに、彼女のこの風変わりな性格は、結婚には適していなかった。
またいつ他人に対して容赦なく向けられるかわからない、彼女のその尖った舌は、彼女の予測できない性格以上に、人々をはらはらとさせ、恐れさせた。
そして、上記のように不本意に、恋人のトレンクとの仲を引き裂かれた、アマーリエの憤りや不満も関係していたのか、その内に彼女は「怒れる妖精」というあだ名で呼ばれるようになり、彼女のその持ち前のこの毒舌にも、ますます磨きがかかっていったようである。しかし彼女も、やがて兄フリードリヒとは和解したのか、その内に彼の許を訪れたり、活発に手紙のやり取りをするようになった。アマーリエは、兄フリードリヒの死去の一年後の一七八七年に死去した。
ハインリヒ・フォン・プロイセン。
一七二六年に誕生。 ハインリヒ。
正確な指揮官。 彼は軍人としても外交官としても、優れた才能を持っていた。 ハインリヒは、既に一七四〇年、十四歳の時から、一八〇六年まで旧プロイセン第35歩兵連隊の大佐・司令官に任命されている。
そして、オーストリア継承戦争にも参加した。 彼はプロイセン軍の戦略と外交をしばしば批判した。彼はプロイセン軍の将軍として、フリードリヒよりも、より慎重だった。ハインリヒは第一次シュレージエン戦争に参加した後、一七四四年五月から、ボヘミアのコトゥジッツに副官として、第二次シュレージエン戦争に参加した。
この戦いでは、一時、彼はほとんど捕らえられそうになった。 その後、彼はホーエンフリートベルクとの交戦において、自分自身の能力を証明した。
一七四五年七月に、彼はトルトノフの成功した衝突から退却した。
彼がその後天然痘にかかり、吐き気を催したので、彼は戦線から一時、去らなければならなかった。 一七五六年からの七年戦争の発生で、ハインリヒはプロイセン軍将軍として、ザクセンへの侵入を命令された。
一七五七年二月、プラハの戦いにおいて、オーストリア・ロシア連合軍の右翼に対する、プロイセン軍の最初の攻撃に成功した。
そしてそれは、将校と兵士達によって称讃された。 更にハインリヒは続けて彼の兄フリードリヒに、一旦攻撃を止めるように訴えたが、しかしこの進言は無視され、攻撃は続けられた。ハインリヒは一七五七年の六月の、元帥ジェームズ・カイト達とのコリーンの敗北の後、リトムニェジツェの衝突でザクセン軍を退却させて、有名になった。
その後、ハインリヒは、フランス・帝国軍との戦いを通し、エルベ川方面を占拠したザクセンから、その時ブラウンシュヴァイク公国爵領土を奪還した。
一七五九年のクネーベルスドルフの会戦の後も、彼は非常に活発な働きを見せた。
一七六〇年のブレスラウでのオーストリア・ロシアの連合軍との戦い、そして一七六二年十月に、ザクセン選帝侯領土で行われた、この七年戦争最後の大規模な戦いでは、ハインリヒはこの戦いを勝利に導いている。
国王フリードリヒは、彼の弟ハインリヒの七年戦争での働き振りを称賛した。
そして更にこの七年戦争の後、ハインリヒは巧みな外交官の役割を果たし、ストックホルムとサンクトペテルブルグへの異なる旅行のために、最初のポーランド師団を準備した。ポーランド国王の打診の話は二回、彼に対して行なわれた。しかし、フリードリヒ二世はこれに不快感を示し、彼から拒否された。
そして一七七二年に、フリードリヒニ世は、彼を再びサンクトペテルベルグに派遣した。そして他の各国も含めた交渉の結果、最終的に、オーストリアも含め、各国で分割条件について同意が成立し、サンクトペテルブルグで、ポーランド分割について一七七二年八月に、署名される。
今回のハインリヒの外交官としての働きによって、この第一次ポーランド分割による、プロイセンの領土獲得は成功した。
この分割の結果、ロシアはドューナとドニエプルの東側を、オーストリアは東ガリチアと南ポーランドを、そしてプロイセンはエルムラント司教領と、ダンツィヒ、トルンを除く西プロイセンを領有し、スタニスワフ二世はワルシャワから残ったポーランド領土を統治することになった。
この中で一番獲得した領土が少なかったのは、プロイセンとなるが、国王フリードリヒにとっては、この領土の多少は問題ではなく、何よりもこれにより、ブランデンブルク本領とプロイセン公国がこれにより一体となり、このようにこの分割で西プロイセンを併合することにより、名実共にプロイセンは「プロイセン王国」となったのである。
なおエカテリーナ二世からは、ハインリヒにヴァラキアに王国を建設し、更にそこの国王にハインリヒを据えるという計画が持ち掛けられたこともあったが、やはり国王フリードリヒによって拒否されている。
一七八六年のフリードリヒニ世の死去後も、ハインリヒはプロイセンの国政や政治の中心人物として、活動し続けることを望んでいた。 そして引き続き、新国王で甥のフリードリヒ・ウィルヘルムニ世の助言者ともなっている。 なおハインリヒは一七五二年にヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=カッセルという、美しくて魅力的な妻を迎えていたが、兄と同じく、彼もこの妻に基本的に無関心で、ほとんどほったらかしていたことなどから、彼も兄のフリードリヒと同じく、同性愛者だったとする見方もある。
また自分に子供がいなかったせいもあるのか、彼も軍人と音楽家としての才能を持っていた甥のルイ・フェルディナント王子を大変に可愛がり、一時は、ルイ・フェルディナントの義兄で、プロイセン国内のポーランド領のポーゼン大公国総督のアントン・ラジヴィウと共に、彼のポーランド国王即位計画の話を持ち掛けてやったり、最も愛していたこの甥のために、莫大な遺産を残してやった。
そしてこのことにより、父親のフェルディナント王子の極端な吝嗇とその彼自身の派手な生活から、度々多額の借金を抱えることになった、この甥のルイ・フェルディナントの窮状を、やっと救ってやることになった。
一八〇二年に死去。
フェルディナント・フォン・プロイセン。
一七三〇年に誕生。 当時王妃ゾフィー・ドロテアは、既に四十三歳だったが、彼女の最後の子供が一七三〇年五月二十五日に生まれた。 ホーエンツォレルン王家の末子。
更にしばしば不機嫌な、そして、特別な才能も持っていない、フリードリヒの末弟。
彼もホーエンツォレルン王家の王子として、兄達と同じく、プロイセン軍に入隊し、軍役に就いた。 それなりの戦功を見せたことも、時にはあったようである。
しかしフェルディナントはその内に、肺病にかかってしまい、七年戦争の間に、軍務から早々に引退することになってしまった。
こうしてあまりにも早くに終わってしまった、彼の軍人としての経歴。
その時、フェルディナントは、まだ三十歳にもなっていなかった。
こうして早々と軍務から退くことを余儀なくされた王子フェルディナントは、フリードリヒスフェルド宮殿に隠棲することになった。一七五五年に彼の妻になる、アンナ・ルイーゼ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート。 彼の姉のブランデンブルク=シュヴェート辺境伯夫人ゾフィーの娘。
フェルディナント。病気がちな。そしてむら気、そしてそのおそらく彼には際立った才能がなかったことや、その自分の病気などからくる、兄弟達への重苦しい劣等感から明らかに、彼は更に苦しめられた。
そして学者振りたがる、更に友人がいない。またある当時の人物からは「全く重要でない人物」などと酷評されている。
更に彼は大変な吝嗇家でもあった。
彼の妻の王子妃アンナ・ルイーゼは、フリーデリーケ、フリードリヒ・ハインリヒ、ルイーゼ・フリーデリーケ、ハインリヒ、ルイ・フェルディナント(フリードリヒ・ルートヴィヒ・クリスティアン)、パウル、アウグストの七人の人の子供達を出産した。
しかし、その中で無事に成人したのは、ルイーゼ・フリーデリーケ、ハインリヒ、ルイ・フェルディナント、アウグストの四人のみであった。 だが、その内に、ルイ・フェルディナントと一番仲の良かった兄のハインリヒ王子は、従軍中に十九歳という若さで病死した。そして王太子ヴィルヘルム、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム一世との悲恋で知られる、後のエリザ・ラジヴィウの母ルイーゼ・フリーデリーケは、ベルリンで著名なサロン主催者として知られるようになっていく。
そして彼女の弟ルイ・フェルディナント。
この姉弟は二人とも父親のフェルディナントには全く似ておらず、二人とも金髪に青い瞳を持った、美しい子供達で魅力的に成長した。 そして彼らは、大変に仲の良い姉弟だった。
王女ルイーゼ・フリーデリーケは、ポーランド貴族のアントン・ラジヴィウ侯爵と恋愛結婚をした。彼ら夫婦はベルリンに大きな館を構えた。そして彼女は結婚してからも、ベルリンの社交界で「王女ルイーゼ」であり続けた。結婚してもそれまでと変わらず多くの女官を抱え、自分の両親の宮殿でも宮廷においても、相変わらず重要な役割を果たしていた、このような公的な宮廷生活と共に、彼女はこれとは全く違う個人的な生活をも送っていた。ラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケの邸には絶えず、芸術家、学者、音楽家そして貴族達が出入りしていた。
彼女のサロンの特徴としては、彼女のそのプロイセン王女という出自から考えると、このように大変に幅広い人々を館に受け入れていた。 そしてルイーゼ・フリーデリーケは、会話に対する類まれな才能に恵まれ、多様で、時には楽しくないこともたくさんあるサロン全体を行き返らせることができた。
更におそらくこのドイツ方面で、昔のサロンの話術を心得ていた最後の女性でもあった。対象を深く掘り下げて議論するというよりも、説得力のある見解や、生き生きとした表現力が勝っていた。 そして姉と同じく金髪に青い瞳を持ち、更に六フィートものすらりとした長身の、ルイ・フェルディナント王子は、様々な教養の他にも、優れた軍人の才能を発揮し、またホーエンツォレルン家の人物として、彼も音楽的な才能があり、かつて叔父のフリードリヒ大王が、という曲を作曲した時に、バッハからなしで称賛を受けたように、彼も数々の見事な曲を作曲し、共和制支持者として有名だったベートーヴェンから、同様の称賛を受けている。
また彼の曲は、ショパンなどの、ロマン派の音楽家達にも影響を与えたとも言われている。 そしてこのように才気ある王子であったルイ・フェルディナントは、フリードリヒ大王や、やはり彼ら同様に音楽の才能に恵まれていた、叔母のアマーリエ、そしてこれも叔父であるハインリヒからも可愛がられている。
またこのように、魅力的な彼は数々のロマンスも多く、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世王妃ルイーゼの妹のフリーデリーケや、有名なユダヤ女性のサロン主催者として名高い、ラーエル・ファルンハーゲンの親友としても有名な、ベルリンのユグノーの枢密顧問官セザールの娘のパウリーネ・ヴィーゼルなどとの恋が有名である。
強い愛国心を持つ彼は、早い内からナポレオンのドイツ方面への勢力拡大に強い警戒を示しており、ナポレオンとの主戦論者であった。そして一八〇六年の、ナポレオン軍とのザールフェルトの戦いで、三十三歳で戦死した。このことにより、それまでの彼の有名な形容の言葉であった、「プロイセンのアポロン」という、まさにそのままの存在として、王妃ルイーゼと同じく、プロイセンの伝説となった。そして常に病気がちだったフェルディナントは、そのため、かえって気を使って養生したのが幸いしたのか、一八一三年に八十三歳という高齢で死去した。