ルイーゼはあまり好意的に受け入れられていなかった。「私には落ち着きがありません」
的確なルイーゼの自己評価である。
屈託のないルイーゼは、楽しいおしゃべりを好んでいた。だが、ルイーゼは別の一面も
持っていた。
ダルムシュタットにいた時、「ルイーゼは時々冷ややかになる事があった。」
と妹のフリーデリーケが言っている。
しかし、人々からはまた「温かい心を持っている」とも言われている。
ルイーゼに関しては、気さく、遊び好き、美しい、博愛主義、冷ややか、そしてカリスマだという事が繰り返して言われている。
また、ルイーゼは大のダンス好きでもあった。
自由気儘なルイーゼにとっては、
宮廷での王太子妃としての公式行事への参加は、苦手な事だった。
ルイ・フェルディナント王子は
「恐るべき異端児」とルイーゼの事を呼んだ。
ルイ・フェルディナントは、1772年に
フリードリヒ大王の一番末の弟アウグスト・フェルディナントとアンナ・エリーザベトとの間に生まれた。彼はフリードリヒ・ヴィルヘルム
王太子の父フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の
いとこに当たる。
ルイ・フェルディナントの父親は病気がちで気難しく、母親は気が変わりやすく、
短気な性格だった。
2人は概して息子に無関心な親だった。
ルイ・フェルディナントは幼い頃からピアノの
教育を受け、ベートーヴェンからも
絶賛された程の、演奏の腕前を持っていた。
彼がその生涯で作曲した曲は13曲に及ぶ。
また彼は音楽だけではなく、数学・文学・
歴史・哲学にも優れた才能を示した。
また軍人としても、相当な能力を持っており、
これまでのポーランドやフランスとの戦争などでも軍功を上げていた。
彼は情熱的な長身の美男子で、ベルリン宮廷に多くの恋人がいた。
ルイ・フェルディナントは長年に渡り、
ルイーゼや他の多くの女性達の憧れの的になっている。
ルイ・フェルディナントは、
今まで銀行家の娘ヘンリエッテ・フローメや
友人でロマン派の女性作家ラーエル・レーヴィン=ファルンハーゲンのサロンで出会った、
彼にとって運命の女性となるパウリーネ・ヴィーゼルなどと浮名を流した。
彼は優れた音楽家でもあった。
ハ短調のピアノコンサートの時には、
根っからの共和制主義者だったベートーヴェンも、その演奏を称賛している。
なおこの少し後にベートーヴェンは、
ナポレオンに交響曲『エロイカ』を進呈して
いた。またロベルト・シューマンも、「全ての王子達の中で最もロマンティックな人物だ。」
と感心している。
しかしゲーテは「彼は無思慮で向こう見ずな所がある。」と彼の事を心配する、
的確な批評を残している。
実際に1772年のマインツ包囲では、
その性格が災いしてオーストリア軍の射程距離に入ってしまい、負傷した。
しかし、女性の心のこもった手当てのおかげで、比較的早く回復する事ができたのだった。
彼は優れたダンスの名手でもあり、
宮廷の舞踏会でよくルイーゼの相手を務めた。
1805年にベルリン宮廷を訪れた、
オーストリアのリーニュ公爵カール・ヨーゼフは彼について
「彼は友好的で優雅で輝かしく、さながら軍神マルスとアドニスが混在しているかのようだった。
そしてその人柄は古代ギリシャの英雄アルキビアデス、七賢人のソロンを合わせた如くだった」と報告している。
極度に保守的な将軍で政治家だったルートヴィヒ・アウグスト・フォン・デァ・マルヴィツでさえ、「美しきアポロン、彼は驚嘆すべき、優れた諸々の性質を兼ね備えている。この王子は宮廷中の全ての女性達から愛されている。」と彼の事を絶賛している。
ルイ・フェルディナントの姉のラジヴィウ侯爵夫人ルイーゼ・フリーデリーケは彼の事を「夢の王子」と言っている。
ルイーゼも彼について「真のプロイセン人の態度、偉大で美しきアポロン。」と絶賛している。また『戦争論』で名高いクラウゼヴィッツも、「その気高い表情、高い額、やや曲がっているが形の良い鼻、青い瞳の大胆な眼差し、
そしてその瞳の生き生きとした色彩、
ブロンドの巻き毛。」と強い称賛を込めて記述している。
ルイ・フェルディナントは才能に溢れた、
優雅な王子だった。
彼は趣味の良い邸に住み、教養を深める事も怠らなかった。
ゾフィー・フォン・フォスは、「王太子妃ルイーゼは、この若き王子に心からの友情を抱いた。」と言っている。
彼は1793年のセレモニーにも
客として招かれているが、この時の妻達2人との関係と比べ、彼とその夫達との間には冷ややかで張り詰めた空気が漂い、まだ打ち解けていなかった。
王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
この頃から国王の指示で、紛糾する外交などの
国事に関与していくようになった。
とはいえ、まだルイーゼはのんびりとした新婚生活に夢中になっていた。
この間、ベルリン宮廷では立て続けに、
カーニバル、連日のコンサート、オペラ鑑賞、集会、軽い昼食、お茶会、舞踏会が行われた。そしてルイーゼはその全てに参加した。
そんな時宮廷中のスキャンダルが起こった。
オラニエンブルク宮廷で、
メッテルニヒと再会したルイーゼは彼と会えた喜びと彼への称賛を隠そうとしなかったのである。
その時のルイーゼの振る舞いがコケティッシュだとして、たちまちベルリン宮廷での批判の的になった。
「君の振る舞いはマナー違反だ。」
とフリードリヒ・ヴィルヘルムは、
ルイーゼを非難した。
しかし、ルイーゼの方は「些細な事です。」と
答えた。
ルイーゼ付きの女官フォス伯爵夫人の日記には、ルイーゼの宮廷での頻繁な慣習違反についての不満が、数多く記されている。
更にルイーゼは、時間を守らない事も度々
あった。
これはたぶん、当時のベルリン宮廷の式典に
次ぐ式典の日々に、彼女が疲れきっていたためだと思われる。
1794年の1月26日、
ベルリン宮廷の仮面舞踏会でルイーゼは、
ルイ・フェルディナントとダンスを踊った。
しかし、この時もルイーゼの態度がコケティッシュだとして、宮廷中は再び大騒ぎになってしまった。
ルイーゼはフォスからも注意されたが、
「私は納得できません。」と不満を洩らしている。
フリードリヒ・ヴィルヘルムもこれには嫉妬を感じ、とうとう父のフリードリヒ・ヴィルヘルム二世が、息子夫婦の仲裁に乗り出す事になった。彼は息子に、ルイーゼは最終的には夫の言う事に従う女性だなどと諭した。
その後フリードリヒ・ヴィルヘルムは
「君の振る舞いが、2人の関係を悪化させる
発端を作った」とルイーゼに言った。
その後2人の間でこれ以降、
ルイーゼは夫の彼の言う事に従うようにという事になった。
4月1日、ルイーゼは王太子フリードリヒも
参加する大演習を見物した。
4月1日、彼女は王妃フリーデリーケ・ルイーゼに宛てて「頭痛とめまいがします。」と訴えている。 フリードリヒとの約束で夫の言う事に従うようにという事になったものの、
ルイーゼはこのホーエンツォレルン家の
家風に馴染めず、不満だった。
ルイーゼは天性の自然児だったからだ。
またフリードリヒにも、気まぐれな所があった。彼は真面目で内向的だったが怒りっぽい所もあり、時折怒りを爆発させる事があった。
最良の処方箋は、ルイーゼが彼に譲歩する事だった。王太子は反論や批判に、極度に傷つきやすい所があった。
とはいえ、2人は愛し合っていた。
ルイーゼの天性の明るさと優しさと感情移入の能力により、2人は仲直りした。
やっと新婚夫婦の蜜月が始まり、
「このポツダムでの6週間の私の生活は、
反論の余地がないくらいに幸福です」
とルイーゼは手紙に書いている。
彼らはその内、一頭立ての馬車で長距離の
散歩を楽しむ事もあった。
新婚夫婦のこのような平和な暮らしが、
6週間続いた。だがフリードリヒが今年の9月まで、ポーランドに駐屯しなければならなくなり、夫婦はしばらくの間の別れを告げた。
ルイーゼはフリードリヒと長い手紙のやり取りをする事で、淋しさに耐えた。
ルイーゼは妊娠中だったが引き続き、
王太子妃としての訓練を受けなければならなかった。ちょうどこの時妹のフリーデリーケも、
第一子を妊娠中だった。
素晴らしく美しいサン・スーシ宮殿に王太子妃ルイーゼと妹夫婦ら宮廷の人々が集った。
それまで王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、宮廷中の人気者で周囲の人望厚い、
同年代のルイ・フェルディナントに劣等感を
抱く事が多かった。
特にそれが決定的となったのは、
1793年に第二次ポーランド分割が
行われた後に勃発した、
1794年の4月のポーランドの一斉蜂起の
ために、国王が6月6日に息子とルイ・フェルディナントを、ポーランド遠征に向かわせた時の事だった。
ルイ・フェルディナントは、ラフカ川の
ほとりで大いにポーランド軍を撃退した。
国王のこの作戦は、明らかに王太子のためには軽率で良くない事であった。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
この遠征でまた落ち込みが激しくなった。
しかし、妻ルイーゼとの幸せな結婚生活に
より、フリードリヒ・ヴィルヘルムは
自信を持つ事ができるようになっていった。
11月20日に、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、焦燥感に悩まされ、不平を言っていた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、
彼をプロイセン軍最高指揮官に任命した。
彼は再びボーデンハイムに駐屯する事になり、
夫婦はまた離れなければならなくなった。
2人は愛し合っていたが、フリードリヒ・ヴィルヘルムの矛盾していて近寄り難い性格
など、2人の性格の違いがしばしば問題になっていく事になる。
王太子妃ルイーゼは、夫のいるボーデンハイムの野営地を訪問した。
生憎その日は雨と雹で、閲兵式は中止となった。
ルイーゼを迎えた国王は、王太子夫妻や廷臣達と話をした。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
野営地にやって来た妻を見て驚いた。