1813年の3月にプロイセンは
ロシアと同盟し、フランスに宣戦布告する。
この際に新たに設けられた「一般徴兵制義務」の制度が時限立法としてプロイセンで
発布された。
そして「国民軍」も創設された。
やがてこの両国の動きに呼応し、
スウェーデン、イギリス、オーストリアなども、続々と同盟軍に合流していく。
ライン同盟に加わっていた国々も、
これに続く。
こうしてフランス対連合軍間で
1813年の10月6日から「ライプツィヒの戦い」が開始された。
3日間に及ぶ激戦だった。
プロイセンのブリュッヒャー将軍と
イギリスのウェリントン公爵率いる連合軍が
進撃していった。
プロイセンの数々の軍事改革の成果が
ここに発揮された。
1815年にベルギーのワーテルローで
フランス軍対連合軍側の間で、
最終決戦の火蓋が切って落とされた。
敗れたナポレオンは再び退位、
エルバ島に追放された。
ナポレオンによって次々と奪われていった
ヨーロッパ諸国の領土回復と秩序の
再構築のため、1814年9月に
「ウィーン会議」が開催された。
しかし、各国の利害が対立し、
なかなか意見の妥協ができず、
時間だけが何日間も過ぎ「会議は踊る、
されど進行せず」と揶揄された。
だが、エルバ島から再びナポレオンが
脱出を試みているとの報が入ると、
さすがに早急に意見の集約・妥協が
計られた。
各国間での協議の結果、
フランスはナポレオン戦争によって得た
これまでの全ての領土を放棄する事が
定められた。そしてプロイセンには
ラインラント、ヴェストファーレン、
ザクセン北部などの経済的に発展している
土地が与えられた。
プロイセンはこうして復興の道を
歩み始め、1840年にはルイーゼの長男
フリードリヒ・ヴィルヘルムが
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム
四世として即位、1861年には次男の
ヴィルヘルムがプロイセン国王ヴィルヘルム一世に、そして1817年にはドイツ帝国初代
皇帝ヴィルヘルム一世として即位した。
ナポレオンに抵抗し続け、彼とティルジットの会談を行ない、ナポレオンとの戦いに
力尽きるようにして早くに亡くなった事で、
王妃ルイーゼは神格化・伝説化されていった。
1900年のベルリンの新聞の調査によると、すでに当時からプロイセン王妃ルイーゼは、二十世紀で最も称賛される、ドイツの
人物となっていた。
そして、彼女の死後二百年経った現在でも、
プロイセン王妃ルイーゼは、まちがいなく、
これまでのプロイセン王妃達の中で、
最も人気がある。
王妃ルイーゼの亡くなる日まで、当時の人々の彼女を見る目は、畏敬と情熱に満ちていた。
1810年、全プロイセンは、その時、
とても若くして亡くなった王妃の死を、
深く嘆いた。
著名な文学者達のテオドール・ケルナー、アヒム・アーニムまたはハインリヒ・クライストなど。
これは、彼女の突然の死に、ひどく関係していた。 美しいルイーゼの死。彼ら当時の文学者の、感動的な詩句が、彼女に捧げられた。
1810年には、作家のマックス・フォン・シューレンドルフが、プロイセン王妃ルイーゼの死を嘆き、「王家の薔薇」と題して詩を捧げている。
そしてこれは、プロイセン王妃ルイーゼの
死去百年後の、1910年に、彼女に捧げられた、宮廷の説教師アドルフ・シュテッカーの、王妃ルイーゼを称える詩である。
「完全に、その世紀は今日それを消した。
そのプロイセンの国が、コルシカ島の抱擁の、痛烈な屈辱と打撃のために、この最も
立派な女性は、破壊された。
輝く美しさと若々しさと躍動。
全ての恵みと、美しく輝く純粋な高貴さで
飾られる。彼女は、我々の中でなおも生き残っている。
偉大なる母、女性そして王妃。
善を行うために、彼らは王冠を歓迎した。
しかし王座に留まる間、彼らは嵐を発見した。そして古いものは壊れた。将来は、暗闇の中に横たわっていた。
しかし、ルイーゼの気高い魂は、光に満ちていた。聖霊に満たされた、奇跡的な人生。
彼女は、思った。愛され、希望を抱いていた。その生涯の中で、人々に愛され、
またその死を嘆かれた。非常に繊細かつ謙虚でそして、とても強い。
そして勇気。彼女それ自身が、最も美しく
身に付けていた全てのもの。」
このように、全ての欠点を持った人間としての存在の、王妃ルイーゼから、典型的な王妃としてのシンボルが、生まれていった。
「完璧で勇敢な愛国者、愛情深い妻そして完全無欠な母。」
王妃ルイーゼに押し付けられた、王妃のロールモデル。偶像化。
プロイセン王妃ルイーゼの生涯は、1913年に、初めて映画化された。
そして、おそらく皇帝ヴィルヘルム二世の
援助により、ホーエンツォレルン博物館から、オリジナルの展示品を借りて、撮影された。このように、ずいぶん昔に、ルィーゼは神話へと変わっていった。
そしてルイーゼという一個人としては、
認識されない。
代わりに、それは人々の、プロイセンに対する、投影画面を提供した。
王妃ルイーゼは、それまでのプロイセン王家にはなかった、幸福な夫婦・家族関係から
宮廷を人間的な場所に変化させ、そして民衆に王家を親しみやすいものとして、彼らとの距離を近づけた。
またフランスの占領における、プロイセンの抵抗の象徴となっていった他にも、王妃ルイーゼは、その陽気で快活で華やかな性格から、それまでのプロイセンにはなかった、
生き生きとして、華やかな空気を持ち込んだ王妃だった。
その彼女の陽気で親しみやすい、
気さくな性格は、特に民衆に親しまれ、
そして日頃から工夫に余念がなかった、
彼女のその華麗なファッションスタイルは、
ベルリンの女性達を魅了した。
王妃ルイーゼの伝記を執筆している、伝記作家のハインツ・オーフは、おそらく王妃ルイーゼは非現実的な、そうあるべき夢のプロイセン、プロイセンの現実ではなく、プロイセンの童話を体現していたのだろうとしている。
彼女の死後すぐに国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、ルイーゼの霊廟・記念碑・碑文の建造を依頼した。
かつてルイーゼ姉妹の彫像製作をした
シャドーに、再びルイーゼのレリーフ建造が
依頼された。
王妃ルイーゼの栄光を称え、
パレツ村の教会内に、聖人達の中に列せられ、
背後には数個の星を背負った姿のルイーゼの
レリーフが製作された。
1807年にルイーゼの息子でドイツ皇帝
となったヴィルヘルム一世は普仏戦争の折、
示威的に母親のルイーゼの霊廟を訪れている。
彼は母親にまつわる鉄製十字架を、
製造させるようになった。
ルイーゼはいつしか、プロイセンで戦いに
おける守護聖人になっていった。
「ルイーゼ王妃は穏やかで穢れない」
と称えられるようになっていく。
フーケーは「国民は美しい王妃に対して
憧憬を抱いている。王妃はプロイセン王家の
守護神になった。」と言っている。
それを表す一例として、マリアという
若い女性はルイーゼの事を「ジャンヌ・ダルク」と言っている。
解放戦争では、プロイセン市民の女性も、
直接的に関わっていた。
例えばヨハンナ・ステーゲンという女性は、
プロイセン兵士達の物資の供給を手助けしていた。
1814年の8月3日にフリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、「ルイーゼ勲章」を設立した。 これは戦場で勇敢な働きを見せた者、
または戦場で傷ついた仲間の兵士を熱心に
介抱した者に贈られた。
ルイーゼの名前の頭文字の「L」を
型取って作られた物である。
また看護婦の養成を目的とした
「ルイーゼ・ギムナジウム」も創設された。
1796年にはラファエロの聖母子像を
模した、彼女と息子を聖母子に擬したヨーハン・ハインリヒ・シュローダーの絵が、
1879年と1886年にはグスタフ・リヒターやカール・ステフェックによる、
ルイーゼと息子達の絵が描かれた。
1880年にはルイーゼの次男ヴィルヘルム一世の依頼により、ベルリンのティーアガルテン地区に、彫刻家エルドマン・エンケが
手がける、ルイーゼの彫像が建造される事に
なった。
すでにある夫のフリードリヒ・ヴィルヘルム
三世の彫像と、対になるように作られる事となった。
頭にはヴェールを被り、アンピール様式の
衣装を纏った姿で前方を見つめるルイーゼ王妃の彫像が作成される。
そしてその台座には、豪華な装飾が施された。
1880年の3月10日、ルイーゼ王妃の
誕生日に皇帝ヴィルヘルム一世立ち合いの下、
除幕式が行なわれた。
赤い絨毯が敷きつめられ、花綵が風に揺れていた。
そこには灰色の髪をした満足そうな様子の
皇帝と元気一杯の孫達、そしてその隣りには
軍人と大臣達の姿もあった。
1897年にはフリッツ・シャーパーに
よる「ルイーゼ王妃とヴィルヘルム王太子」、
通称「プロイセンの聖母」の立像が製作された。幼い息子ヴィルヘルムを抱く、
ルイーゼの姿である。
この彫像は「ペスタロッチ・フレーベル・ハウス」に寄贈される事となった。
国民達がルイーゼを称える機会も、
数多くあった、特に1876年と1910年の、それぞれ生誕100周年と没後100周年には、各地で王妃にまつわる行事が行なわれた。
そして当然、子供達のお手本として、
王妃に関して詳細な話がされた。
その一例として1876年の2月には
国民学校の校長が女生徒達に向かって
以下のような授業をしている。
「ルイーゼ王妃はプロイセンが大いなる
苦難の時代に自ら国民達の蜂起のために、
犠牲となってくださいました。そして彼女の
美徳は、女性達の最高のお手本でもあります。」
王妃ルイーゼに関する出版物も、
次々と出版されるようになっていった。
その中には、児童指定のルイーゼの本も
数多くあった。
その一例である。
「ルイーゼ、プロイセン王妃。少女達のお手本となる存在です。
「子供のための歴史物語、著者 デアブーク、
オリジナルカラー挿絵、グスタフ・アンネミラー」・「マリー・フォン・フェルゼネックの
ルイーゼ物語」・「ドイツの子供達に捧げる
」。
1981年に画家のカール・ロヒュリンクと
リチャード・クノーテルの共作で出版された
絵本『プロイセン王妃ルイーゼ』の中で
「王妃ルイーゼは天使の如く穏やかで柔和で
あった、そしてその美しさと威厳は永遠に失われる事はない、そしてまたその大いなる喜びと
悲しみも。その存在は、これからも永遠に
ドイツ国民の中で生き続ける。」と謳われた。
その他のフィクションに与えた影響としては、1931年と1957年に、初めて本格的なストーリーのあるルイーゼの映画として、『プロイセン王妃ルイーゼ』・『王妃ルイーゼ、愛と悲しみの王妃』がそれぞれ、ヘンニ・ポルテン、ルート・ロイヴェリック
主演で ベルリンとバイエルンで製作された。
この他にもルイーゼ王妃に関わりの深い場所として、「ルイーゼ王妃ルート」が